第三章
第63話 女神のたくらみ
「……僕は、もう二度とあの世界には戻れないんですか?」
「ああ。所期の目的を達した以上、君があの世界に残ることに我々は同意できない。これ以上
「しかし、理彩は?」
「もしかして、彼女に惚れたかい?」
「い、いえ、そう……じゃなくてですね」
女神から放たれた思いがけない変化球にサイは一瞬面くらい、咳払いをして仕切り直す。
「彼女はひとりぼっちに——」
途端に女神はサイの言葉をさえぎるようにふっとため息をつくと、首を小さく横に振った。
「気の毒だが、それも必要なプロセスだ。理彩くんが抱えることになる深い孤独こそが、彼女が寝食を忘れてMAGICの開発に邁進する強烈なモチベーションになる。亡き父の形見である通信端末、そして君の形見である魔法結晶。彼女はそれらをよすがに一生涯を開発に捧げるんだ」
「……そんな、それはあんまりだ!」
サイは顔をゆがめて言葉を吐き出した。右手を握りしめ、小さく震わせるその様子を見て、女神はもう一度深々とため息をつく。
「うーん、まあ、これが気休めになるかどうかはわからないが……おまけだぞ」
女神はそこで言葉を切り、サイに顔を寄せて小声でささやくように続ける。
「君と別れてから数年後、MAGICのプロトタイプ開発は成功し、彼女のビジネスは順調に軌道に乗る。彼女自身に特に大きな病気の因子もないと聞いているし、きっと経済的にも満ち足りた穏やかな老後を迎えることになるだろう」
「くっ!」
何も言い返せず、サイはくちびるをかみしめて顔を伏せた。
「そんなことよりも、そろそろ君の今後について話そうじゃないか」
しばしの沈黙の後、女神はそう言い放つと、この話はこれで終わり、とばかりに両手をパンと打ち合わせる。
その、人知を超えた神らしいとも言える、人の気持ちに寄り添うつもりのみじんもないクールな態度に、サイは内心でかすかな怒りを覚えた。
「実は、君が向こうにいる間に、こちらではざっと約六年が過ぎている」
「え?」
さらっと明かされたとんでもない事実にサイは目を丸くした。少なくとも、目の前の女神に数年前と変化はない。
女神の説明によると、理彩の世界とは時間の流れが一定ではないため、向こうでわずか数ヶ月の滞在でも、こちらでは数年単位で時が過ぎる、ということがあるのだという。
「だが、おかげで君が当時抱えていた問題はほとんど解決していると思うよ。君はあの日ここで毒を飲んで死んだことになっていて、礼拝堂の脇にはささやかながらちゃんと墓石もある。君に暗殺者を仕向けていた内務卿はとうの昔に失脚した。意図したものではないが君自身の見た目もずいぶん変わったし、この際別人として再出発するのもありだと思うよ」
「ここ、ということは、ここはあの礼拝堂なんですね?」
「……の、祭壇の背後にある隠し部屋だ」
「では、アルトカルはどうなりましたか?」
「ああ、大魔道士アルトカルかい? 彼は先ごろ新設された魔法庁の初代長官になった。今や王の右腕と呼ばれ、飛ぶ鳥を落とす勢いで順調に出世している。外務卿と些細なトラブルを抱えているが、それ以外はまあ、順風満帆って感じだな」
「……そうですか。では、メープルは……」
「メープル? さて、聞かない名前だな。ああ、もしかして君の元婚約者だった娘か?」
「ええ。振られましたけどね」
サイは皮肉っぽく答えて長い長いため息をつくと、大きく首を振って過去の未練を振り払った。
「わかりました。じゃあ、そろそろ行きます」
「待った待った! いきなりどこへ行くつもりだい?」
「もう追われていないのなら、王都に戻ろうと思います。学校は卒業直前に追い出されてしまいましたから正式な魔道士にはもうなれませんが、せめて流しの魔法師にでもなって、下町で適当に生きていきますよ」
「いや、それは困る!!」
「は?」
「あ、じゃなくてだね」
そこで女神はもったいをつけるように一度言葉を切る。
「実を言うと、ここ、サンデッガは現在、隣国のタースベレデ王国と一触即発の状態にある」
「え?」
「六年前、君がこの世界を離れる前後に一度はおさまった戦争の火種がまたくすぶりはじめたんだ。主にサンデッガの主戦派が暗躍してるせいなんだが、これまで奴らに睨みをきかせていたタースベレデの強力な魔女が最近になって姿を見せなくなったといううわさがばっと広がって、もうどうにも抑えが効かなくなったというのが真相だ」
「……はあ」
「そもそものきっかけは、サンデッガとはタースベレデをはさんで反対側、大陸の東にあるドラク帝国がついに壊滅して、オラスピア王国が復興したことにある」
そのあたりはサイも以前魔道士学校でも習った記憶がある。かつて善王が治めていたオラスピア王国は、臣下ドラクのクーデターで滅亡し、その領土を丸々かすめ取る形で独裁国家であるドラク帝国が成立した、だったか。
「そうか、潰れたのか」
そうつぶやきつつ、サイに特に感慨はない。
強いて言えば、サイ自身を含む山岳民族ヤーオの
むろんサイ自身、だれかにはっきり少数民族出身だと聞かされたわけではない。黒目、黒髪という、この大陸では珍しい身体的特徴が魔法に長けた山岳少数民のそれと共通する、という程度の根拠しかない。
「独裁国家ドラクという東からの重圧がなくなったタースベレデが、余裕のできた国内の兵力を西のサンデッガに向けるんじゃないか、と主戦派は妄想したんだな」
「それって、根拠のある話なんですか?」
「まさか!」
女神はうんざりといった表情でサイの疑問を否定する。
「証拠は何にもない。誰かが故意にまいた噂だよ。だが、噂に踊らされた主戦派は、だったら先手を取って、うっとうしい魔女が留守の隙にタースベレデをひと叩きしておこう、と盛り上がっているわけだ」
「で、僕がそれにどう関係するんです?」
「ああ。君、ここらで一つ、恨みを晴らすつもりはないかい?」
彼女はそう言うと、およそ女神らしくない底意地の悪い笑みを浮かべた。
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