第109話 メープル

許婚いいなずけ……つまり、結婚の約束ってことだよね」


 サイは、はっきりとした胸の痛みを感じながら念を押す。〝許婚〟という言葉が〝だった〟と過去形で語られたことに、まるで心にぽっかりと穴があいて冷たい風が吹き込んできたように寒々しく感じた。


「……あなた、口は堅い方かしら?」


 メープルがぼそりとこぼした問いに、サイは無表情に頷いた。

 彼女の表情もどことなく苦しそうで、心の奥に重くて苦い想いがわだかまっていることをうかがわせる。


「ごめんなさいね。こんなこと、初対面のあなたに話すような内容じゃないんだけど……私、彼のこと、いまだに忘れられないの」


 そう前置きしたメープルは、サイドボードから強い蒸留酒を取り出すと、自分のカップに琥珀色の液体をドボドボと注いでぐいと飲み干した。


「あっ!」

「いいの。いいから、酔いが回るまでちょっと待って!」


 メープルはにへらっと笑い、空になったカップにさらに酒を注いで両手で暖めるように持つ。


「ちなみにあなた、好きな子とかいるかしら?」

「えっ!」


 いきなり聞かれて言葉に詰まる。これが半年前なら迷わずメープルの名前を出すことができただろう。だが……。


「あー、どうかな? どうなんだろ?」


 思わず声がうわずるのを止められなかった。

 そんな様子を見てメープルは少しだけ勝ち誇るような表情で笑う。


「まあ、まだあなたは小さいものね。でも私があなたの歳には、もう好きな人がいたわ。周りは彼を異民族だって蔑んだけど、私は将来彼と結婚するってはっきり決めてたし、彼が王都で魔道士の学校に通うと決めたときも、ついていくことを一瞬もためらわなかった」


 細く開けた窓から風が吹き込み、メープルはなぶられる自分の亜麻色の髪に指を差し込んでやわらかくおさえた。

 途端に、サイはまるで雷に撃たれたようにあの日の出来事を克明に思い出した。 





「僕は王都に出て魔道士になる」


 茂みの奥にポカリと開けた小さな空き地。二人だけの秘密の隠れ家で、サイは傍らのメープルにそう宣言した。

 王都に出れば全寮制の魔道士学校に入ることになる。入学のための資金と一年分の学費は司祭が用立ててくれたけど、その後は自分ですべてまかなう必要がある。

 本来貴族相手の学校だけに学費はかなり高額で、学期の合間の休暇はとにかく学費稼ぎに必死になるはずだ。里帰りのための旅費も時間も捻出することも難しい。

 恐らく、卒業までの六年間はほとんど孤児院ここに帰っては来られないだろう。


「だから、メープルは僕のことなんか忘れて幸せに——」

「ばっかじゃないの!!」


 だが、メープルは大声で怒鳴ると、サイの襟首をぐいとつかんでその場に押し倒した。


「見くびらないで!! 私はサイを忘れることなんてできない!! あなたがいないのに幸せなんてありえない! 私も一緒に行く!! 来るなって言ったって絶対ついていく。だから……」


