第69話 見えない仮面

 精神こころの方が幼く若返った体に引っ張られたせいなのだろう。サイはまるで年端もいかない子供のように激しくしゃくり上げてしまい、ポロポロとこぼれ落ちる涙はいくら止めようとしても止まらなかった。

 肩をふるわせ、ゴシゴシと目をこすり、みっともなく鼻をすすり上げたところで肩を引かれ、ついで後頭部が柔らかい感触に受け止められる。


「あ……」


 いつの間にか、サイは王子に膝枕をされるようにして長椅子に横たわっていた。ふわりといい香りのするハンカチで両目を覆われ、布地越しに柔らかく手のひらがのせられた。


「いいかい、サイくん。君を害する者も、君の言葉を疑う者もここにはいない」

「……は、い」


 静かな口調で言われ、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いた。

 まるで発作のような感情の爆発がおさまると、今度は猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。出会ってまだ二日と経っていない貴人の前で、みっともなく号泣してしまったなんて。

 一体どんな顔で取り繕えばいいのかもわからず、そのまま両手でハンカチを押さえ、顔を隠して内心で身もだえる。


(しかし、王子ともなると、男でもこんな香りの香水を使うんだな……)


 顔にかぶせられたハンカチからは、ほのかに香水の香りがする。ラベンダーのような、どことなく甘く上品な香りに惹かれ、サイはいつしか全身の力を抜いて王子に体を預けてしまっていた。


「どうやら船酔いしたみたいだね」


 動きを止めて脱力したサイの髪をしばらくの間さわさわとなでていた王子だったが、ふと思いついたように傍らのクッションを引き寄せるとサイの頭の下に挟みこみ、それと入れ替わるようにするりと立ち上がる。


「もう少し落ち着くまではそうして休んでいるといい」

「……はい」

「ボクはちょっと船長と話をしてくるよ。護衛の二人にはボクの方についてきてもらうからこの部屋に入ってくる気遣いはない。あ、でも、後で薬を届けさせるよ」


 それだけ言い残すと、王子は静かに扉を開けて部屋を出て行った。


「ああ、情けない所を見せちゃったなぁ」


 数分後、ようやく体を起こしたサイは、後悔しながら猫のように背中を丸めて長椅子にうずくまった。ひじを腿に突き、水に浸して絞ったハンカチを顔に押し当て、ほてった顔を冷やす。

 熱を帯びたまぶたがひんやり冷やされて心地よい。しばらくそうしてハンカチがぬるくなったところでのそりと立ち上がり、船室の隅にある鏡に顔を映してみる。


「うわ!」


 サイは惨状にドン引きした。鏡の中では、両のまぶたが誰が見ても判るほどにぷっくりと腫れ上がっていた。


「うわぁ、さすがにこれは隠せないか……」


 まだ半分痺れたような頭でサイは考える。


「そう言えば、最後に泣いたのはいつだったっけ。ゴールドクエスト司祭の死去を知った時も、涙なんか出な……いや」


 思い出した。

 その瞬間、ふわふわした気持ちが消えて頭がすっと冷えた。

 最後に泣いたのはあの時。暗殺者を返り討ちにして殺したあの日。

 サイを取り巻いていた厳しくも優しい世界はあの日で終わったのだ。以来、サイはずっと自分の感情を殺し、ただ死んだみたいに生きてきた。そのことを今さらながらに自覚した。


(あれ以来、僕はずっと見えない仮面をかぶっていたんだな)


 考えてみれば、理彩には本当の自分を一度も見せたことがなかった。彼女からしてみたらさぞもどかしかっただろうと申し訳なく思う。でも。


「二度と会えなくなってから今さら後悔しても遅いんだけど……」


 サイはポツリとつぶやき、号泣の残滓のように大きくため息をついた。






「殿下から体調を崩されたと聞きました。もうおよろしいんですか?」

「あ、ええ、落ち着きました」


 しばらくして、控えめなノックの音と共にエンジュが戻ってきた。手には上級のポーションと思われる緑色の液体が入った小瓶を持っている。


「どうぞ、飲んでください」


 だが、そう言って突き出された小瓶をサイは受け取ることができなかった。


「どうしてですか? 殿下のお心遣いを無下にされるおつもりですか?」


 エンジュはあからさまに不満げな表情でさらにグイグイ来る。しかし、手を伸ばそうとしても指先がひどく震えてしまい、結局サイは受け取るのをあきらめた。


「すいません、申し訳ありませんがそれはしまってください。以前ポーションに偽装した毒薬で殺されかかって以来、軽くトラウマなんです」


 口をつける寸前に女神にはたき落とされたので、正確には飲んだわけではない。だが、それを知った時の絶望感がリアルによみがえり、どうしてもポーションを手に取ることができなかった。

 胡乱うろんな目つきでサイを睨めつけたエンジュは、ついで吐き捨てるように言う。


「それは困りましたね。それでは魔道士として欠陥品ではありませんか。殿下の護衛として、身近にはべる人間にそのような欠点を見過すわけにはいきません」


 エンジュの指摘はもっともだ。

 剣士や戦士のような強力な武器を持たない魔道士にとっては、魔法の手数の多さと持続力が勝敗を分ける重要な要素だ。

 敵に囲まれて魔力が尽きた時、ポーションで回復できなければその瞬間に負けが決まる。

 サイは魔法の技量と出力では他の魔道士を軽く圧倒していたが、長時間の連続戦闘はそれほど得意ではない。体が縮んでからはさらにスタミナの不足を実感していた。

 当然、エンジュとしても、そんな弱点を抱えた魔道士と組もうとは思わないだろう。


「殿下も物好きです。話を聞いた途端いきなり自分で面接に行くとか言い出しますし……そもそもこんな欠陥魔道士のどこがそんなに気に入ったのやら」

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