第110話 狂愛
そこで一息ついたメープルは、両手で抱えていたカップの中身を再びぐいと飲み干した。
「あの、もうそのくらいでやめたほうが……」
「何? 大人に向かって偉そうなことを言わないの!」
カップを乱暴にどんとテーブルに置いた彼女は、すわった目つきでサイを睨みつけた。
「ねえ、サイ、にとってもよく似たあなた」
「あ、はい!」
明かしていない自分の本名を呼ばれて一瞬ギクリと固まる。だが、メープルは狙いがあって名前を出したわけではないらしく、サイの反応を特に気にする様子もない。
「サイは結局、それっきり姿を消したわ。魔獣の討伐に失敗して喰われたとか、内務卿の差し向けた刺客に殺されたとか、故郷の教会で毒を飲んで死んだとか、色んな噂が飛び交って、私は、そんな噂を耳にするたびに気が狂いそうだった」
サイ自身、あの時の状況は錯綜してよく覚えていない。暗殺者を返り討ちにしたのも毒を飲みかけたのも事実だし、直前の討伐で危ない目に遭ったのも事実だ。誰かがそれをねじ曲げて、メープルをさらに追い込んだのだ。
それが内務卿なのか、それとも大魔道士アルトカルなのかはわからないが。
「だから、大魔道士様が私を療養の名目で南部の伯爵家に遠ざけたのは逆に好都合だったわ。だって、故郷の村がすぐそこですもの」
そう言って両手をすり合わせ、はぁと切なげに息を吐くメープル。
「だから私、村まで足を伸ばして、深夜、一人でサイの墓を掘り起こしたの」
「えっ!! それって」
故人の墓を暴く。いくらそれがどれほど親しい間柄だったとしても、さすがにその行為は常軌を逸している。
だが、どうやらメープルはそれを不思議だとも思っていないらしい。
「でもね、棺は空だった。サイの遺体はどこにもなかったのよ……」
サイは背筋が寒くなった。
目の前にいる、美しく成長したメープルの顔をしたこの女性は一体何者なのだ?
「……つまり、サイはきっとまだ生きている」
だが、とんでもなく歪んだ手段を使いながら、それでも彼女はほとんど正解を引き当てていた。
「生きていて、生きているのに私の前に現れない。きっとまだ追われているに違いない。私はそう確信したの」
「いや、さすがにそれは……」
「ねえ、サイによく似たあなた、彼がどうして追われているのか、あなたわかる?」
「だから彼はそんなつもりで姿を隠したわけじゃないと――」
「あのね、教えてあげる。サイは魔道士としてあまりにも優秀過ぎたの。だから内務卿に恐れられ、排斥された。だったら、魔道士の誰もが彼と同じ力を持てば、サイはもう狙われないわ。ね、そうでしょう?」
もはやメープルは明らかに普通の精神状態じゃない。
サイに対する盲信と、強すぎる愛情が、彼女を乱暴で歪んだ衝動に駆り立てている。
サイは戦慄した。
だが、だとしたら……
「もしかして、アルトカルにレンジ茶を卸しているのはそれが目的なのか?」
「へえ、そんなこと、よく知ってるわね」
メープルは胡乱な目つきでサイを見やると、両手を大きく広げて狂おしく笑う。
「そうよ。この国のすべての魔道士がサイと同じだけの力を持てばいい。そうすれば今度こそ彼は普通の魔法使い。きっと私のもとに帰ってくる!」
眼の前のサイではなく、サイを通り抜けてどこか遠くを虚ろに見つめて笑う、かつての許嫁。その姿は盲愛というより、もはや狂信者と呼ぶにふさわしいかった。
「……それはどうだろう?」
それでも、サイは反論せずにいられない。
「彼はそんなこと望んでない」
内心に湧き上がる気持ちを歯を食いしばって抑え、せめて想いだけでも伝われと願いつつ、ゆっくりと続ける。
「……もし、彼がどこかで生きているとしたら、貴女には、穏やかに日常を送って、できれば自分のことは忘れて、誰か別の愛する人を見つけて幸せに生きてほしいと思う、はずだ」
サイの心からの願いだった。
今の二人は身体年齢が十歳以上ズレている。たとえサイが正体を明かしたとしても、もとのような関係に戻るのは恐らく不可能だろう。
「ばっかじゃないの!!」
メープルは不意に立ち上がって大声を上げた。
「そんなこと、サイが願うはずはない! 私が彼を愛しているように、彼も私を愛してる。私のもとに戻りたいと思っていないわけない! それなのに、それなのに!!」
「違うんだメープル! 僕は――」
ガチャン!!
その時、扉の隙間から銀色に光る何かが風切り音をたてて飛来した。それはサイが身体に纏う電場に弾かれて軌道を変え、玻璃窓を激しい音と共に粉砕した。
反射的に立ち上がり振り向くサイに向かって、今度は曲刀が猛スピードで迫る。
「ちいっ!!」
間一髪で逃れたサイはさらに体当たりを食らって壁に叩きつけられた。
「メープル様!! なぜこのような危険な奴をお部屋に招き入れられるのですか!? こいつは馬車を襲った魔道士の片割れですよ!!」
そう叫ぶのは大柄の屈強な女護衛だ。
「え?」
「おのれ御当主様をたぶらかしおって!! 今すぐ地獄に送ってやる!!」
女護衛は再び曲刀を振り上げると、壁に叩きつけられていまだ意識もうろうとしているサイの目の前に迫った。
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