港町フォルティーザ(4)
夜も深まり、街並みからは大半の明かりが消えた。
岸辺は闇の中沈み、波は穏やかで、満月から欠け始めた月が波間を照らしている。
港の方も寝静まり、灯台の光が規則正しく往復しているほか、動くものは見えない。
そんな静かな夜、気持ちよく眠りの中にあったルークは、ふいに揺さぶられて目を覚ました。
「ルー君、ルー君」
「…ん」
「起きて。呼んでる、助けてって」
虚ろな目を半分だけ開けた時、意識はまだ、眠りの中に片足を突っ込んだままだ。
「何が、呼んでるって…?」
「わかんない。海のほうなの、灯台の向こう」
直ぐ目の前に、ミズハの心配げな顔があった。「昼間見た大きな船のほうだよ。火事みたい」
どうせ怖い夢でも見たのだろう、などと思いながら再び眠りの底に沈んでいこうとしていた意識が、船と聞いて、一瞬にして戻って来る。
「エレオノール号のことか?」
ベッドから跳ね起きて、彼は窓に駆け寄った。
カーテンを開くと、窓の外には夜の湾が広がっている。表の大きな港の方の空が、確かに、わずかに明るい。灯台の光とも、船の看板に灯される常夜灯とも違う。
意識にかかっていた眠気の靄は、瞬時にして晴れた。ルークは裸足のまま、大急ぎで階段を駆け上った。丘の上にあるこの家の屋上からなら、港のある入江の奥がかろうじて見える。
そこには、港の三分の一ほども占拠する黒い船の巨体が見えた。夜を徹して作業していたのだろう、支部の解析班の人々が灯したと思われる作業用の明かりが一区画を煌々と照らしている。水揚げされ、これから調査に回されるのであろう荷物の数々が、港前に積まれている。
その船の船尾のほうに、確かに火の手が上がっていた。それも最初はちろちろと舌のように揺れていただけだったが、ルークの見ている前で、突然、爆発するかのように一気に燃え広がった。
風がざわりと首筋を撫で、数秒後、音がかすかに耳に届く。
「何が起きてる?」
階段を駆け下り、上着を引っ掴んで玄関へ走り寄る。
「ルー君、あたしも行くよ!」
止めても無駄、というより、説得している時間ももどかしい。後を追ってくるミズハのほうを振り返りもせず、ルークは港に向かって坂道を駆け下りていった。
船には――おそらく検疫所から派遣された調査班がいる。その中には、きっとアーノルドも。
坂道を駆け下り、街灯だけが点々と照らす海岸通りを、ルークは潮風を切って全速力で走っていく。
港の火が赤く夜空を焦がしていても、町の大半は、まだ異変に気づかず寝静まっている。
だが、人々が気付くのもそう遠くないだろう。さっきの爆発で、何事かと様子を見に来た人々がちらほらと、通りに姿を見せている。
行く手に港の入り口が見え始めた。既にそこは、異変に気づいて駆けつけた、海岸通り沿いに住む人々が集まっている。そして、ルークとほぼ時を同じくして、支部の車が次々と乗り込んできた。爆発に気づいたからか、船に居た人々からの連絡を受けてか、駆けつけてきたのだ。
港から逃げてくる人々の波も合流し、間もなく、あたりは人でごった返すようになった。
「アル!」
ルークは、見知った眼鏡の青年が最前列に座り込んでいるのを見つけて駆け寄った。赤毛の青年は、普段から青白い顔色を今は真っ白にして、へたり込んでいる。見たところ怪我はない。
「良かった…、無事だったんだな。何があったんだ」
「わ、わからないんだよ。貨物室に入ったら、何かがいて。何かが…、それで…」
「どいて!どいてっ」
手桶を担いだ消防隊員が、人ごみを押しのけて、燃え盛る「エレオノール号」に突進していく。類焼を避けようと必死に倉庫から荷物を運び出す船主や、自分の船を沖合いの安全な場所に避難させようと駆けつける船乗りたち。怪我人も出ているらしく、担架で運ばれている人もいる。
「ここじゃ邪魔になる。安全なところへ」
「でも、でもあそこには、貴重なサンプルが…」
腕を掴んで引っ張ろうとするが、青年は石になったように動かない。視線は、食い入るように船の前に積まれた木箱に注がれている。そこにも火の粉が舞い落ち、炎の熱が届こうとしている。
「火が消えないと運び出せない。それに、爆発の原因だって分からないんだろ?」
「あそこにあるのは、ただの石だよ。ただの… そのはずなのに、どうして、あんなことに…」
突然、辺りが明るく赤く染まった。
激しい爆発音とともに、船が二回目の爆発を起こした。
あちこちで悲鳴が上がり、人の波がこちらに殺到してくる。消防隊員たちの緊迫した会話が否応なく耳に届く。
「こいつはだめだ、水ぶっかけたくらいじゃびくともしない」
「今の爆発は?」
「機関部に誘爆した。くそっ、あそこには貴重なエーテル石が――まだ寄港したばかりで取り外していないっていうのに…」
