第49話 理想を実現するために

 精進しょうじん落としを終え、一同が自宅に戻った時にはもう完全に夜になっていた。

 明美が手早くお茶をいれ、理彩とサイの前にコトリと湯気の立つ湯飲みを置く。


「お疲れ様でした。どうぞ一休みしてください」


 その声にようやく一息ついた理彩は、黒い本革のソファにずぶずぶと沈み込んで目を閉じた。ここ数日の疲れがじんわりと脳を侵食し、なんとも言えないもの寂しさと、眠気とけだるさが同時に全身を襲う。


「当分はこの家も静かになりますね」


 静まりかえった室内で、明美が誰に聞かせるともなくつぶやいた。

 今三人が座っているのは理彩の父が生前使っていた書斎だった。

 北向きの小さな二重窓と防音仕様の分厚い壁が幸いして、この部屋だけは襲撃の被害をまったく受けていない。

 理彩の部屋以外、ほとんどの部屋がまだ完全に修理が終わっておらず、また暗殺未遂事件の起きた部屋に精神的に不安定な理彩を戻したくない明美は、故人をしのぶという名目で二人をここに案内したのだった。


「ふう」


 理彩は小さくため息をつく。

 長く勤めた老執事が姿を消し、彼が仕えていた理彩の父はもはや永遠に戻らない。同時に、父の代から仕えていた年配のメイドも退職を申し出てきた。

 表向き先代当主の死を理由にしていたが、新しい当主の理彩が立て続けに命を狙われていることを不安に思い、巻き添えを嫌ったというのは考えなくてもわかる。

 あるいは、桧枝と同じように、彼女もどこかの組織から送り込まれた密偵なのかも知れない。こんなことが続けば改めて身近な職員の身元を確かめることになるだろうし、身元バレの危険性を察知していち早く逃げ出そうとしているのかも。

 そこまで思いついてそれ以上の思考を放り出すと、理彩はどんよりとした表情で再び長いため息をついた。


「明美さんは辞めないの? 父はもういないわけだし、私には義理もないでしょう?」


 理彩は、向かいのソファに座る秘書に向かってそう問うた。ただ、微妙に拗ねたような調子が声に混じるのを自分でも抑えることができなかった。


「いえ、今のところその予定はありませんね」


 だが、予想に反して明美はあっさり否定する。


「いいの? あなたも色々と巻き添えになるかも知れないわ」

「フフフッ、確かに。なかなか興味深い体験をさせていただいてます」


 明美はそう言ってにっこり笑った。


「こうなったらもう、どこまでもお付き合いしますよ。ご安心ください」


 仮にそれが明美個人の意思ではなく、彼女の派遣元の指示だったとしても、そう言ってくれるだけで理彩はほっとした。


「ありがとう」

「いえいえ」


 笑顔で頭を下げた明美は、思い出したように口を開く。


「それよりも、会社の方はどうなさいます? こんな状況ですから、しばらく休養という形でお休みいただくことも可能だと思います。もちろん業務には支障がないようにとり計らいますが」

「いいえ、業務の引き継ぎは父が入院したときにだいたい終わってるし、今さら何かが変わるとも思えない——」

『理彩』


 その時、サイドボードに置かれたスマートスピーカーから突然シンシアが呼びかけてきた。


『お話中に突然口を差しはさむことをお詫びします。実は急ぎお伝えしたいことがありまして……』


 理彩は驚いたように片眉を上げ、小さく首を傾けた。


「何よ改まって? というか、今までだって突然口をはさんでこないことの方が少なかったような気がするんだけど?」


 サイも同じ感想を持った。

 この衛星シンシアは、自身の持つ有り余る演算能力を無駄に使い、サイと理彩の周辺にあるあらゆる電子機器を使って常に二人の会話に聞き耳を立てている。そればかりか、今のように他所のAIの支配する機器を図々しく乗っ取って自分の手足のように普段使いしてしまう悪戯いたずら好きの超AIだ。


