第105話 サイ、失踪する

 スリアンが朝食を終え、そろそろサイの所へいこうかなと思いながらセラヤの入れたお茶のカップに口をつけた途端、呼び鈴が鳴った。

 セラヤが応対に出てすぐに戻ってくると、その後ろから血相を変えたエンジュが小走りで現れた。


「殿下!! サイが!!」


 ただそれだけで、スリアンは何が起きたのかをほぼ正確に悟った。


「いつだ!?」

「恐らく夜明け前のことかと」


 恐縮して縮こまるエンジュの肩をポンと叩き、「君のせいじゃない」と口では言いながら、それでも内心ではどうして気づかなかったのかと彼女を責めずにはいられなかった。

 だが、すべては、サイの心の迷いにはっきりと気づいていながら、意地でもサイにくっついておかなかった自分の甘さと恥じらいが招いた失態だ。


「書き置きとかは」

「ありません。ただ……」

「ただ?」

「ええ、地図を触った形跡がありました。サイはもともと王都の住民ですから、都市城壁の内側ならたいていの場所に土地カンがあるはずです。わざわざ地図を改めるとしたら……」

「カンアーミ通りか」

「恐らく」


 スリアンは渋面を深くした。

 彼女自身がいみじくも言ったとおり、あのスラムに……いや、この国中を見回しても、サイを超えるレベルの魔道士はそうそういないだろう。

 それに、サイには自分や仲間を守るために人をあやめることへの躊躇もほとんどない。一対一の戦いで彼が後れを取るとは到底思えないが、数を頼みに来られたり、不意打ちを仕掛けられたら万に一つの可能性はある。


「それに……」


 スリアンは思わずつぶやきを漏らした。

 サイは本性が優しい。どんな悪人でもすぐには否定せず、一度は救おうとする傾向がある。それはスリアンの様な立場では甘さとそしられても仕方ないが、それをサイに求めるのは筋が違う。

 それに、サイほどの境遇で、心が真っ黒に染まっていない人間を見るのは初めてだった。

 だからこそ、スリアンはゼーゲルの港町で彼をひと目見て気に入ったし、身近に置きたいとも思った。身分を偽り続けているのが苦しかったし、ようやく正体を打ち明けて、サイが騙し続けていた自分に怒らなかったことに心から安堵した。

 あるいはまだ輪郭すらもあいまいなこの感情は、彼女が生まれつきの立場を捨てると決め、タースベレデの第一王子となった日に諦めたはずの恋情なのかも知れなかった。


「行くよ!」


 スリアンは勢いよく立ち上がった。

 サイを今さら黒衣むかしの女に取られるわけにはいかないのだ。





「……ここか」


 サイは腰のベルトに下げた護身用の短剣をあらため、柱が傾いて今にも崩れ落ちてしまいそうなバラックを手の中のメモと見比べた。

 目の前には建物と同じくらいボロボロで、うかつに開くとそのままもぎ取れてしまいそうな扉がある。

 念のためノックし、建物内に動きがないことを確かめて取っ手に手を掛ける。やはり鍵はかかっていない。動きの悪いきしむ扉をそのままぐいと押し開き、サイは薄暗い室内に一歩、足を踏み入れた。


「誰だ!」


 声と共に数本の投げナイフが飛んできた。サイは身体の周りに張った電場でナイフ跳ね飛ばし、声の方向に鉄魚を飛ばす。くぐもった打撃音と共にドサリと重い物が倒れる音がして、人の気配が一つ減った。


「……思ったよりうまくいったな」


 石弩で毒矢を仕掛けられた苦い経験を生かし、自分に向かってくる金属を跳ね飛ばすフィールドを魔法で身体の周囲にまとわせたのだ。単独で敵地を行く以上、死角への備えは怠りたくない。

 サイは自分を取り囲む電場をそのまま薄く広げて周囲の気配を探る。今、床で伸びている男を別にすれば、部屋の中にいる人間は部屋の奥のベッドで横になっている一人だけらしい。

 それでもなお、足音を忍ばせて慎重に近づく。


「おめぇ……」


 低いひしゃげたような男の声がかすかに聞こえる。


「やあ、僕の顔を覚えているかい?」


 スリアンのまねをして傲岸な態度で男を威圧する。だが、顔に縫い傷のある男は寝床から起き上がろうとはしなかった。


「誰にここを聞いた? 今度は何しに来やがった?」


 喉を潰したただけでなく、スリアンはしっかり相手の戦闘力を削いでいた。立ち上がることもできず、両手の包帯を見る限り当分剣を握ることも難しそうだ。


「情報源は言うつもりない。聞きたいことがあって来た。正直に答えてくれれば危害を加えるつもりはない」


 話が広がって下手にこちらの正体が悟られない様、箇条書きで話すことを心がける。


「は? すでに俺の手下をひとり潰してるじゃねーか」

「これは正当防衛だ。いきなりナイフを飛ばすような奴はいきなり殺されても文句は言えないだろう?」


 男は憎々しげに舌打ちをしたが、それ以上反論しようとはしなかった。


「で、用件は?」

「お前達のヘクトゥースの入手経路を知りたい。それからもう一つ、国内の貴族と付き合いはあるか?」

「バカ野郎。誰が教えるものか!」

「ふーん。だったらそれでもいい」


 サイは魔方陣を腕にまとわせ、男の額に人差し指をピタリと付けると、出力を絞った電撃を指先から男の脳に叩き込む。

 脂汗を流して激痛にうめく男に、サイは表情を変えず再び尋ねた。


「これ、五回もやると死ぬと思うけど、別にいいよね。さて、ヘクトゥースの入手経路だけど……」

「ま、待て! 話す! あれは南部の砂漠から山を越えて来る隊商が持ってくるんだ」

「嘘をつけ! 砂漠みたいな乾燥地帯ではオドリグサは栽培できないはずだ」

「違う! 乾燥オドリグサの在庫を持ってるのは山に逃げ込んだドラク軍の残党達だ。奴ら、国が滅びたどさくさに軍の膨大な備蓄をちょろまかして、それでもうけていやがるんだ」

「へーそう。じゃあ、貴族との付き合いは?」

「貴族? 魔道士学校の理事長先生に少し用立ててやっただけで、他にはねえ」

「魔道士学校? 理事長?」

「ああ、カエルみたいな顔をした男だ」

「理事長? 奴は自分でそう名乗ってるの?」

「あ、ああ、それがどうした?」


 サイはめまいがして額を押さえた。あの校長、ここでもせこい虚勢を張っていたらしい。


「奴はただの雇われ校長だよ。貴族でも何でもない。残念だったね」

「んだと!?」

「じゃあ、最後の質問。黒衣の女貴族に心当たりは?」

「ああ、あいつか! 何年か前、どこからともなくふらりとカンアーミここに流れてきやがったんだ。鬼のように強え護衛がいつも一緒にいて誰も手が出せねえ。ドラクの残党とも独自に取引をしてて俺達も一切関われねえ」

「そいつの居場所は?」

「いるとは限らねえが、カンアーミで一番でけえ宿屋の別棟が定宿だな」

「そっか、ありがとう」

「おい、チビ! あいつには関わるな。俺達の仲間も何人もやられているんだ!」


 サイはそれには答えず、無言のまま部屋を出た。



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今回、朝の時点では半端な状態のアップをしてしまい申し訳ありませんでした。改めて本日分のアップをさせていただきました。


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