声の最後は、三度目の爆発で掻き消える。
吹き飛ばされた甲板や装甲の部品が、ばらばらと辺りに降り注ぎ、「総員、退避!」の声と悲鳴が入り混じって響き渡る。
焼け焦げた灰が赤々とした火柱に巻き上げられ、ルークたちのいる場所まで降って来た。
「ああ、サンプルが…」
「いいから、早く逃げるぞ!」
嘆くアーノルドを無理やり引きずりながら、ルークは、人波に身を投じた。
船の帆は次々と赤い舌に絡め取られ、船はもう、半分以上が炎に包まれ、海面を赤く染めている。
エレオノール号の周囲の船は次々と、類焼を避けるために沖合いに出され始めた。その途中で、逃げ遅れて船から海に飛び込んでいるエレオノール号の船員たちを拾い上げていく。消防隊員たちはもはやお手上げといった様子で、船の火を消すのは諦め、倉庫や周囲の建物に類焼しないよう、飛んでくる火の粉や燃えさしを消して周るほうに懸命になっていた。
ルークはふと、最初に火の手の上がった船尾のあたりに何かがいるのに気がいいた。その辺りは特に炎が激しいが、まだ、誰かが取り残されているような…。
――いや。人ではない。
何か別の物が…、動いている。
(あれは一体…)
考えるより早く、視界の端を白い影が駆け抜ける。
「ミズハ! 勝手に離れるな」
「変なのがいるの!」
「変なの、って…」
聞き返す間もなく、ミズハは風のように駆け抜けて行ってしまう。このまま、彼女を見失うわけにはいかない。
ルークはアーノルドをその場に残したまま、ミズハを追って走り出した。少女が向かっているのは、船を回りこむようにして沖合いに突き出す防波堤の先端のほうだ。確かに、そこからなら船尾のあたりがよく見える。
「下がって下がって! こら、どこへ行く! そちらは危険だ――」
背後から聞こえてくる警告の声が、遠ざかってゆく。
走りながら、ルークは傍らで勢いを増す炎の熱を感じていた。と同時に、船の船尾の辺りの炎だけ動きがおかしいことにも気づいていた。
未開地学者は想定外の事態に慣れている。どんな時でも冷静に観察することを忘れないのが鉄則だ。
(あれは、炎じゃない…のか?)
崩れ落ちようとする帆げたの向こう側で、何かがゆっくりと、体をもたげようとしている。
桟橋の先端で、ようやくミズハに追いついた彼は足を止め、弾む息を収めながら、まじまじとそれを見つめた。
「…何だ、あれは。」
立ち上がる、それは―― 炎を全身にまといながら動く、人のゆうに二倍はあろうかという大きさの、黒々とした奇妙な存在だった。
体の部分の外見は岩に似ている。というより、岩そのものだ。こんな生き物はこの大陸では知られていない。だとすれば、エレオノール号が新大陸から持ち帰ったものの中に紛れていた、未知の生物ということになる。
調査隊が、未知の生き物を珍しい岩と誤認して持ち帰ってしまったのか。あるいは、生体サンプルとして積荷に混ざっていたものが生きていたのか。
いずれにせよ、その生き物にとって今回の旅は、意図しない不愉快な長旅だったようだ。
耳障りなノイズまじりの声を上げると、岩のように見える生き物は甲板の上を走りだした。見た目とは裏腹の俊敏な動きで、まっすぐに、港の方に向かっている。船から港へは、炎に包まれてはいるものの、いまだ燃え落ちていない渡し板がかけられている。
ルークは、慌てて板を取り外すために駆け出した。
「あ、ルー君!」
ミズハの声が聞こえたが、それには構っていられなかった。
けれど、間に合わない。
岩に似たその生き物は板を渡り、陸を目指して真っ直ぐに駆けてゆく。そして、板を渡りきったところで再び声を上げた。今度は、大きく、堂々とした声で。
港全体に声が響き渡るや、既に船から降ろされていたサンプルの詰まった木箱の一部がガタガタと蠢いた。外装の木が剥がれ落ち、中から一塊になった岩が次から次へと落ちてくる。あの岩に似た生き物は、一体だけではなかったのだ。
様子を見守っていた人々は、それを見て、一気にパニックに陥った。
「何だあれは!」
「こ、こっちに来る!」
「助けて!」
悲鳴と怒号が響きあい、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
町のほうから、けたたましいサイレンの音が響き渡った。消防団や協会が町の自警団に救援要請を出したのだ。
ただしこの町の自警団は対人間の自衛が目的で、想定されている相手は盗賊団や強盗、海賊だ。こんな未知の生き物の扱い方を知っているわけもない。どちらかというと、見物人の安全確保のために手が足りないというところか。
