海鳥の舞う島(2)

 船にしがみついているのがやっとで、どこをどうやって島にたどり着いたのかはよく覚えていない。

 気がつくと、船は穏やかな海域にたどり着いていた。先ほどまでの荒天が嘘のようだ。静かに波の打ち寄せる浜がすぐそこにあり、透き通る海水の底には眩しい白い砂が見えている。

 巨大な岩の下に広がる島は、近づいてもやはり起伏はほとんどなく、けれど、奥が見えないほど鬱蒼と茂る木々に覆われている。波に洗われるはずの島にしては、ずいぶん豊かな印象だ。


 浅瀬に入り、今や海竜の巨体は砂の上にはっきりと姿を見せていた。漆黒のうろこの体に大きなヒレ、首は長く、ずんぐりとした胴体は見事な流線型をしている。丸みを帯びた背中の先に続く短い尾の先には小さなヒレのような突起が三つあり、全体的に、甲羅のないカメとイルカを足して二で割ったような姿をしている。

 岸まであと数メルテのところで船底が砂浜にこすれ、静かな衝撃が伝わってきた。ここがハーヴィ号の進める限界らしい。

 波がおさまってきたのを知って、海竜のジャスパーは水面に顔を上げ、船首にいるルークを振り返って鋭く一声、鳴いた。

 「うん。ここまでくれば大丈夫だ。おれは上陸してみるよ」

ルークが言うと、ジャスパーは小さく頷くように頭を下げ、船のそばを離れた。小魚たちが、巨大な海竜の姿に驚いて左右に散っていく。どうやら、この辺りの海は、魚介類が豊富らしい。


 極端な遠浅の海だ。

 水深十メルテもない浅瀬が島を取り巻き、海は鮮やかな緑に輝いている。


 辺りを一望した後、ルークは船内に取って返し、撮影機の他、必要なものを手早く詰め込んだリュックを背負い砂浜に飛び降りた。

 足の下で砂がキュッと鳴る。手に取ると、それはただの砂ではなかった。白い砂の中に、細かな水晶のような透明な小石が混じっているのだ。リュックから瓶を取り出し、そっとサンプルを詰め込んだ。未知な土地から持ち帰るものは慎重に選ばなければならないが、それが何であれ、本部の学者たちには大喜びされる。




 なめらかな弧を描く波打ち際は見渡す限りに広がっているが、浜自体の奥行きは、それほど広くなかった。

 浜をほんの少し歩くとすぐに緑の森が始まっている。見たことのない花、それに、どこか熱帯風の雰囲気を持つ植物。似たものは大陸の南の方にあったはずだが、全く同一ではなさそうだ。

 ここは、未知の土地。何が起きるか分からない。


 ルークは慎重に浜を横切り、緑の作る影に近づいた。花を咲かせている低木、下草。動物の姿はないが、少なくとも小さな昆虫は見つかった。危険そうな気配は今のところ何もない。聞こえるのは潮騒だけ。一見したところ、そこは平和な南海の楽園そのものだった。


 ――すぐそこに、まるで蓋のように視界の半分を覆う巨大な岩の底があることを除けば。


 思った通り、島は、巨大な岩のほぼ真下にあった。

 間近に見る浮かぶ岩は、遠くから見た時よりも白っぽく、均等な物質で出来た一枚岩のように見えた。

 風が吹くたび、岩をとりまく雲の形が変化する。岩は纏う白い霧をゆらめかせ、見えている部分を刻一刻と変えている。

 「…?」

見上げていたルークは、ぱらぱらと降り注いだ何かに驚いて首を振った。手で触れると、首筋のあたりがざらついて、白っぽい、水晶のような透明な砂が指についた。砂浜の砂と同じものに見えるが、舞い上がるほど強い風ではなかったはずだが…。


