第31話 サイ、誘導尋問に引っかかる

「私、あなたを探していたの」


 彼女は繰り返すようにそう言った。

 彼女のつけた香水の香りなのか、控えめな花の香りがサイの鼻を刺激する。

 メープルが前からこんな香水をつけていたのかどうか、何度も思い返したがサイには記憶がない。だが、なぜか不思議に心奪われる不思議な香りだった。


「メープル、君はなぜここにいるんだ?」

「なぜ? だって、ずっとあなたを探してたんだもん」

「僕を?」

「ええ、そう。ずっとあなたに会いたかった」


 そう、甘えるようにささやくと、首を小さく傾けて蠱惑こわく的にほほえむ。


「でも、君は僕の前から姿を消したじゃないか? 会いたかったのなら、なぜそんな……?」

「ごめんなさい。私、だまされてたの。でも、本当に大切な人は誰か、ようやく気づいた」


 彼女の甘い言葉が耳に心地よい。

 ただ声を聞いているだけなのに、サイの体はポカポカと暖かく、いつしかサイは全身の緊張を解き、薄っすら眠気すら感じるほどリラックスしていた。


「やっぱり、私にはあなたが必要。だから、ずっと探していたんだよ」


 こんな言葉を待っていた。

 自分を肯定してくれる。それがこれほどまでに心安らぐものだとサイは気づいた。


「で、でも、簡単じゃなかったはずだ。どうやって世界の壁を越えた? 君もターミナリアに頼んだのか?」

「世界の壁? ターミナリア? ごめんなさい。それは何? よくわからないの」

「そんなわけないだろ! ここは僕らがいた世界じゃないことくらい君は……」


 反論しようととして、サイはふと違和感に気づく。

 メープルは、いや、メープルにそっくりなこの少女は、自分からは何もしゃべっていない。

 サイを求めていたと言う以外は、すべてこちらの話を繰り返しているだけだ。


「なあ、メープル。おかみさんは元気かい? ずいぶん長いこと会ってないんだけど」

「おかみさん?」

「そう、エボジア。今も薬屋をやってるのか?」

「……え、ええ。相変わらず元気よ」


 その瞬間、サイの背中はまるで冷水を浴びせられたようにゾクリと冷えた。


「……そうか」


 歯を食いしばり、自分の感情が表情に出ないように必死に耐える。


「ごめん、今日は急いでいる。もっと色々話したいんだけど、また会ってくれるかな?」

「ええ、もちろん! ああ、良かったら連絡先を教えて」

「ごめん。スマートフォン持っていないんだ。また声をかけるから」


 サイは早口でそれだけ言い残すと、足早に学校を出た。

 スマートフォンはあの女神に渡されたものがあるが、なぜかそのことは言いたくなかった。


「くそっ!」


 思わず声に出た。

 あの転校生はどう見てもメープルだった。サイは確信していた。生まれて間もなく同じ孤児院に引き取られ、それから十六年も一緒にいたのだ。見間違えるはずもない。


「それなのに……一体あいつは誰なんだ!?」


 あの、媚びるような口調。蠱惑的な微笑み。メープルは、あんなにあからさまな態度で僕に甘えるような娘だったか?