 そのままサイの身体に馬乗りになると、両こぶしでサイの胸をぽかぽかと殴った。


「一人で行くなんて、そんなさびしいこと、言わないで!!」


 彼女は心の底から言葉を絞り出すように叫んだ。

 身体はちっとも痛くなかったが、殴りながらメープルがボロボロと涙を流し、ワンワン声を上げて泣くのを見て、サイの心はちぎれそうに痛んだ。

 挙げ句の果て、泣き疲れてサイの上に突っ伏すように倒れ込んでしまったメープルを、サイは感極まって力一杯抱きしめてしまった。

 とにかく、そんな彼女が愛おしくてたまらなかった。

 泣き疲れて汗だくになったメープルの髪に指を差し込み、茂みを抜けて吹いてきた風でほぐすようにやわらかくかき回す。


「わかった。じゃあ、二人で王都に行こう」


 目を真っ赤に腫らしたメープルは、その言葉にようやくぎこちない笑顔を見せた。

 二人はその日、生まれて初めて小鳥がついばむような幼い口づけを交わし、証人も誰もいない二人だけの許婚宣言を交わしたのもその時だった。





「だったら、どうして……?」


 自分でも気づかないうちにサイはそうつぶやいていた。


「どうしてって? じゃあどうして今は彼と結婚していないのかってこと?」


 メープルはサイの疑問に傷ついたような表情を見せると、顔を伏せてしゃくりあげるようなため息をついた。


「彼を守るためよ。仕方なかったの」

「え?」

「あの頃、彼は大魔道士アルトカル様のお手伝いで大きな魔法に取り組んでいたわ。でも、彼の並外れた実力を危険視した内務卿が彼を捕らえて投獄しようとしていたの。捕まれば即刻処刑もあり得るって」

「まさか、そんな」


 サイは思わず声を上げた。

 あの頃、彼の周りにはそんな気配は一切なかったはずだ。

 一度だけ内務卿と顔を合わせたこともあるが、彼はその時笑顔でサイの肩を叩き、大魔道士をよく補佐するように、と、機嫌よく言っただけだった。

 そんな空気が一変したのはサイが緊急の討伐任務から帰還したその日が初めてだったはず。


「本当よ。大魔道士様はそんな企みを止めようと尽力して下さっていたの。本当に色々気を回してあちこち手配して、王宮のとても偉い人に繋がりを作って……その、ある程度のお金と、あとは私がその貴人様の一夜のお世話を勤めれば、それさえ我慢すれば――」

「そんなバカなっ!!」


 サイは思わず叫んでいた。


「それでっ!! それで貴女は自分の身体を差し出したって言うのか!!」

「だって、それくらいして貴人様の心を掴まなければ彼の命を確実に守る手立てがないって大魔道士様がおっしゃったから。それに、互いの安全のためにしばらく彼に近づかないほうがいいからって」

「それ自体が罠だって、幼馴染を絶望させるための計略だってどうして――」

「そんなわけはないわ。大魔道士様は彼が討伐でいない間は危険だからって私を屋敷に保護しても下さったし……」


 メープルの瞳がかすかに揺れる。サイにはそれが、彼女自身が完全に信じきれていない言い訳に必死にしがみつこうとしているように見えた。

 おかしい。自分が愛した昔の彼女はもっと聡明ではなかったか? サイにはそればかりが気になった。


「でも、だったらどうしてそのことをもっと前、それこそ一番最初に幼馴染に打ち明けなかったんです?」

「何度も相談しようと思ったわ。でもあの頃彼はとても忙しくて、魔道士団に会いに行ってもいつも彼はいないって追い払われて。何週間もまともに話ができないうちにものすごい速度でいろんなことが起きて、心配で何日も眠れなくて……そうしたら大魔道士様がこのお茶を下さったの」

「そのお茶って、もしかしてこれ?」


 サイは目の前のカップを指さした。

 実は、この部屋に入った時からずっと気になっていた。彼女は躊躇なく飲んでいたがこの匂いは……。


「ええ、とても心が落ち着くの」


 サイは愕然とした。

 この陰謀は一体いつから始まっていたのだろう。

 確かにあの頃は目が回るほど忙しかった。だが、それでも何日かに一回、せめて週一回程度は彼女の店で昼食を取るくらいのことはしていたはず。


「本当に彼に会えなかった? 顔くらい見ることはあったでしょう?」

「人目のある所では一切その話をしちゃいけないって。身の回りに内務卿の間者が潜んでいるって……」

「だったらせめて手紙を託すとか――」

「それくらい何度もやったわ。でも、返事は一度も返って来なくて……そのうちに彼自身も身を隠すために魔道士団も学校もやめたって聞いて」


 そう独白する彼女のかすかな笑みは、サイには絶望の表情に見えた。 


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