第92話 アルトカルの客
サイは覚えている呪文や呪句をいくつか書き出し、それを古代文字の文法で書き直してみた。
「やっぱり……」
もはや原型を留めないほど大きく変化してはいるが、理彩の国の文字や文法と、古代文字で書かれた呪句には明確な関連性があった。
サイは自分の二の腕にざわざわと鳥肌が立つのを止められなかった。
この発見を一体どうするべきか、興奮して思わず立ち上がったところで、すぐそばの扉に小さなノックの音が響いた。
「ん?」
サイの詰めている大部屋はアルトカルの執務室の前室的な位置づけでもあり、一番下っ端で扉にも近いサイは以前も良く来客を取り次いでいた。
「はい、どちら様でしょうか?」
扉を細くあけて廊下に顔を出すと、そこには痩せこけた白髪の老人が立っていた。
身につけている乗馬用のコートはツヤのあるかなり高級な布地で、目の前の男は恐らく上位の貴族階級で間違いない。だが、その割にはひとりの随員もともなわず、また着ているコート自体もなんとなく古ぼけ、襟や肩の細かい刺繍はすり切れ、袖口には小さくほころびさえあった。おまけに、当人も疲れているのかひどく顔色が悪く、目の下にはうっすらと隈も浮かんでいる。
「アルトカル様はご在室かな?」
「ええっと、失礼ですが、お名前をお伺いしても?」
「ああ、カランタスと申す者で——」
「え! カランタス伯爵!? ご本人でいらっしゃいますか?」
「いかにもそうだが……?」
「すぐ取り次ぎます! お入り下さい!」
サイは不審そうな表情を浮かべるカランタスを入り口脇の長椅子に案内し、飛び跳ねる心臓の音を誰かに聞きとがめられはしないかと不安に感じながらアルトカルの部屋の扉を叩いた。
「大魔道士様、お客様がお見えです。カランタス伯爵閣下が——」
「何? すぐに呼んでくれ!」
扉の中から指示が飛ぶ。慌ててきびすを返し、カランタスを先導し再びアルトカルの部屋に向かいながら自問する。
(カランタスと言えば、
その割には、何だか身なりがみすぼらしい。サイには、彼が政府要人に太いつながりのある大貴族にはとても見えなかった。
(そう言えばエンジュが言っていたっけかな。カランタス伯爵は鉱山事業で失敗して虫の息だって)
だとすれば、そんな没落寸前の貴族が今や飛ぶ鳥を落とす勢いのアルトカルに一体何の用があるのだろうか。だが、扉の向こうから聞こえた口ぶりからして、アルトカルの方もカランタスの来訪をずいぶん待ちわびていたような雰囲気だった。
「大魔道士様、カランタス伯爵をお連れしました」
途端にドンと勢いよく扉が開き、サイは危うく鼻先を扉にぶつけそうになった。
「おお、カランタス卿、待ちわびたぞ! で、例のモノは用意できたのだろうな?」
「ええ、おかげさまで先日ようやくご要望の量が整いまして、今日は納入のご相談を——」
戸口で出迎えたアルトカルはカランタスの肩を抱くように迎え入れながら第一声でそうたずね、カランタスが答えを口にしたところでバタリと扉が閉まった。分厚い扉に阻まれて中の会話は聞き取れず、しばらく扉の前でうろうろしたサイは先輩魔道士の怪訝な視線を受け、それ以上の詮索を諦めざるを得なかった。
なんとか追加の情報が得られないかと粘ったが、結局サイ達に定められた退勤の時間を過ぎても二人は部屋から出てこなかった。
「おかえりなさい」
「ええー、またかよ」
寮の部屋に戻ると、もはや当たり前のようにソファでくつろいでいたエンジュがサイを出迎えた。セラヤもまた当然のようにお茶の入ったカップを出してくれる。
「もう、気にしたら負けだという気がしてきたよ」
サイは熱いお茶をすすり、頭を振りながらため息をつく。
「ん、何がです?」
「いや……そうそう、そんなことより大事な話があるんだ」
気持ちを切り替え、早速今日の報告をする。
「予想外の大物が掛かりましたが……結局カランタスが何を用立てていたのかはわからないのですね?」
話を聞き終わると、エンジュは身を乗り出して念を押してきた。
「ああ、いつまでも扉の前をうろついてムダに疑われるわけにもいかないし……」
「だとすれば、モノが何にせよ、まだカランタスの手元にあるとみていいですね?」
「恐らくね。今日は引き渡しの打ち合わせに来たって感じだと思う。あ、あと、関係ないかもしれないけど、カランタスはずいぶん
「まあ、もともとカランタスは度胸のある方じゃないようです。鉱山での失敗も、損失を埋め合わせようとだらだら実効性の低い投資を重ねた結果だと分析されています」
「ということは、
「まあ、一番最初に思いつくのはやはり犯罪がらみ、でしょうか」
エンジュの指摘に、サイはぐっとつばを飲み込んだ。
「ともかく、カランタスは要監視ですね。とはいえ、王都の屋敷と所領の屋敷、どちらも監視するとすれば三人では人手が足りません。応援を呼ばなくてはいけませんね」
「そのことだけど、良かったら僕にカランタス領の屋敷を担当させてもらえないかな?」
サイの言葉にエンジュはかすかに眉をくもらせた。
「どうしてですか? せっかく大魔道士の懐に食い込んだんです。サイにはそのまま彼を監視して欲しいのですが?」
「うん、まあそうなんだけど……」
「セラヤ……」
「はい、殿下もサイにはアルトカルの監視を継続して欲しいそうです」
「……そっか、まあそうだよね」
それでもしばらくためらった末、サイはため息交じりに頷いた。
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