 その上さらに、彼女は彼女が知っていて当たり前のことを知らない。

 おかみさんが薬屋なんて、ひねりも何もない引っかけにどうして引っかかるんだ。サイはそれが悔しくて、悲しかった。


「……あれさえなければ、信じられたのに」




 だが、偽メープルの正体はあっけなく判明した。

 万一の尾行に備え、かなりの遠回りをして理彩のマンションに帰り着くと、彼女と明美さんがしかめっ面でサイを待っていた。


「もう一人の転校生の正体がわかりました。彼女はとある外資系企業の関係者と目されている人物です」


 明美さんが何枚もの細密画が綴られた書類をダイニングテーブルにバサリと投げ出す。

 サイはたった半日で正体を探り出した明美の手腕に驚いたが、実際は学校側から同時期に転入する生徒の存在を知らされていたらしい。


「教頭先生との面談で、転校生の話を聞いたんです。〝同じ時期に転入する子がいるから寂しくないでしょう〟なんて言われて、あれ、おかしいな、と」


 なるほど、ほんのちょっとした雑談からリスクを察知したらしい。


「すごい……明美さん、あなたがいれば僕は別にいらないのでは?」


 半ば呆れ、半ば驚くサイに、明美は両手を振って大げさに否定する。


「何言ってるんですか。私はこれでもか弱い女性ですよ。物理的な脅威には太刀打ちできません。っていうか、確かについ最近までは私がいれば十分だと思ってたんですが……」


 口ごもると、わずかに顔を赤くして頬を掻いた。


「先日からの一連の騒ぎで、さすがに危機感を感じましたので……」


 咳払いすると、真面目な口調に戻ってさらに続ける。


「話を戻しますと、この人物は何らかの情報を探り出すために、転入を装って入り込んだものと思われます。年齢は不明ですが、同一人物だと思われる存在は、少なくとも十年前から活動が確認されています」

「十年前?」

「ええ、凄腕のスパイ、らしいですよ」

「え……でも」


 サイは混乱した。

 彼女は十代なかばの少女にしか見えなかった。それどころか、この世界にいないはずのメープルの顔をしていた。


「これ、見てください」


 明美さんはテーブルの上の書類をほぐすと、細密画をずらりと並べた。


「この顔写真や似顔絵は、すべて同じ人物のものです」

「え、でも?」


 並べられた細密画は、女性である、という一点を除いて、どれも別人にしか見えなかった。年齢も人種すらバラバラ。もちろんメープルには似ても似つかない。


「このスパイは変装の名手と言われています。接近するターゲットに合わせて、その人物がしばらく会っていない、しかしかなり親しい間柄に巧みになりすますんです」

「え、でもどうやって……」


 口ごもるサイに、理彩は小さく眉を吊り上げた。


「まさか、サイ君?」

「う……うん。話をした」

「関わらないでって言ったのに……」

「突然向こうから接触してきたんだよ。身構える暇もなかった。それにあの子はメープルにそっくり……いや、瓜二つってレベルじゃない。完全に本人だったんだ」


 慌てて言い訳を重ねるサイに、理彩は仕方ないなあという表情で小さく鼻を鳴らす。


「……で、何か話した?」

「最初は気づかなかったから、『どうやって世界の壁を越えた?』とか、『ここは僕らの世界じゃない』とか口走った気がする。その後は、何だか違和感を感じてごまかしたんだけど……」


 理彩は明美と顔を見合わせた。


「当然情報は抜かれていると考えた方がいいでしょう」


 明美がしかめっ面で言うと、


「むしろ、その程度の被害で気づいて良かったと考えるべきでしょうね」


 理彩も同じようなしかめっ面で返す。


「でも、あれはどう見ても……魔法の波動も感じなかったし……ああ、もしかしてあの香水の香り――」

「香り……なるほど」


 明美はそれを聞いて納得したように頷いた。


「どうやら、変装に加えて催眠術のようなものも併用してるみたいですね。何らかの薬品と暗示も使って、接触対象の意識に知り合いの面影を作り出すんでしょう」

「ということは、まさか……」

「多分、サイさんが見た彼女の姿はあなたの脳内にしか存在しない。もちろん本当の顔はメープルさんに似ても似つかないと思われます。さすが〝ノーフェースカオナシ〟と呼ばれるだけのことはありますね」

「もうっ!」

「ごめん。僕が悪かった」


 理彩の剣幕に、サイは素直に頭を下げる。


「サイ君を責めているわけじゃないわ。でも、もう二度と彼女には近づかないで」


 責めていないと言ったくせに、あからさまな不機嫌顔で理彩はそれ以上の話を打ち切った。

 

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