人間たちが右往左往しているその間にも、岩に似た生き物たちは次々と荷物を飛び出して、辺り一帯を荒らし始めた。といいうより、移動するごとに周囲のものが燃え上がってゆくのだ。消防隊員たちも、なんとか簡易なバリケードを築くことまではできたもの、それ以上のことはできず勢いに押されて逃げ始めた。
このままでは、町まで被害が及ぶ。
ルークは、港と桟橋の間に閉じ込められたまま辺りを見回していた。一体どうすれば…
その時、頭上に、かすかな羽音が聞こえてきた。
「いた! ルー君」
防波堤の端に立つルークの隣に、ミズハが音もなく降り立った。「探したんだよー、どんどん走っていっちゃうからー」
「ミズハ、…」
少女の背には、白く輝く翼がある。
「勝手に飛ぶなって言ったのに」
ルークが渋い顔をしているのを見て、ミズハは頬を膨らせた。
「だって、勝手に走り出したのルー君のほうでしょ? 人が多くて見えなくなっちゃったんだもん」
「…それは、…ごめん」
「ねえ、何だろ? あの生き物。」
少女は、不快そうに岩たちのほうを眺めやる。
「分からない。船から出てきたんだ。岩と間違えて連れて帰ってきたんだと思う」
最初に現れた巨大な体躯の一頭が、また、吠え声を上げた。ミズハはきゅっと眉を潜め、一言呟く。
「…嫌な声!」
「あいつらの言葉も分かるのか?」
「あんなのわかんないよ。言葉に聞こえないし、なんか頭悪そう!」
腰に手を当て、少女は腹立たしそうにそう言った。
「あれは敵? 敵だよね。悪い子は排除していいって、お母さん言ってた。やっつけて、いい?」
思いがけず暴力的な発言に、ルークは驚いて小柄な少女のほうを見た。
「やっつける、って。…どうやって?」
聞き返した時にはもう、ミズハはその言葉の実践に取り掛かっていた。目を閉じ、何か呟くように唇を動かす。
彼女の背の翼が白く輝き、周囲に風が沸き起こる。差し伸べた両の腕も光に包まれ、そこから光が分離して鳥の形をとっていく。
ルークは思わず息を呑んだ。
それは、美しいと同時に未知の恐怖を掻き立てる光景でもあった。半身を淡い白の輝きに包まれたミズハは、彼女の"母"であるサラサの姿を思わせた。
ミズハの周囲に現れた鳥たちは、"霧の巣"の周囲を飛び回っていた、あの海鳥たちとそっくりだった。
鳥たちが長い翼をひろげて飛び立つ。夜の闇の中、燃え盛る船が明かりとして照らしだす入江に弧を描いて、白く輝きながら。
港に、ほとんど聞こえない鳥の声が響き渡り、暴れまわっていた岩の生き物たちがぴたりと動きを止めた。ミズハは両手を下ろし、静かに両の目を開いて、標的を睨みつけた。
風が切り替わったのは、一瞬のこと。
輝く海鳥たちは一斉に上昇したかと思うと、直線を描いて地表上の標的めがけて高速で突入していった。くちばしを付き出し、翼を折りたたんで体にぴたりとつけたその姿は、まるで無数の光の矢が大地を撃つようにも見えた。
悲鳴を上げる暇もなく、岩は無数の破片に砕けて散らばった。閃光のように舞い散る鳥たちの羽根は、しばらくするとそのまま、溶けるように消えてしまった。
ミズハが一息着くのと同時に、彼女の背にあった翼も消えた。
「うん。静かになったね。」
ルークはもう一度、息を呑み、けろりとした少女の横顔を見つめた。そして、今更のように理解していた。
”霧の巣”を取り巻く、群れなして飛ぶあの鳥のこと。
岩を削り続ける、昼間だけしか飛ばない白い鳥たちの正体。
あれは本物の鳥ではなく、いまミズハがやって見せたようにして生み出された存在だった。そして、それらは見かけによらず、堅い岩すらも砕くほどの攻撃力も持っているのだ。彼女は、母と同じ力を使うことができる――。
「ミズハ」
ルークは、少女の腕を掴んだ。
「帰ろう、騒ぎにならないうちに。誰かに見られてなきゃいいけど」
「え、えっ?」
「ここはもう大丈夫だ。あとは、消防団に任せればいい。それにパジャマのままだろ」
そう、ルークもミズハも、着のみ着のままで、上着だけを羽織って駆けだして来たのだ。
「えー、これもだめなの? 外の世界、厳しいよー」
「そう、厳しいの。ほら。帰るぞ」
「歩くと遠いよー。飛んじゃ駄目?」
「駄目。」
「けちー」
ルークとしては、火事と謎の生き物のほうに注意が向いていて、自分たちの姿は見られていないことを期待していた。防波堤の先端にいたのだし、港のほうからは遠すぎてよく見えなかったはずだ。
けれど沖合いの船のほうからはルークたちの姿がしっかりと見えており、目撃証言は即座に報告された。
そしてルークは次の日早々に、ジョルジュのもとに呼び出しを食らったのだった。
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