第2話
愛沢広が男子児童を蹴り跳ばした翌日、彼女はまたもや遅刻をしていた。
前日の事件の後、先生から「放課後残ってください」と言われていたのに、その言葉を無視してそそくさと下校をしたことに罪悪感と、今日学校に行けばどうせその事について怒られるに違いないという不安を感じていたので、びくびくと震えながら布団に潜っていたのだ。
ヒーローは、アドレナリンが分泌されていない際に叱られるのは嫌らしい。
しかしずっと家に留まっていても、母親に怒られるので、仕方なく彼女はとぼとぼと登校していた。
時刻は9時15分。1時間目の途中といったところだ。
憂鬱な気持ちのまま、愛沢は歩く。平坦な道のりの筈が、まるで山にでも登っているような感覚がしていた。
重い足を上から眺めながら、愛沢は歩く。
上を向いて歩こうだなんて、誰かが謳っていたが、愛沢はその詞が嫌いだな、とふと思った。そもそも上を向いていては、地面に仕掛けられているかもしれない落とし穴に、気付かずに落っこちてしまうかもしれない。涙が溢れる以上に、血が溢れてしまうではないか。
そんな事を考えながら、彼女は歩く。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、そして、
「え」
正門の前で、彼女は立ち止まった。
轟轟と燃え盛る校舎を眺めながら。煌々と輝く世界を美しいと思いながら。
「なん、で」
「なんででしょうね」
突如背後から聞こえたその声に、愛沢は驚き振り向いた。そこにいたのは、背広を着て、水玉模様のネクタイを締めて眼鏡かけた、高身長の男だった。
髪型はオールバックで、しかし艶やかな髪よりも輝くおでこに目が行きそうになるが、しかし現状の愛沢は違った。
不穏な空気を纏った相手の目から視線を反らそうとする、そんな危機感の欠如した勇敢な野生動物が一体どこにいるだろう。
「愛沢くん、あなたは今さぞ困惑していることでしょう。いつも通り遅刻して学校に来てみれば、なんと学校が炎上しているのですから」
笑顔でそう言う男の印象は、さながらプレゼンをする社会人というものだった。しかし、話している内容が大問題である。こんなことをプレゼンで話せば、即クビである。
「ヒーロー、良い言葉です。きっと世の中からこの言葉が無くなるなんてことはありませんね」
「あの」
「ヒーローは、遅れてやってきてこそですよね」
「え、そう、ですね」
普段先生にも敬語を使わない愛沢が、男の異様な雰囲気に気圧され、自然と敬語を使ってしまった。
「しかし、遅れてやってきても誰も救えなければ、それはヒーローではありませんね」
「え」
「君は、ヒーローを自称しておきながら、誰も助けることが出来なかった。今この中で死んでいる生徒や職員は全員、君が殺したも同然だと思わないかい」
「…」
「私たちは、俗に言う悪の組織だ。目的完遂の為にヒーローと名乗る者は全員殺しているんだが、君はまだまだ若い。だから、私たち悪の組織に属すると言うのなら、君の命は助けよう」
目眩く展開に、愛沢はついていけなかった。男は何を言っているのだろう、悪の組織?私が殺した?それよりも消防車はどうした、救急車は、まだ助かる人がいるかもしれないのに、どうして来ないんだ。と、そう思ったところで男は言う。
「そう思っている時点で、君はヒーローとしての資格が無いですよ。君には成れない。若い内に気が付けて良かったですね」
この場に、この状況にそぐわない微笑を浮かべる男は、小学5年生の少女に向かって、ヒーローには成れないと、そう断言した。小学生に向けてその発言はかなり冷酷なものであるが、小学校を全焼させるような男にそんなことを言ったって仕方がない。
愛沢は、そんな男の目から視線を反らして、問う。
「私は、ヒーローに成れないんですか…」
ヒーローを夢見て5年。この5年という数字を長く感じるか短く感じるかは人それぞれだろうが、しかし小学5年生には、そんな数字、無いのと同じだ。
大人は何かにかけた時間とその労力で、それに対する本気の度合いを計ろうとする。確かにそれは正しい。本気でなければ時間なんてかけやしないし、それに向かって進むことはしない。大人は確かにそうだ。
しかし子供は違う。子供は、なりたいと思ったその時から本気なのだ。時間や労力なんて関係ない。夢を見た瞬間には、もう既に本気なのだ。将来がどうとか、生活がどうかなんて考えない、なにせそんなものには興味が無いから。愛沢にとって、今現在最大の本気の興味は、ヒーローなのだ。
だから愛沢は男に訊いた。本気で夢見る、ヒーローに成るという夢の可不可について。
しかし、返ってきた答えは小学5年生にとって残酷過ぎる答えだった。
「成れない。君はヒーローには成れない」
その日、ヒーローを夢見ていた一人の少女は、夢を捨てた。
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