第42話 今、迫り来る危機

 結局、サイの治療は簡単な消毒をして右手の裂けた肉を二箇所、それぞれ五針ほど縫っただけで終わった。

 ちゃんとした治療をしようにも、ちょっとした擦り傷程度ならすぐに表面に薄い膜が張り、傷口が多少えぐれていても表面が乾いた後は見る間に肉が盛り上がってくる。消毒液を使うとかえって回復が遅れるようなので、基本、傷口を水道水で水洗いして、後は待っているだけだ。


「これ、見てるだけで気持ち悪い、吐きそう」


 理彩は本人を目の前にしてとても失礼なことを言う。

 だが、サイ自身は生まれて以来ずっとそうだったので自分にとってはこれが当たり前だ。今さらどうこう言われようと返事のしようがない。


「サイの周りの人はみんなこうなの?」

「いえ、これほど治りが早いのは……いえ、もしかすると……」


 櫻木がいる手前なんだか微妙な聞き方をしてくるが、向こうの世界のことだろうとあたりをつける。改めて考えてみると、魔道士学校では他人の傷口を見る機会はなかった。貴族の同級とは折り合いが悪かったし、そもそも彼らはあまり危険な任務に携わろうとはしなかったからだ。

 思い当たったのはもっとずっと古い記憶。彼がまだ孤児院で暮らしていた頃、ゴールドクエスト司祭が孤児達を野良犬からかばってケガをした時のことだ。

 野犬の鋭い牙で二の腕を噛み破られた時、司祭の傷口からは間違いなく大量の出血があった。だが、今改めて思い直してみると、確かにその後、彼が腕に包帯を巻いているのを見た記憶はない。


「なるほど、なんだか複雑な事情がありそうだ」


 複雑な表情で言葉を濁すサイに、櫻木が割り込むように話しかけてきた。


「そうそう、この写真を見てくれるかな。この前の採血で血球成分の検査数値に異常があったんで、念のため桧枝君の血液を電子顕微鏡で撮影してみた」


 サイは、示された細密画を見て首をひねる。

 そこには、真ん中が潰れた丸いパンのような物体がびっしりと描かれていた。また所々には表面に短いトゲのある大小様々の丸い物体が混じり、さらに、それらの間に紛れるように、完全な球体型の微少な粒が大量に描かれている。


「何ですかこれ?」

「これね、桧枝君の血液を電子顕微鏡で一万倍に拡大して撮影した写真だ。この潰れた丸餅みたいなのが赤血球、この胡麻団子のような大きいのが白血球、長い触手を持つ不定形の奴が血小板」


 解説しながらペンの先でツンツンとつつく。


「すいません。よく判りません」

「ああ、すまない。つまり、君の血液には、肺から取り入れた酸素を全身に運んだり、外部から侵入した病原菌に対抗したりする、血球という成分がある。これはどんな人間にも、いや、地球上の哺乳類すべての血にほぼ同じ物が含まれている」

「……なるほど?」

「で、ここまではまあいいんだが、さあ困ったのがこれだ」


 櫻木はそう言いながらペンの先で球体状の小粒を示す。


「これ、正直なんだかわかんないんだよね。その上、どれも完全な球形をしていて形や大きさに揺らぎがない。まるで〝人工物〟のようにも見える」

「ええ?」

「その上これね、普通の人間の血液には見当たらない未知の血球成分なんだ」

「はあ」

「ま、ここからは私の完全な妄想だが、この謎の血球が君の人間離れした回復力を担っているのではないかと思うんだよね」

「なる、ほど?」


 説明されてもさっぱりわからない。だが、サイの属していた世界とこの世界は、とてもよく似ているようでやはり違う。そこに住む生きものは体の造り自体違うのだと思い知らされた。


