第136話 アルトカルの企み
「貴様、一体何者なのだ!? なぜ貴様のような未熟なガキがその術式を発現できる!? それは秘術中の――」
雨上がりのもやの中から姿を現したのは、怒りと困惑がないまぜになった表情を浮かべた大魔道士アルトカルだった。
後方の本陣にいるとばかり思い込んでいたサンデッガ魔道士の重鎮が、こんな戦場の最前線に現れたことにサイは内心かなり驚いた。だが、驚きを態度にあらわすことなく不遜に言い放つ。
「よくご存知で。そう、天候改変術式だよ」
「ありえん! あの術式には膨大な魔力に加え多重魔方陣の構築が必須のはず。たとえ術式を盗み出したとしても、お前のような子供に到底発現できるはずない。本当は誰がやった!?」
「だから僕だって。サイプレス・ゴールドクレスト。まさか年を取って忘れちゃったんですか。自分が追放した人間を」
安い挑発だが、虎の子のはずの狂魔道士部隊を散々に蹴散らされ、余裕のない今のアルトカルには効いたらしい。
「貴様!! お前が……サイプレス・ゴールドクエストであるはずはない。あいつはとうに死んだ!」
「へえ、どうしてそう言い切れるんです? もしかしたら誰かに嵌められたのが恨めしくて、今頃になって化けて出たかも知れませんよ」
パンパンと腿を叩き、わざとらしく足を強調してみせる。この世界でも死者が現世に現れるときは足がないと言い伝えられているからだ。
「黙れッ貴様!!」
怒号とともにアルトカルが全力で放った火炎魔法。ゴウという音とともに竜巻のように渦巻く火炎が水平に発射され、猛スピードで二人に迫る。だが、サイが右手を広げて胸の前に掲げると、一瞬で淡いブルーに輝く魔方陣の盾が多重展開され、猛る火炎はその最初の一枚すら突破できずに立ち消えた。もちろん、炎はサイの指先にかすりもしなかった。
「あれ、しばらく見ないうちに随分衰えたんじゃないですか? 変なクスリの取り過ぎで術式を編む指が震えてますよ」
「何だと!!」
アルトカルの顔が真っ赤に紅潮し、額にビキビキと青筋が浮かぶ。
過剰な反応を不思議に感じたサイは、改めて彼の顔をまじまじと観察する。
ヘクトゥース中毒者に特有と言われる白目の黄変と黒目の微細な振動。それがアルトカルの目にも確かにあった。
「ああ……」
サイは思わずため息をついた。
大陸最大の魔力量を誇ると言われたアルトカルでさえ、ヘクトゥースがもたらす魔力増大効果の魅力には抗えなかったらしい。
「……サイ、まさか?」
「ええ、そのまさか、です」
ハブストルでの狂魔道士による自国民皆殺しはとてもまともな人間の立てた作戦ではないと思っていた。だが、それがヘクトゥースがもたらす狂気の沙汰だとすれば理解はできる。もちろん納得はできないが。
「……だとすれば、あいつに理屈や説得は通じないと思った方がいいね」
スリアンに警告されるまでもない。強大な魔力を持ち、かつ人間の言葉が通じないのであれば
サイは大きく息を吸い、唇を引き絞る、と、アルトカルが不意に詠唱を開始した。
「バカな! こんな所で!」
サイはスリアンの襟首をひっつかむようにして慌てて後退する。
「な、何?」
「全員下がれ!! 窒息死するぞ!!」
サイは大声で周りの味方兵士に警告を発すると、何か問おうとしたスリアンの口をふさいでさらに全速で下がる。
次の瞬間、アルトカルの眼前に王宮の大広間の数倍にも達する不可視の半球が発生した。それは光の屈折度合いでほんのかすかに視認できる程度の微妙な変化だったが、逃げ遅れて半球に飲み込まれた兵士がたちまちその場に倒れ、喉をかきむしるような動作をしたかと思うとすぐに動かなくなった。次の瞬間、半球に向かって周囲から音を立てて風が吹き込み、中央でぶつかり合って砂埃を高く巻き上げる。