 目の前を、すっと白い影が横切った。


 海鳥だ。その鳥は、ルークの頭上を掠めて風に乗り、見る間に紺碧の空へ吸い込まれてゆく。

 鳥たちは島を囲むように舞っているのだった。目立った高台のない平らな島から見上げると、その距離は遠いようでもあり、近いようでもある。海鳥たちは、地上の島と、空中に浮かぶ大岩との間で群れをなし、優雅に舞い続けている。

 その鳥たちの羽ばたきとともに、砂が空から降って来る。


 はっとして彼は足元の砂を見下ろした。

 (砂…これは、あの岩から落ちてきたもの? ということは、この島は…)

あの岩の破片でできているのか。


 それにしても、砂とは思えない輝きだ。この輝きはどこかで見たことがある。

 手のひらに砂を拾い上げ、光にかざしてじっと見つめていたルークは、ふいに気がついて思わず声を上げた。

 「まさか、これ…エーテル石?」


 「ご明察」

拍手の音とともに、男の声が聞こえた。

 振り返ると、いつの間にか男が一人、すぐ近くの木立の中に立っていた。黒々と日焼けし、ざんばらの栗毛の髪に粗末な腰布だけまとっている。

 引き締まった上半身は裸。――まるで野人のような格好だが、見覚えがある。

 記憶を手繰り寄せ、すぐに思い至る。ここに来る前、過去の報告書の中で何度も見た写真の人物だ。

 「まさか、ハロルド・カーネイアス…?」

 「いかにも! 君の前任者だな。ハハハ! まあ、遠いところ良く来た」

笑いながら近づいてくると、今はもう五十歳近い年にはなっているはずの男は、陽気にルークの肩を叩いた。

 「ようやく、私の道を追ってくる者が現れたってわけだ。二十年以上も待ったんだぞ。」

 「ああ…あの、えっと…ルーク・ハーヴィです。」

差出された手を受けて、握手する。その手は樹皮のように固く、力強い。

 本物だ。

 夢でも幻でもなく、そう直感した。この男は、たしかにここに生きている。


 ハロルドは、視線を波打ち際に向けた。

 「あれが、君の船かね?」

 「はい」

 「なるほど、海竜を水先案内役にしているのか。黒い海竜は気性が荒いと聞くが、よく手なづけたもんだな」

興味津々といった風で、男はさくさくと砂浜を横切っていく。ルークも慌てて後ろに続く。

 ジャスパーは、近づいてくる見知らぬ人間を警戒したように首をすくめ、体を半分ほど波に沈めた。

 「海竜をご存知なんですか」

 「もちろん。私を誰だと思っている? 北の果てから南の海まで、色々と渡り歩いたもんだ。西の海に"青の洞窟"と呼ばれる場所がある。そこにしかいない種だろう、こいつは」

ルークは舌を巻いた。

 「…ご明察です。」

流石は、二十年経った今も語り継がれている大冒険家、ということか。

 「育てたんです。その、祖母がですが。まだ卵から孵って間もないころに母親を亡くしたとかで…」

 「ほーう」

自分のことが話題だとはわかるらしく、ジャスパーは、暗い褐色の瞳をしばたかせながら警戒するように砂浜の人間たちを見下ろしている。

 「いい相棒だ。風に左右されない、魚のいる海なら燃料切れにもならない…。冒険にはうってつけだ。特にこんな、荒海の奥地の秘境にたどり着くにはな」

 「それなんですが」

と、ルークは早速切り出した。聞きたいことは山ほどある。死んだはずの彼がなぜ生きているのか。ここには他に誰が住んでいるのか。さっき出会った謎の少女のことも…とにかく、一つずつ確かめていかなければ。

 「外洋はあんなに荒れていたのに、どうしてここは、こんなに穏やかなんです? それと、あの空に浮かんでいる大岩のこと。あれは本当にエーテル石なんですか? あなたは二十年ずっと、この島にいたんですか」

