黒い商談
よく整備された石畳は、散らかされたゴミと排泄物の臭いで台無しになる。
大通りをひとつ外れれば、あっという間にこの有様。見た目だけは綺麗に取り繕われているが、皮を剥げばこんなものだ。急速な発展に置いていかれた、哀れな民衆が隠れ潜む路地の裏。
「……そういう事なんだろうけど」
そこを行くのは、やや場違いな、身なりは整った青年が一人。
全身を隠すような外套とさらに深く被ったフードは、人相をはっきりとさせない。強いて言うなら、痩せたように体が細そうという事と、男性ではあろうが比較的に小柄という事くらい。
場違い。そう、場違いだ。こんな所に居るにしては衣服はきっちり整い、擦り切れた様子のひとつもない。埃や砂は少々被ってはいるものの、手入れを怠られた格好では無い。
つまり、それは手入れをするだけの余裕があるという事。
(深入りはできない。……やる事を済ませたら早く退散しよう。大通りから大きく逸れたら、きっと色んな意味で帰らぬ人になる)
男には狙われている、という確信くらいある。
ここは生きる事で手一杯な輩が集まる場所だ。であれば、金銭になりそうな格好の貧弱な人間一人など、格好の的にしかならないだろう。
お目当ては、たったひとつ。
懐の重みを確かめながら、慎重に、暗がりの中を歩いていく。
(主道からは外れてない。教えてもらった協会も……見えるな。騒ぎが起きても咎められるかは、まぁ──運だ。運が無かったら、そこで僕は終わりだな)
敢えてより暗い所は避け、たまに隅にいる人影に目をやりながら、可能な限り誰とも目を合わせずに歩を進める。
たまに後方を確認。ついてきている人が居ない事に安堵しながら、また少しずつ探索を続け。
「──よう、兄ちゃん。面白い格好だな?」
声をかけられたのは。
諦めて
「……そうかい?」
「くく──ただの世辞さ。しかしこの辺りをうろついて、一体何を探していたんだか」
青年の格好とは真逆に、擦り切れた服、靴も履かずに放り投げられたボロボロの足。
彼の目はまるで、獲物を見定める猛禽の様で。
「噂になりかけてるぜ。変な格好の若いのが、目的も見えずにふらついてるってな。早いとこ去るか──餌になるか、腹を括りな」
忠告。
……僅かにも意図が無い訳がないだろう。話しかけて得になるような事は無いはずだ。
では、男の忠告の狙いとは。
「噂、か。そうなると、貴方はこの辺りのボスなのかな?」
「まさか。縄張りはあっても個々人が孤立してるさ。まぁ──餌になるなら売る事になんの躊躇いもないが?」
それは、脅迫か。
いいや、違う。恐らく取引の提案。
命が惜しければ対価を出せ。彼は、そう言っているのだろう。
「……抵抗はするよ」
「ふ、は。お前一人が抵抗して、」
「鳴り物なら潜ませてる。喉を潰されても人は呼べる」
数秒、沈黙が落ちる。
その後の溜息。二人同時のそれに、今度は互いに押し殺した笑いがまた重なる。
「クソ度胸とは、参ったなこりゃ。脅しだけで強請れるなら良いかと思ったが、一筋縄じゃいかねぇな?」
「きっと僕達の目的は一致している。なら──ここからは商談と行こうか?」
す、と懐を探る青年。
何事かと目を細める男の前に、とん、と小さな布袋を置く。
それは片手に収まる程度の大きさでありながら、地面に置く時の音の重みは、下手な砂よりもなお強く。
「……兄ちゃん。砂金とか言わねぇよな?」
「僕の目の前であれば、改めてもらって構わないよ」
確認の上、しゅる、と紐を解き。
覗いた目は、驚愕で大きく見開かれる。
「──言えよ。砂金って」
「見て確認してもらった方が良いと思ってね。……貴方はそれをいくらで買う? 見るに、現金はある程度以上持っていそうだけど?」
舌打ちが返ってくる。
「持ってない、って言ったら?」
「そこまで頭が回るなら、もっと深い所で人をこき使っている事だろうね。逆に言うなら、こんな金の流通に近い所に居る時点で、大雑把に察しはつくという物」