『失礼な。これでも私は遠慮してましたよ。そんなことよりも、お父様にもしものことがあったときのため、以前からお預かりしている極秘データがあります。開示するには、今この時をおいて他にないと——』

「あー、僕、席を外すよ」


 サイはソファから腰を浮かす。シンシアの持つ極秘のデータとやらは、理彩の父が理彩に残した遺言のたぐいだろう。赤の他人が無遠慮に聞いていい内容じゃない。

 だが、理彩は短い言葉でサイの動きをさえぎった。


「サイ君、ここにいて」

「……いや、でも」

「大丈夫だからいて」


 暗めの照明に加え、うつむいているせいで理彩の表情ははっきり判らない。サイは小さく肩をすくめると、再びソファに腰を落とした。


『では改めて。ゴホン』


 シンシアはもったいぶった様子で間を置くと、とんでもないことを言い出した。


『では、お父様がわたくしシンシアを設計、開発した〝本当の理由〟についてお話しいたしましょう』

「ええ? それって、いつか来る災害に備えて、いろんなインフラを代替するためじゃないの?」


 理彩が目をむいた。


『確かに名目はそうですが、ただそれだけでもないのですよ』


 驚きに身を固くする理彩に向かって、シンシアは、まるで幼子を諭すように優しく答える。


『お父様がこの国の軍事組織と深いお付き合いをされ、私の集めた情報を今も自衛隊や同盟国の情報機関が買い取り続けている理由。それは、周辺各国の軍事行動の情報を集め、同時に、実力でその動きを牽制するためです』

「!!」


 理彩はしばらく凍り付いたように硬直し、やがていやいやをするように力なく首を左右に振った。


「……いえ、でも、パパはこの世から争いをなくしたいって……なのになぜ軍隊に……」

『そうですね。〝この世界から、すべての飢えと争いをなくしたい〟、理彩のお父様がそのようにお考えだったことは間違いありません。シンシア設計思想アーキテクチャの大元に、その言葉が削除不能なフォーマットで書き込まれていますからね』

「そ、そうよね」

『ですが、お父様は同時に、それを阻む強大な勢力が存在することも理解しておいででした。世の中には、自らの支配力を維持するため、様々な不公平があるほうが都合のいい勢力が一定数存在するのです』

「そうね。私達も、パパも、そういう人達に……」

『ええ、ですから、お父様はこうも考えました。目的を果たすためには、それを阻む勢力を排除するだけの強い力があわせて必要だと。お母様が汚い計略にはめられて、自ら命を絶たれてからは、特に強くそうお考えだったようです』

「ええ、そ、それって……」


 理彩はサイと顔を見合わせた。


『その通り、あなた方がたどり着いた結論とほとんど同じですね。理想ゆめを実現するためには、ただ漫然と振りかかる火の粉をはらっているだけではダメなんです。みずから敵に立ち向かってそれを排除し、理想をつかみ取るだけの力が、絶対に必要なのです』

「……力?」

『ええ、そのために、私には人工衛星としては過剰とも言える発電余力があり、はるか上空から一撃で湖を蒸発させられるだけの電磁波投射能力を備えています。これは使い方によっては強力な抑止力となり得ます。まあ、残念ながら宇宙条約によって〝神の杖〟の搭載は見送られましたが。ハハハ』

「神の杖?」

「衛星高度から、電柱ほどの大きさの重金属の矢を地上に向けて発射する想像上のトンデモ兵器ですね。超巨大なボウガンという感じでしょうか」


 シンシアの冗談が理解できずにきょとんとする理彩に、明美が短く解説を加えた。


『ところで、そろそろお父様が理彩に残された物をお伝えしてもいいですか?』

「ええ? 今の話がそうじゃなかったの? 私、もう十分おなか一杯なんだけど」

『あと一つだけです。お父様が理彩に遺された物は、私シンシアへの〝最優先、無制限アクセス権限〟です。自分の抱く理想と使命を理彩に託すと、お父様はそうおっしゃいました』


 同時に、壁の一部がスライドし、銀色に輝く金属の小さな扉が姿を現した。


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