 「まあ、落ち着いて。ゆっくり話そう。そのためにミズハに君をここへ案内させたんだからな。大丈夫、島の主に許可は得ている」

 「島の…主?」

 「まぁざっくり言うと、"海の女王"さ。」

そう言って、ハロルドは、意味深に目配せしてみせた。「来てくれ。涼しいところへ行こう」

 ゆっくりと浜を歩き出す男の後を、ルークは、良くわからないままに追った。ハロルドは、さっき現れた辺りの緑をかき分け、細い獣道を進んでゆく。




 木立の影に入ると、すぐにひんやりとした風が体を包んだ。

 南の海にありがちな、じっとりとした湿気を含む重たい空気ではない。海の上を流れるままの、からりとした風。行く手には、木々を切り払って作った小さな広場と、その真中に建つ小屋が見えている。

 ルークが訝そうな顔をするのに気づいて、ハロルドは白い歯を見せて笑った。

 「どうだい、素敵な家だろう。」

梁はサブマスト、入り口の垂れ幕は帆。酒瓶や樽、それに壁にかけられた湿度計。

 「幾多の海を駆け抜けし我が探検船エリンジューム号は、こうして生まれ変わったわけだ。ようこそ、我が家へ。」

こぢんまりと、だが生活に必要なものだけはひと通り揃っているように見える。絵に描いたような無人島生活だ。ハロルドはきっと、冒険小説の主人公も出来るに違いない。

 「これで、君の質問にひとつは答えられたかな。そう、私はずっとここにいた。二十年の間ずっと」

 「”協会”では、調査探検中に死亡した扱いになっています」

 「だろうな。だがどうしようもなかった。連絡をとる手段も無かったしな。この島に近づく船は皆無だった。海域に迷い込んだ連中は、例外なく海に沈んだよ。島から三ケルテ。それが、今いる安全圏の範囲だ。その先は…、よほど運がよくなければ越えられない、途方もない困難の海だ。私ですら、生きてたどり着くことはできても、帰る手段は無かったのだから」

言いながら、ハロルドは船から持ちだしたらしい古びた机の引き出しを開け、色あせた地図を広げた。そこには島の形、潮流などが、ペンで細かく書き込まれている。

 「円…?」

驚いたことに、そこに描かれている島の姿は、ほぼ円になっていた。それも、中心に内海を持つ、二重の円になっている。その外側の海も、さらに円になっている。島から近い安全圏、少し距離のある荒天の海、そしてさらに外側に広がる、「闇の海」と呼ばれている外海。

 「今いるこの島は、頭上に浮かぶあの大岩、”霧の巣”をほぼ取り巻くようにして広がってる。その理由は、既に気づいているだろう? 岩から砂のように零れ落ちてくる破片、それがこの島を作っているからだ。で、この島の縁から三ケルテは、気候が安定している。一年じゅうこんな調子で、風も波も穏やか。それより外側の海は、通常の方法では近づくことも難しい。空でも飛べない限りはな」

 「空――…」

そうだ。最初に出会った、あの少女。

 「あの女の子も、この島の住人なんですか」

 「ああ。うちの娘だ」

 「む、…娘?!」

ルークが唖然とした顔になったのを見て、ハロルドはいかにも楽しそうに膝を叩いた。

 「ハハ、いい顔だ! 意外か? びっくりしただろう。ミズハ、というのは私がつけた名前なんだ。東のほうに住むワ族の古い文字で、こう書く」


そう言って彼は、足元の砂に

 瑞羽

と、見慣れない奇妙な線だらけの文字を書いて見せた。


 「あの、娘ってことは…母親が…。その、あなたは人間ですけど、彼女は人間ではなかったですよね? ということは、あの子の母親って…」

 「まあ、その件はおいおい話そう。それより、さっきの君の質問の一つだが」

ハロルドは、真面目な顔に戻って言った。

 「頭上に浮かんでいる、あの岩のことだ」

 「…はい」

 「この島の周囲に起きている天変地異は、まさにあれに起因している。あれが巨大なエーテル石だからだ。岩が放出するエーテルのせいで、この周辺はエーテルの濃度が異様に高い。それを薄めるために、この島の中心にある存在が定期的に突風や海流による攪拌をんだ。それを、私は"くしゃみ"と呼んでいる」

