第32話 サイ、覚悟を決める
「とりあえず、今の時点で判っていることを整理しましょう」
湯気の立つ湯飲みをテーブルに置きながら、明美が張り詰めた場の空気を取りなすように口を開いた。
「先日の、みなとみらいでの襲撃事件、翌日の研究所の砲撃事件、そして今回の、ノーフェイスによる接近事案。事実だけ見ても、私達が何者かに狙われていることは確かです」
サイは頷いた。隣では理彩も同じようにうんうんと首を縦に振る。
「このうち、今回のノーフェイスによる一件だけが異質です」
「それはどういう意味で?」
理彩の質問に、明美は『いい質問です』とても言いたげに大きく頷き、右手の人差し指と中指をピンと立てた。
「前の二件では、狙われたのは間違いなく理彩さんです。拉致されそうになったのはもちろん、自宅の理彩さんの部屋が狙われたのがその根拠です。加えて、この二件はどちらもかなり過激な実力行使をともなっていますね」
「まあね、住宅地のど真ん中でバズーカ砲をぶっ放していったもの」
「……まあ、ロケットランチャーですけどね」
明美は理彩の間違いが気になるらしく、細かく修正を入れる。
「また、この二つは理彩さんの生死をさほど重要視していません。むしろ、理彩さんの命を奪うことが目的のように思われます」
腕組みをして聞いていた理彩の表情がピシリとこわばる。
「判っていても、改めて言われると心にずしんと来るわね」
「心中お察しします」
正体不明の殺意が理不尽に自分に向けられて平気な人間はいないだろう。
サイは自分のことのようにやるせなくなった。
「一方で、今日の一件はおそらく情報収集が目的ですね。ターゲットも、理彩さんではなくサイさんで当たりだったみたいです」
「と、いうことは?」
「そうですね。あくまで想像の域を出ませんけど、私達を狙っているのは二つの異なる勢力だと思います。理彩さんを殺害し、柘植リモートセンシングの活動を抑えようとするテロリストと、両者の争いに突然乱入したサイさんの正体を明らかにしようとする一派です」
「なるほどね」
理彩は腕組みを解くと、目の前に置かれたお茶をぐいとひとのみする。
「ですから、理彩さんの身辺警護はこれまで通りですが、今後はサイさん絡みで予想外のファクターが紛れ込むことも念頭に置いておく必要があります」
「まったく、頭が痛いわね」
顔を見合わせてため息をつく女性陣。一方サイは、覚悟を決めるつもりでふうと大きく息を吐くと、二人に向かって宣言する。
「僕は大丈夫です」
「え?」
「自分がつまんない未練を抱えていることは自覚しました。自覚した以上は克服できます。もう迷いませんし、割り切ります」
今回のことでサイは思い知った。自分がもはや意味のない未練を抱えていること。そして、そんな心の迷いが周囲を危険にさらすことも。
「いえ、でも」
「僕のことは気にしなくても大丈夫です」
胸の奥がジクジクと痛む。
サイはその痛みをあえて無視すると、無理やり笑顔を作って二人に微笑みかけた。
深夜。
「サイ君、起きてる?」
かすかなノックの音と共に、ドアの外から控えめな声で呼びかけられる。
眠れないままベッドでぼんやり天井を睨んでいたサイは、むっくりと起き上がると、おもむろにドアを引き開ける。そこには、部屋着姿の理彩が立っていた。
「やっぱりサイ君も眠れなかった?」
「ええ」
「良かったらコーヒーでも入れるわ。飲む?」
サイは無言で頷くと、理彩についてリビングに移動した。
「せっかくだから、今夜はちょっとだけ本格的なコーヒーに挑戦しようかな」
理彩は照れくさそうに笑いながらそう前置きすると、この部屋に入居以来、一度も使ったことのない古い調理器具を引っ張り出してきた。
ニス仕上げの茶色い木箱の上に小さな金属製のボウルと長い取っ手がついたような形で、木箱の下半分には小さな引き出しもついている。
理彩はガラス瓶に入った黒い乾燥豆を
「硬そうだな。僕がやった方が良くない?」
「いえ、大して力もいらないし、すぐに終わるわ」
その言葉通り、数分で豆はすべて粉になり、木箱の中に吸い込まれた。
理彩は木箱の引き出しを抜き取ると、たまった茶色い豆の粉をすくって濾紙をひいた
「本当ならサイホンでやるべきなんだけど、今日は略式ね」
そう言いながら台所から注ぎ口の細く伸びたやかんを持ってくると、漏斗に向かって慎重にお湯を注いだ。
「ここで焦らずに、時間をかけて蒸らすのがコツらしいの」
すぐに香ばしい香りが立ち上り始めた。粉はお湯を吸ってふっくらと膨れ上がり、理彩はそこに改めてチョロチョロとお湯を回しかける。
「もう少しだから」
サーバーにしたたり落ちたコーヒーは琥珀のような輝きを放っていた。理彩はそれを二組のカップに少しずつ交互に注ぎ、きっちり二等分した片方をサイに差し出した。
「さあ、召し上がれ」
「はあ、いただきます」
一口口に含み、サイは思わず驚きの声を上げた。
コーヒーそのものはここで暮らすようになってから毎食後に出されていたが、ここまで香りのいい一杯は今夜が初めてだった。
「……美味しい」
「そう、良かった。いつものインスタントとは段違いでしょう?」
素直に感想を口にすると、理彩は照れくさそうにニッと歯を見せ、サイの向かいにストンと座った。
「……亡くなった母が、コーヒーがとても好きだったんだよね」
しばらくして、理彩はぽつりとつぶやくように言った。
「母が生きている頃、スプーン一杯だけ味見したこともあったんだけど、幼い私には、コーヒーなんてただ苦いだけだとしか思えなかった」
「……うん」
「大きくなって、コーヒーの味が少しは判るようになった頃には、母はもう手の届かないところに行ってしまった。だから私は、ただの一度も彼女の入れたコーヒーを味わうことはできなかった」
「……」
サイは理彩の顔を遠慮がちに見上げる。遠い目をしていた理彩は、サイの視線に気づいてふにゃりと泣き笑いのような表情を浮かべる。
「つまり、ね。私が何が言いたいかというと……」
理彩はそこまで言って絶句すると、その先の言葉を探すように部屋のあちこちに目を泳がせる。
「つまり、あの、私は、君が今抱えている気持ちを本当に理解することはできない。それでも、親しい人と永遠に別れる辛さだけは、『判るよ』って言ってあげられるかなって——」
「ありがとう、理彩」
サイは自分でも意識せず、すっと理彩の頭に手を伸ばしていた。
柔らかな髪をさらりと撫でると、理彩は首をすくめ、照れくさそうな、それでいて泣き出しそうな複雑な表情を浮かべた。
「大丈夫です。理彩は僕が守ります。どんなことがあっても、あなたには指一本触れさせない」
「うれしいな……今晩は飲み明かそうか? コーヒーしかないけど」
サイの言葉に、理彩は照れくさそうにコーヒーサーバーを持ち上げて笑う。
と、その時、どこかで
「あれ、私の部屋?」
「伏せて!!」
サイは重たいテーブルを蹴り倒して横倒しにすると、理彩の耳を塞ぎ、体を抱くようにして天板の陰に倒れ込んだ。
次の瞬間、理彩の部屋から轟音と共に炎と爆風が吹き出して二人に襲いかかった。
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