第90話 婚約者のその後

「あ、おかみさん、奇遇ですね。買い物ですかぁ?」


 エンジュはさすがの対応力で、とっさに笑顔を作るとエボジアのとり落としたかごを素早く拾い上げる。さらに転がっていく芋を足の甲で器用に蹴り上げてかごに戻し、エボジアに「はい」と手渡す。


「紹介しますね。こちらは私が今お仕えしているランスウッド家の魔道士見習い、ゼンプ様です」


 すかさずエボジアの死角で背中をつつかれ、サイも慌てて頭を下げる。


「ゼンプ・ランスウッドです。どうも初めまして」

「ゼンプ? お前さん、サイ……本当にサイプレス・ゴールドクエストじゃないのかい?」


 エボジアはまだ目の前の光景が信じられない様子で、籐かごを支える太い腕はかすかに震えている。


「いいえ、その名前に心当たりはありません。私はランスウッド家に引き取られて以来、ずっとこの名前で呼ばれています」


 サイは奥歯をかみしめ硬い表情で答えた。少しでも気を抜くと、懐かしさで涙がにじんでしまいそうになるのを必死でこらえる。


「……そうかい。そうだよね」


 一方、サイの記憶にあるより少しだけ老いたエボジアは、見るからに気落ちした表情で頷いた。

 十六才で姿を消したサイが、六年も経って突然子供の姿で現れるわけない。頭ではそう理解しつつ、まだどこか半信半疑……そんな顔でしきりに首をひねっている。


「だったら、もしかしてお前さん、兄弟とかはいないかい? あるいは親戚とか? お前さんと同じ黒い瞳、黒髪の魔道士見習いだったんだが……」

「どうなんでしょうか。僕は幼い頃に実の両親とは生き別れましたので、そのあたりはよくわかりません。それに、他民族からだと、僕らヤーオは全員が兄弟姉妹みたいに見えるようですから」


 それはまんざら言い訳ばかりでもない。はたから見ると、ヤーオ族は黒い瞳、黒い髪という外見の特徴ばかりが際だって、かえって個人の見分けが難しいのだと聞いたことがある。


「……まあ、サイも、もし生きていたら今ごろ二十歳を過ぎているはずだもんねえ。ま、私も年をとるわけだけど……」


 エボジアはそう寂しそうにそうつぶやくと、ようやく笑顔を見せた。


「いや、変なことを聞いてすまなかったね。あんたもウチに食べに来るんだろう?」

「あ、はい!」

「よしわかった。今日のランチメニューは腕によりを掛けて作るからね。ほら、あんた達も、行くよ」


 そう威勢良く言ってサイの肩をポンと叩く手のひらは、昔と同じように分厚くて暖かだった。





「うまい!!」


 サイは思わず声を上げた。

 王都の馬車溜まりでエボジアに拾われ、一緒に王都に出てきた幼なじみのメープルがこの店で働くようになって以来、サイはエボジアの料理を週に三、四回は食べていた。王都を追われるまでの六年間で食べた回数は軽く千回を超えているだろう。

 両親の顔を知らないサイにとって、エボジアの料理こそが文字通りお袋の味なのだ。


「何だよお前さん、そんな涙を流しながら食べるほどおいしいかい?」

「はい、本当においしいです。最高です」


 エボジアには笑われ、エンジュとセラヤにはドン引きされた。それでも、もう二度と味わうことができないと諦めていたエボジアの料理を目の前にして、サイは猛烈に感動していた。


「そんな風に一心に食べている所を見ると、やっぱりあの子を思い出すねえ」


 エボジアはカウンターにひじをついてサイの様子を眺めながらしみじみと言う。


「あの子というのは?」

「ああ、さっきも話しただろ。魔道士見習いのサイプレス・ゴールドクエストさ。六年前まではウチの店によく通ってくれてたんだよ。ある日を境に突然消えてしまって、それっきりになっちゃったけどねえ。やっぱり……」


 聞き返したエンジュに向かって、エボジアは寂しそうに答える。


「何かあったんですか?」

「ああ、有名な大魔道士アルトカル様と女の子を取り合うことになっちまったのさ。サイには将来を誓い合った幼なじみがいたんだけど、大魔道士様が彼女を見初みそめてしまってねえ。強引にアピールなさって、結局、彼女は大魔道士様を選んだ——」

「ゲホッ! ゴフッ!」

「サ……ゼンプ様、大丈夫ですか!」


 セラヤに水の入った杯を渡されながらサイはドンドンと胸を叩く。


「ほら、料理は逃げやしないよ。ゆっくりお食べ」

「は、はい」


 渡された水をがぶがぶと飲み、どうにか呼吸を整えたサイを横目に見ながら、エンジュはさらに突っ込む。


「で、その後、彼女さんは一体……」

「あ、ああ……」


 エボジアの口調が突然渋くなった。


「ああ、サイが姿を見せなくなってしばらくして、大魔道士様の屋敷に雷の魔女が現れたって噂が立ったころだったかねえ。あの子は突然屋敷を追い出されたとかで、身一つでウチに転がり込んできたのさ」

「ガフッ! ゴホッ!」

「だから落ち着いて食べなって言ってるのに」

「汚いですよ、ゼンプ様」


 再び突っ込まれ、サイはそれ以上食事を続けるのをあきらめた。


「で、その、メープルは?」


 途端、姦しく話していた女性三人はすっと沈黙し、その視線がサイに突き刺さる。

 一つは不思議そうに、残りの二つは明らかに非難の色を帯びて。


「あれ、私はあの子の名前を言ったかい?」

「あっ!! えー、実は僕、大魔道士様のところで下働きをしてまして。そこで噂されてるのを小耳に挟んだかなーって……あはは〜」


 身を硬くしてだくだくと脂汗を流すサイを見て、エボジアは納得したように頷いた。


「ああ、確かに当時はいろんな噂が流れたからねえ。今だに知っている人がいてもおかしくはないわ」


 そこで少しだけもったいをつけると、エボジアはため息交じりに手元の杯をぐいと干す。

 

「結局、大魔道士様にとってはすべてただの遊びだったのさ。気に入らない若者の女を奪い取ることだけが目的だったんだろうねえ」

「「「えっ!」」」


 三人の声がそろった。

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