砂埃がおさまった後、その場には何とも表現しがたい生臭い匂いだけが残った。
「何だい? 毒!?」
「空間中の酸素を一瞬で分解する広範囲攻撃魔法です。その場で一呼吸でもしようものなら酸欠で即死します。それを人に使うなんて!」
「酸素?」
その時、その場に片膝をついて荒い息を繰り返していたアルトカルがよろよろと立ち上がった。
「後で説明します! また来るぞ!! 鼻と口をふさいで息を止めろ!!」
再び不可視の半球が広がり、効果半径に巻き込まれた何人かの兵士が絶命した。アルトカルは勝ち誇ったように笑うが、自力では立っていられない様子で、若い女性魔道士に肩を支えられて荒い息を繰り返している。
ヘクトゥースで増幅されたアルトカルの魔力をもってしてもさすがにこれほどの広範囲魔法は負担が大きいらしい。だが、連発されては近づくのが難しい。
サイは術の間隔を慎重に見極め、接近しようと一歩踏み出した。
だが、その努力をあざ笑うかのように、アルトカルの背後から十数人のローブ姿がこつ然と姿を現した。
「あれは……」
サイは息を飲む。かつて、王立魔道士団で共に働いた先輩魔道士達だ。だが、その目はどれもどこかうつろで、唇は半開きのように歪んでいる。
「お前、サイプレスなのか?」
「どうしてガキの姿に……」
「ちょうどいい、前々からお前のことは気に入らなかったんだ!」
「お前のせいで仲間が大勢死んだ!」
「お前も死ね! 今度こそくたばってしまえ!」
先輩魔道士達は口々にサイを罵り、気勢をあげる。
嫌がらせで毎日のようにサイの机に資料の山を築いていた生意気な面構えの魔道士が大きく両手を広げて詠唱の頭句を唱え、すぐに全員の唱和になった。
「サイ、大丈夫?」
「正直面倒です。こう人数が多いと」
火炎魔法。だが数人で唱和すると全員の魔力が尽きるまで炎弾を立て続けに発射する連射攻撃魔法になる。だが、スリアンはサイの心底面倒そうな表情に違和感を感じてさらに訊ねる。
「……あれ、もしかして?」
「ええ、単に面倒くさいだけ」
ひっきりなしに飛来する炎弾を最小限の防御魔方陣であらぬ方向に逸らしつつ、サイはスリアンにかぶせたままのローブのポケットをごそごそと探る。
「サイ、くすぐったいよ。どこ触ってんの?」
「いや、あの、動かないで下さいって」
顔を赤らめながら一握りの鉄魚を取り出したサイは、それを無造作に空中に放る。
チリチリと音を立てる小さな稲妻をまとった鉄魚は、放り上げられたままの状態で空中にピタリと静止した。
「行きます!」
そして、サイのかけ声と共に、そのうちの一尾が猛スピードで敵魔道士に向かって飛翔した。
「がっ!」
中央で音頭を取っていた生意気な魔道士がのけぞって倒れた。
途端に唱和が乱れ、炎弾の発射間隔が明らかに遅くなる。
「ハイ、次!」
さらに二尾の鉄魚がブンといううなりを残して消え、一団の両脇で炎弾の砲台役をつとめていた大柄な魔道士が仰向けに倒れる。
「次!」
まとめて数尾の鉄魚が飛翔し、さらに数人の魔道士がバタバタと倒れた。
「防御がてんでダメ。実戦経験のない魔道士はこれだから……」
サイはため息交じりにつぶやいた。
奇しくも、アルトカルの陰謀のせいでサイはこちらでも異世界でもたびたび戦闘に巻き込まれた。今まで生き残っていられたのは運が良かったからだが、おかげで実戦経験だけはどの国の戦闘魔道士より豊富だ。恐らく、この大陸でサイに勝る実戦の経験を持つ魔道士は片手にも満たないだろう。