再度の舌打ち。しかしそれは、全くの不快のみというわけではなく。
その裏には、ある程度の賞賛が込められていた。
「いいねぇ。クソ度胸には確かな洞察力もあると見た。さて、そんじゃ──金貨、五枚だ」
「三倍」
青年の即答。
「……確かに僕は余所者だ。だけど、相場を調べていないわけじゃない。多少の色はつけるけど、ちょっとぼったくりが過ぎるんじゃないか?」
「悪くねぇ。いんや、最高だな。……十二枚」
「十五枚だ。引き下がらないよ。表では袋あたり三十枚は下らないだろう?」
数秒の睨み合い。
……諦めたのは、薄汚れた男の方。両手を上げ、降参の意を静かに示す。
青年はそれを見て、満足そうにさらに袋を取り出した。
「取引価格は決まった。なら、追加で引取って貰えるかい? 貴方に損は無いはずだが」
「とんでもねぇ大口だったな、これは」
「僕も手札を交換できて満足だよ。……当面の生活には困らなさそうだ」
男の眼前には、小さく積まれた袋の山。
青年の手元には、大きく膨らんだ金貨袋。
商談の結果は見ての通り。互いに満たされた顔。どうやらお互い、想像以上の収穫になったようだ。
「金って口なら、こっちも空さ。しかし兄ちゃん、いよいよわからんな?」
ただし、疑問は残る。
「こんだけの砂金、表で売ればこの倍──ああ、言っちまうぞ。三倍以上の金にはなった筈だ。それをどうしてこんな腐った、裏の顔に手を出した? 汚え砂金って話か?」
「もう汚い物ではないよ。……しかし、そうだな」
僅かな思考。隙だらけの腹と首。
背に隠した短刀をねじ込む事など造作も無い。あまりに無防備。手を封じた上で刺し殺し、今しがたの取引を全て無い物にするという選択も取れる程に。
だから、逆に。
逆に──この青年に、大いに興味を抱いてしまった。
「それでも、大金を目立った所で動かすのは怖かった。では……駄目かな?」
「…………。ああ、いいさ。そういう事にしておいてやる」
笑顔。
この状況で笑える胆力。或いは、自分の置かれた状況を把握していないのか。
──それはないだろう。青年は初めから退路を確保したという事を話していた。それを牙に、男に取引を持ちかけていたのだ。
だが実態はどうか。
であれば、成程。
確かに、クソ度胸──なのだろう。
「気に入った。気に入った。いいねぇ、お前みたいな頭の良い馬鹿は久々だ。悪い意味でも、楽しかったぜ」
「褒め言葉として受け取っても?」
「褒めているさ。そして認めてもいる。だから、対価に忠告をくれてやる」
ん、と呼吸を正す青年。
聞く耳を確かに持った、という事を示され、少しだけ声を潜めて男は語る。
「『鴉』には、気をつけろ」
「…………鴉?」
「鳥の、じゃねぇぞ。この国の目であり、牙であり、影であり──日陰者の敵だ」
言われて、噛み締めるように青年は頷く。
鴉。鴉、と、小さく呟きながら。
「忠言、心に刻んでおくよ。──世話になった。有難う」
「おう、俺は忘れてそれだけ覚えていけ。──行ってこい、変なの」
ふふ、と笑って、青年は男に背を向ける。
また無防備だ。今は目立つ形で金を抱えている。狙えばすぐに奪えるし、なんなら男が見る路地の裏にも、青年を狙う影が見える。
だから。
「……控えな。俺が許さん」
低い声と共に。
その影を、睨みつける。
「お気に入りに手を出されるのは嫌いなんでな。ああ、そうだな──前に出りゃ首を狙う。手を伸ばすんなら腱を斬る。どうだ? 動くか?」
先程までの飄々とした姿勢からは想像もつかない、粘ついた、人を殺す目。
それは向けられるだけで心臓が潰れるような、重く、鋭く、無慈悲な殺意。
真っ向から受けたその影は、少しばかりの躊躇いの後、出てきた闇に身を溶かす。
「……さて」
間接的に、青年を守った男は。
彼の足の先に、改めて目を向け。
「冒険者協会、か。──そういや奴の名前、聞きそびれたなぁ」
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