 「くしゃみ…。」

さっき、この島にたどり着く前に体験した突然の天候の急変のことか。

 「でもどうして、こんなところにエーテル石が? しかも浮いているし…。いや、浮くのはともかく、あんな巨大なエーテルの塊があるなんて、信じられませんよ。"神魔戦争"で世界からエーテルは枯渇したはずですよ。それで魔法使いは魔法が使えなくなって、魔法的な生き物もみんな死に絶えた…、誰でも知ってます」

 「そうだな。で、失われたエーテルが何処へ行ったのか、そもそもどうして失われたのか、誰も突き止められていない。伝承にも残っていない。」

 「あんな…」と、ルークは頭上を振り仰ぐ。「あんな大きさのエーテル石があれば、世界中でだってエーテルが使い放題でしょう? この世界にまだ、あれだけのエーテルが残っていたなんて」

 「……。」

ハロルドは真顔のまま、口を閉ざしていた。

 「…ハロルドさん?」

 「いや、すまん。君は実に察しがいいと思って少し驚いていた。そう。そうなんだ、あれだけの量があれば、おそらく世界中にいきわたる。と、いうより」

彼は声を低くした。

 「私は、おそらく、あれこそが消失したエーテルの行き先なのだと思っている」

 「――え?」

数秒の間、ルークは動きを止めたまま、彼の言わんとしていることを考えていた。

 「…つまり、世界から失われたエーテルはここにあって、一か所に集められて固められて、空に浮いている…ってことですか?」

 「証明する手立てはないが、だとすれば説明はつく。少なくとも、"彼女"はそうだと言っていた。」

 「どうやって…いや、何のために?」

 「エーテル石から一気にエーテルを放出させると爆発を起こすことはよく知られているだろう? あれだけの巨大なエーテル石が地上にぶつかったらどうなるか。…ま、ざっくり言えば、世界を滅ぼす気でやった者がいたってことだ。」

 「まるで神か、魔王の仕業ですね。」

 「そう。まさに"神魔戦争"だ。」

ハロルドは、冗談とも本気ともつかない口調で言って、いっとき、口を閉ざした。


 風に乗って、頭上からさらさらと砂が零れ落ちてくる。

 今この瞬間も、岩からは無数の細かなエーテル石の破片が剥がれ落ちている。それらは風と波に乗って遠くまで吹き飛ばされ、いずれ世界中に戻っていくのだろうが、それにしても、一体どのくらいの年月がかかるか分からない。それに、もし岩が砕けきる前に落下して来でもしたら、その瞬間に世界が終わってしまう。


 「まあ、今はすべて説明するのはやめておこう。」

ふいに、ハロルドは重苦しい空気を断ち切るようにそう言った。

 「あとはミズハに聞けばいい。この外側の島は自由に歩き回って大丈夫だが、内側の島へは渡らないでくれ。それと、今言ったように沖合の海は危険だ。案内なしに出るのは止めておいたほうがいいぞ。」

それから、ふと彼は浜のほうに視線をやった。

 「あの子はきっと、その辺にいるはずだ。何にでも興味を持つ子だからな、君の船をこっそりいじくっていないといいんだが」

 「! た、確かめてきます」

慌てて立ち上がり、浜のほうに向かって駆けていくルークの後姿を笑顔で見送りながら、ハロルドは、何か考え込むようなそぶりを見せていた。

 それから、ちらと森の奥の方に視線を向ける。


 鬱蒼とした緑に覆われた島の奥の方からは、ひんやりとした風が流れてくる。

 「本当に、彼がそうなのか? ごく普通の若者のように見えるが…」

答えるように、空気が揺れる。

 「…そうか。成程、今は忘れている、ということか。まあ、いずれかもしれないな。あの子と居る分にはどちらでも構わない」

白い鳥たちが舞い、きらめく砂が落ちてくる。

 太陽が天頂に差し掛かる頃、巨大な岩から落ちる影は、島全体を覆うように広がっていた。

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