第88話 インプリンティング
「さて、と」
サイは気絶して体の上にのしかかってきた上級生達を乱雑に押しのけると、ゆっくり立ち上がって服の汚れをはらった。
「私が飛び込む
校舎の陰から音もなく姿をあらわしたエンジュは、冷たい水で濡らした手ぬぐいをサイの額のミミズ腫れに無造作に押し当てながら、少しだけ残念そうに口を尖らせる。
「痛っ! もう、近くに居たんならもう少し早く出てきてくれよ。見てよこの傷、なかなか治らないと思うよ。痕になったらどうしよう」
「大丈夫ですよ、若いんだからすぐに消えます」
「まったく、人ごとだと思ってずいぶん適当だよなあ」
「まあ、あのくらいならサイ一人で大丈夫そうでしたし、迂闊に割り込んだりしたら話の腰を折りそうでしたので」
「ヘクトゥースのこと?」
「ええ。あの話が聞けたのは収穫でした」
エンジュはそう言ってにっこり満足そうに頷く。
「校長は間違いなくクロですね。彼の周囲を見張って接触する外部の人間を洗いましょう」
「魔道士団や大魔道士アルトカルは?」
「あの話しぶりだと無関係かも知れませんが、殿下の推測はよく当たるんです」
「じゃあ?」
「ええ、せっかくアルトカルとつながりができたんですから、サイはせいぜいうまく取り入って下さい」
と、話をまとめ、倒れている代表生徒その他一同を見やる。
「それより、こいつらはどうするんです? このままほっときますか?」
「どうだろう。死んではいないと思うけど、当分目覚めないだろうし、多分記憶障害を起こしていると思う」
「仕方ないですね。こっちの協力者を呼んで適当な酒場にでも放り込んでおきます。幸い外傷はないですから、羽目を外して深酒をして眠り込んだように偽装しましょう。記憶がないことも含め、自分達で都合良く納得できるように
「毎回面倒をかけてごめん。ありがとう」
「だ・か・ら! これは任務ですから!」
エンジュはわずかに赤らんだ顔でそう声を荒らげると、ぷいと横を向いた。
翌日、手ぶらで講義室に姿を現したサイを見て、同級生達は無言で目をそらした。
ほとんどの同級生が昨日の放課後上級生に連れて行かれるサイを見ていたし、額と唇に貼られた膏薬の湿布は痛々しく、サイが代表生徒と上級生にどんな目にあわされたのか、わざわざ言わずともその傷が雄弁に語っていたからだ。
「あれ、代表生徒の……」
サイはあたりを見渡し、後ろから近づいてきたエンジュに尋ねる。
「あいつはまだ姿を見せていません。教官もまだのようです」
エンジュは澄ました表情でそう報告すると、さっさと自分の席に上がっていった。
やがて授業開始の鐘がなる。
なぜか教官も代表生徒も姿を見せず、サイの顔の傷を遠巻きにちらちらと見てはささやき交わす声で室内は一気に騒がしくなった。
結局、教官が姿を現したのは第一校時も半ばを過ぎた頃だった。
「今朝、代表生徒のシタン・ダフリカと上級生四人が泥酔して眠り込んでいるところを酒場で保護された。何か事情を知るものはいないか?」
この世界では十六歳で成人だ。なので在学中に成人を迎える。だが代表生徒はまだ成人年齢に達しておらず、当然飲酒は許されない。
教官は生徒たちを見渡し、サイの傷に気づいてわずかに目を見開く。
だが、結局最後まで名乗り出るものはいなかった。
「はあ、ゼンプ・ランスウッド、この授業の後教官室へ来なさい」
教官はため息混じりにそれだけ言うと、教本を開いて授業を始めた。
「ゼンプ・ランスウッド入ります」
部屋ではサイを呼んだ教官が一人きりで書き物をしていた。
「わざわざすまないが、代表生徒シタンの件で知っていることがあれば教えてくれたまえ」
教官はつかれた表情でサイに椅子を勧める。
「いえ、特にありません」
「だが、複数の学生が、シタンと上級生に連れ去られる君の姿を見ている」
サイは勧められた椅子に腰かけながら小さくため息をつく。
「……ありがちなことがあっただけです。新入りのくせに生意気だと言われて教本を破り捨てられ、乗馬用の鞭で顔を殴られました。その後は、僕を置き去りにしてどこかにいなくなったのでわかりません」
「本当にそれだけかね? 君の方から何か」
「それだけです。何もしていません」
「ふむ……そうか」
教官は不満げに小さく首を振りながら、書きかけの報告書に今の証言を書き入れ、羽ペンを置いた。
「だとすれば、君を殴った後、そのままの勢いで祝勝会としゃれこんだんだろうな。酒場のおかみからも、酔いつぶれる直前まで終始ご機嫌だったと証言が取れている」
「だったら、きっとそうなんでしょう」
「いや、だがな……」
「あの、教官?」
「実は、先に彼らにも事情聴取をしたんだが……」
「えっ」
サイは思わず身を硬くした。彼らが何か一つでも覚えていたのであれば、サイの作り話は破綻する。
「彼らは、君と何があったのかまったく覚えていないと証言した。まあ、向こうは多数だし、現に無傷だ。一方で君はケガもしてるし教本もなくしている。仮に衝突があったとしても結果は君の言ったとおりなんだろう。だがな……」
教官は言葉を切って渋い顔をした。
「君の名前を出した途端、彼らは揃って青い顔をして震えだした。まるでドラゴンにでも出会ったように額に脂汗まで……なあゼンプ、本当に君は何もしていないのかい?」
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