ただ一人残ったサンデッガの魔道士は、サイの顔を見てあからさまに恐怖の表情を浮かべた。身を翻して逃げだそうとした所でアルトカルが再度放った範囲攻撃に巻き込まれ、倒れてその場でけいれんしすぐに動かなくなった。
「サイプレス、今度こそ地獄に送ってやる!!」
女性魔道士に肩を支えられたまま、アルトカルが血走った目つきで叫ぶ。味方の損失など毛ほども気にしていないらしい。
「あー、もう、次から次からっ!」
サイはイライラと吐き捨てる。
周辺で続いていた一般兵同士の小競り合いもあらかた片がついたらしく、タースベレデ兵士の上げるときの声があちこちで響いている。戦闘魔道士の援護がない状態では、やはり地の利に勝るタースベレデ兵の方が有利なようで、流れは次第にタースベレデ側に傾きつつあった。
それに気づいているのかいないのか、アルトカルはもはやサイ以外の敵は目に入っていないらしい。立て続けに酸欠の範囲攻撃を繰り返したせいでもはや立っているのもやっとのはずなのに、サイに向ける憎しみの表情はいささかも緩む気配を見せない。
「アルトカル、どうしてそこまで僕を憎む?」
むしろ、自分の方がはるかにアルトカルを恨んでいいはずだ、とサイは思う。
アルトカルのたくらみで魔道士団も魔道士学校も追放され、婚約者を奪われ、社会的に抹殺された。あげくに暗殺者すら差し向けられた。
順調だったサイの人生を理不尽に破壊したのがアルトカルで、たまたま女神に拾われなかったらサイは彼のもくろみ通り野垂れ死んでいたに違いない。
タースベレデとスリアンの厚遇によってようやく日の当たる場所に戻って来られたサイだったが、そんな第二の故郷とも言えるタースベレデをなおも破壊しようとしているのがアルトカルだ。
そこまで自分が目の
「貴様が、目障りな魔道士だからだ」
だが、アルトカルはまるで道ばたのアリを見るような蔑んだ目つきでサイを睨む。
「ええ? それだけ?」
「あ? ああ」
何を今さら、とでも言いたげにアルトカルは軽く頷く。
「この大陸にこの俺以上の魔道士は必要ない。だがお前は、多重魔方陣をあっさりと現出し、忌々しい瞬間記憶能力とやらで古今のありとあらゆる魔法に精通した。それでも、おとなしく俺の下についていれば多少は目をかけてやったところだが、貴様は恩義も忘れて逃げ出したではないか!」
「逃げ出した? 僕の居場所を奪い、メープルを奪い、暗殺者を差し向けたのはお前じゃないか!!」
「貴様に暗殺者を差し向けたのは内務卿の独断だ! 私は知らん。無関係だ」
「無関係ぃ?」
サイはいきり立った。身内の権力争いで功を争っておいて、それを関係ないと切り捨てる彼の態度に心底腹が立った。
「それに、メープルは自ら俺の元に来たのだ。さぞや貴様がふがいなかったのだろう? 満足に女を喜ばせることすらできない腰抜けが!」
「なんっ!」
「それよりも、先頃アレを始末したのは貴様か? そろそろ面倒になってきた所だからちょうど良かったよ」
「何だと!?」
「で、どうだ? かつての婚約者を自ら手にかけた気分は?」
サイは怒りのあまり目の前がクラクラした。発作的に雷撃魔法を放とうと腕を振り上げかけた所で、二の腕をぐいと引っ張られる。
「サイ、口車に乗っちゃダメだ! あいつは君をわざと怒らせようとしている。隙を見せるな!」
「ほう、そいつは多少は頭が回るようだな? だがもう遅い! 精神の牢獄に囚われて永遠に苦しむがいい」
それきりサイの五感は完全に奪われた。
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