第二章

第18話 サイ、異世界で目覚める

「あれ?」


 ふと気づくと、サイは月明かりの差し込む薄暗い部屋に横たわっていた。

 だが、背中に感じる感触は礼拝堂の冷たい板張り床ではない。適度に弾力のあるベッドのようなものだった。


「お、目が覚めたね」


 声に気づいて頭を巡らせると、同時に部屋の明かりが少し強くなる。

 枕元には女神が座りこんでいて、今まさに自分の口に運ぼうとしていた食べかけの白っぽい具入りパンを掲げて見せた。かすかに香ばしい香りがする。


「おなかすいてない? よかったらこれ食べる?」

「……じゃないですよ女神ターミナリア。ひどいじゃないですか。突然ものすごく頭が――」

「あ、最初にごめん、私は君の知っている私じゃないんだわ」

「は? 私じゃない? どういう——」

「……まあ、どっちも私であることには変わりないんだけど」

「はあ?」


 サイは女神の顔をまじまじと見つめた。だが、表情といい体型といい服装といい、どうみてもさっきまでの女神と同一人物にしか見えない。


「君が言うターミナリアってのはそっちの世界担当の調整官のことだよね。君、彼女からどこまで聞いたの?」

「調整? あの、何を言って——」


 女神の意味不明な言動に、サイは思わず上体を起こそうとして、激しい頭痛に襲われた。


「おーっと、いきなり激しく動かないの。世界線の移動には精神体にかなりの負荷がかかるのよ。うかつに動くとゲロ吐くわよ」

「世界線? う、うぐっ!」


 言ったそばから強烈な吐き気がこみ上げてくる。


「ほーら、言わんこっちゃない」


 彼女はあきれたように叱りながらつやつやとした素材で作られた小ぶりな桶を無造作に差し出してくる。よく知らない若い女性の前でみっともないとは思いつつ、結局そのまま、サイは胃の内容物をほとんど吐き戻してしまった。ここ数日は絶食に近く、出てくるのは酸っぱい胃液がほとんどだったが。


「どーれ、そろそろ落ち着いたかな?」


 女神はサイの背中を優しくさすり、吐き気が治まったところで驚くほど透明な玻璃ガラスのカップを差し出してきた。


「ちょっと休んでて。身体も再構成されているから。なじむまで少しかかる」


 そう言い残すと、彼女は部屋を出て行った。

 サイはあらためてあたりを見回し、自分が壁も天井も薄い象牙色に光る不思議な部屋にいることに驚く。ちょっと前まで、自分は礼拝堂にいたのではなかったか。

 答えを探しあぐね、手の中にある玻璃のカップにおずおずと口をつける。


「あ、冷たい!」


 サイは一口飲んで驚きの声を上げた。まるで真冬の屋外に置かれていたように冷たく澄み切った水だった。

 ちびちびと喉を潤し、ようやく一息つく頃には結局全部飲み干してしまった。


「この世界ではこういうの、当たり前だからね。早く慣れてね」


 再び戻ってきた女神は、空になったカップを受け取ると、代わりに魔道書ほどの大きさの黒い玻璃ガラス板をサイに手渡した。


「何ですか、これ?」

「タブレットだよ」

石版タブレット?」

「うわー、まずはそこからかー。まあいつもと逆だしな。先は長そうだな〜」


 女性はうんざりしたようにぼやくと、タブレットの表面に指でちょんと触れた。


「こ、これは!」


 サイは石版の表面に突然現れた動く写実画に驚いて声を上げるが、女性はまったく表情を変えずに顎でタブレットを指す。


「まあ、まずは何も聞かずにこの動画を見てくれないかな? 三十分……いや、君らの世界の単位で、えーっと、一刻ほど付き合ってくれたら、その後は質問に答えてあげるから、さ」




 三十分後。

 サイは呆けていた。というか、あぜんとして言葉が出なかった。

 彼女がサイに見せたのは、この世界の街の様子を捉えたという動く絵だった。


「あの、〝ビル〟という石造りの建物は、本当に何十階もの高さがあるのですか? こんな物がこの世界にはいくつもある……?」

「うん。動画に映っていたあのデカいやつはランドマークタワーといって、今から三十年ほど前に作られた地上七十階建ての建物だね。確かいまだにこの国でも一、二を争う高さだったと思う」

「サンデッカの王城の何十倍も高いのか……」


 サイは思わず感嘆の声を上げた。想像力が全然追いつかない。


「信じられません。それにあの猛烈な速さで駆ける鉄の巨竜や車輪のついた馬車は一体……仮に魔法だとしても、どうしてあれほどの速さで――」

「あ、あれ、魔法じゃないんだよ」

「え?」

「この世界に魔法はない」

「え!?」

「うん、この世界に魔法はないんだ。あれにはモーターや内燃機関が内蔵されてて、 基本的に自分で動く。あの長いのは電車、あと小さいのは自動車っていう。どれも人間が作った機械だ」


 それを聞いてサイは息をのんだ。


「人が……ということは、あのようなものが、この世界には大量に……」

「まあ、高層ビルや電車は都会限定だけど、自動車ならこの国のほとんどの場所に普及しているね」


 長い沈黙の後、サイは深いため息をついた。


「……はあ、わかりました」

「え、わかったの!? 早くない!?」

「いえ、頭で理解しようとしても到底無理なのがわかりました」

「うん?」

「この世界が僕の暮らしていた世界と全く違うこと、知らないものがいくらでもあるのだと。どうやら丸ごと飲み込むしかないみたいです」

「……ほう」


 女神は途端に面白い物をみつけたようにニヤリと笑う。


「君、面白いな。全然驚かないんだね。しかも適応が思った以上に速い。普通の人間はこのあたりで一度パニックになるぞ」

「いえ……十分驚いていますよ」

「そうかい? はた目にはずいぶん達観しているように見えるが。まるで老人みたいだな」

「なんですかそれ? 僕はまだ十六です。成人したばかりです」

「へえー。 君は魔法使いだし、実は四百才とか言い出すかと思ったよ」

「違います! そんな訳……」


 否定しかけて、そんなこだわりはまったく意味がないことに気づく。


「まあいいです。十六だろうが四百だろうが、どちらにしても僕は向こうの世界では……」

「うん。死んだことになってる」

「もう、戻れないんですよね」

「あー、それは、まぁ」

「だとしたら、なるようにしかならないです」


 サイはそう言って自嘲気味に笑った。そのまま手の中の石版タブレットに目を落とし、夜明け間近の礼拝堂で聞いた言葉を思い出す。


「……そういえば、女神ターミナリアには僕の魔道の才がこの世界でも役に立つとおっしゃいました。もしもこの世界に魔法がないのなら、僕は一体何のためにこの世界に送り込まれたのですか?」

「なるほど。気になるのはそこか。じゃあ説明しよう。あ、その前に……」


 彼女はそばのカウンターにずっと置きっぱなしだった食べかけの具入りパンに手を伸ばす。


「これ、食べる?」

「女神、いい加減そこから離れてくれませんか!」

 

 サイはさすがに呆れて突っ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る