「それでおじさん、サイ君はもう大丈夫なんですよね? この前の大ケガ、あと、今日のケガも、後遺症とかは——」

「まあ、桧枝君は大丈夫じゃないかな。わかんないけど」


 櫻井は安請け合いをするようにあっさりと答える。


「むしろ私は姫の方が心配だね」

「おじさん、それはどういう意味?」

「ああ、この前は君もケガをしてただろ? その後体調に何か変化はないかい?」

「ええ、特に。むしろ最近は調子がいいくらいよ」

「……そうか」


 櫻井は沈黙し、そのまま考え込むように顔を伏せた。と、すぐに思い直したように笑顔を見せる。


「そんなわけで、二人とも採血させてもらおうかな」

「ええ? 私も?」

「ああ、この前は姫もケガをしてただろう? この際ついでだ」

「はあ、まあ、無料で健康診断が出来ると思えばいいか」


 しぶしぶ了承する理彩に、櫻木は顔を上げてぱあっと表情を変えると、カバンから指先ほどの硝子ガラス管をいそいそと取り出す。


「そういうニヤけた顔つきを見てると、やっぱりおじさんはマッドなサイエンティストだって思うわ」

「失礼な! 医学の発展に真摯に取り組む学究の徒、医者のかがみと呼んでくれないか?」

「難しい言葉でごまかしても、変態なのは変わらないでしょう?」

「まあな、褒めるのはそのくらいにして、二人とも腕を出したまえ」

「全然褒めてないんですけど」

 理彩はげっそりとした顔をサイに向け、肩をすくめた。




 櫻木が検体せんりひんを手に入れてホクホク顔で部屋を出て行った頃には、もうすっかり夜が明けていた。

 ルームサービスで部屋に運んでもらった食事をつつきながら、話はどうしても昨夜の襲撃のことになる。


「敵の所属はいまだはっきりしませんが、やはり外国勢でしょうね」

「ああ! そう言えばここからも見えるよね。風車のある沖合の埋め立て地、軍艦がいっぱい泊まってるし。あそこって米軍の——」

「いえ! それはあり得ません!」


 明美が妙にきっぱりと否定し、シンシアの声がそれを裏付けた。


『そうですね。昨夜のボートは、大黒島から出航し、あえて米軍の補給基地になっている瑞穂埠頭ノースドックをかすめるように蛇行してからこちらに上陸しました。あえて米軍の関与に見せかけようとした可能性もあります』

「だとすると……」


 サイにはこちらの世界の国際関係はさっぱりわからない。だが、次第に大きくなる襲撃の規模といい、襲撃者の統制のとれた動きといい、どこかの国の軍隊が絡んでいると言われた方がすとんと腑に落ちる。


「彼らの目的は、やはり理彩ですか?」

「そうでしょうね。この前も言いましたけど、衛星シンシアの本格運用が始まると都合の悪い国の関与が考えられます」

「ちょっとぉ、お願いだから国際問題に私を巻き込まないで欲しいんだけど」

「……理彩、ちょっといいかな?」


 考えた末、サイはやはり一言釘を刺しておくことにした。

 いたずらに理彩を怖がらせるのもどうかと思ってずっと黙っていたが、事態は次第にそれを許さない状況に向かいつつある。


「どうしたの? 怖い顔をして」

「これは僕の予想だけど、今日みたいな襲撃者はこれからも続くと思う」

「……続けて」


 理彩はサイの表情を見て笑顔を引っ込めると、口の中の食べ物をオレンジジュースでのどの奥に送り込み、口元をナプキンで押さえながらサイを促した。


「今日はどうにか撃退できたから良かったけど、この先も今回みたいにわかりやすい力押しをしてくるとは思えないんだ」

「そうですね。一番最初の誘拐未遂も入れると、四回も立て続けに失敗しているわけですから」


 明美も表情を引き締めると小さく頷く。


「……まあ、全部が同じ相手だとは限らないけど」


 サイはナイフとフォークを置くと身を乗り出し、理彩の顔をじっとのぞき込んだ。


「もし僕が敵だったら、いいかげん攻め方を考える」

「……例えば?」

「見えないくらい遠くからこっそり狙うとか——」

「ああ、確かに、狙撃の可能性も考慮すべきかもしれませんね」


 嫌な顔をする理彩に、明美が諭すように言う。


『遠隔地からの攻撃となると、上空からの監視では十分にカバーしきれないリスクがあります』

「あるいは、全然別の方法……例えば毒を使うとか」

「ちょっとちょっと! 本気で怖いんだけど」

「呪術を使う方法もあるか」

「呪術!!」


 次々と言葉を重ねられ、理彩はわかりやすく怯えた表情になる。


「だとしたら、どうしたらいいの?」

「一番簡単なのは、理彩がどうなっても衛星シンシアの運用に影響がないとはっきりさせることだと思う。君が会社の代表を降りるのが一番手っ取り早い。でも……」

「嫌だよ。パパの会社を誰かに譲り渡せって言うの? それだけは絶対嫌」

「うん。それにこの方法は、理彩の仕事を引き継いだ人に危険を丸投げすることになるんだ。いい解決方法じゃない」

「だったら……?」

「うん、それなんだよなあ。何かいい解決方法があればいいんだけど」


 サイはため息をつき、その場の全員が深刻な顔で黙り込んだ。

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