第93話 エンジュの誓い

「でもどうしたんですか? もし何か特別な理由があるなら――」

「いや、いいんだ」


 エンジュの問いをサイは両手でさえぎった。

 もし南部地方に行けるのなら、今日発見した理彩の世界と古代魔法の関わりについて、礼拝堂の女神にくわしく尋ねてみたいと思ったのだ。だが、今最優先するべきなのはアルトカルの監視。それこそがサイ自身の恨みを晴らすことにも繋がる。そう自分に言い聞かせて気持ちを抑え込んだ。


「いや、ちょっと気になったことがあったんだけど、今は任務の方を優先するよ」

「……そうですか。だったらいいんですが」


 エンジュはまだ少し納得していないようだったが、監視計画の立案に気持ちを切り替えたらしい。小さく咳払いをしてすっと居住まいを正した。


「では、カランタス領の屋敷と、王都に向かう街道にはタースベレデから諜報任務に長けた応援を数人呼んで配置します。サイは今まで通り魔道士学校とアルトカルの監視。校長の方は一応私の方でも交代で対応します。セラヤは、何かあったときにすぐ連絡が取れるよう、当分は私の部屋に泊まって下さい」


 セラヤはいつものように無表情に頷く。


「私は別にご主人様のお部屋でもかまいません。ご要望とあらば添い寝でも——」

「だーっ!! 何を言い出すんだ。おとなしく言われたとおりにしてくれ」

「そうですか。まあ、扉一枚のことですし、特段鍵もかかっていないようですから……フフ」


 表情には何の変化もないのだが、セラヤの目が妖しく光った気がしてサイは思わず身震いをした。


「……何だろう。身の危険を感じるよ」

「失礼な。私は純粋に旦那様のお世話を——」

「そういうのいいから。エンジュもちゃんとセラヤを見張っててくれよ」


 いきなり始まったサイとセラヤの寸劇めいたやりとりを生暖かい表情で見ていたエンジュは、矛先が自分に向かってきたので小さくため息をついた。


「まあ、これでもセラヤは心配しているんですよ」

「何を?」

「お昼にあんなやーらしい事実が判明し——」

「何度もやーらしい言うな! 婚約のどこが悪い」

「失礼、サイがまんまと寝取られた話を——」

「ぐっ! もっと悪いよ!」

「では、たまにはまじめに……」


 エンジュはそう前置きして小さく咳払いすると、きりりと表情を引き締めて姿勢を正す。


「心中お察しします。私が同じような立場に立たされたら、きっと婚約者を刺し殺して自分も死を選びます」

「そこまでっ!?」

「信じていた身内が次々と手のひらを返し、周りは全部敵になる……これほど絶望を感じた状況もなかったと思います。サイ、本当によく耐えましたね」


 普段のエンジュとは打って変わって優しい表情でそう言われ、サイは思わず涙ぐみそうになった。


「まあ、それはともかく、私たちがサイから離れることは当分ありませんのでそれは安心して下さい」

「……エンジュ」

「だって、こんな面白いおもちゃを手放すなんてあり得ませ——」

「最後の一言で何もかも台無しだよ!」





 エンジュとセラヤがサイの様子を気に掛けているのは言葉だけではないようで、その日以来、授業や魔道士団での仕事などやむを得ない時以外、二人のうちのどちらかが常にサイに付き添うようになった。

 監視業務の合間を縫い、昼食や夕食を口実に魔道士団にも迎えに来る、夜もサイが寝床につく直前まで絶対に一人にしないなど、その徹底ぶりにはサイの方が逆に感心するほどだった。

 あまりの過保護ぶりに、ある夜、サイは意を決してエンジュに聞いてみた。


「エンジュ、どうしてそこまで僕を気遣ってくれるのさ?」


 聞かれたエンジュは一瞬目を丸くし、ついで髪の生え際をポリポリと掻いてすっと目をそらす。


「そりゃあ、十才の子供に気を遣うのは当たり前じゃ——」

「でも、エンジュは僕の中身を知ってるよね?」

「うう、えーっと」


 再びエンジュはあちこちあらぬ方向を向き、やがて意を決したように小さくため息をついてサイに向き直った。


「雷の魔女はかつて……」

「魔女が?」

「あー、……いえ、魔道士に繊細な人が多いというのは常識です。その上、異世界と関わりのある魔道士は特に、そのど外れた魔力に比例してどこか不安定な人ばかりなんです。私の知る限りでも、雷の魔女、オラスピアの黒の魔道士、そして貴方あなた。世界を渡った代償か、あるいは強大な魔力の副作用なのか」

「えー、僕はそうでもない——」

「おかみさんからメープルさんの話を聞いたときの貴方の目の色、忘れてませんよ」

「あ!」


 エンジュは真剣な目をしてサイの顔を覗き込んできた。


「あれほど絶望に沈んだ目をしている人はそうそう見かけません。殿下にも特に厳しく言われています。魔女の時のような失態は絶対に犯せません」

「あの?」


 がしっと両手を掴まれてサイは目を丸くする。


「いいですか、貴方には殿下も、イリスも、セラヤも、カダムや女王陛下だっています。そしてこの私も。全員が最後の最後まで絶対に貴方を裏切ることはないと誓います。どんな時も、この先どんな状況に陥っても、絶対にそれだけは忘れないで下さい」

「あー、はい」

「ですから、一人で思い詰めて、どこかに行っちゃうのは、なしですよ」


 サイはその言葉の勢いと、エンジュの思い詰めた表情に飲まれて思わず頷いた。

 普段は辛辣な物言いばかりで、さもなくばサイをからかってばかりのエンジュがこれほど真剣な表情を見せたのは初めてで、サイはそれ以上言葉を発することができなかった。


 この晩のエンジュの誓いを、サイが思い出すのはそれからしばらく先のことになる。

 

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