一章 始まりの時
1)運命の出会い
「兄さま! 早く、早く!」
その日の夕暮れ、広大な美しい庭を一人の少年と年端もいかない少女が駆けていた。
実際にはまだ幼い少女が、背の高い少年の手を引張り、対する少年は苦笑を浮かべながら止む無しに付き合っている様な感じだった。
二人は血の繋がった兄妹で、兄がエミル フォン アルテリア、妹の名は ティア フォン アルテリアと言う。
兄のエミルは年の頃は14歳でブロンドのクラウドマッシュが似合う青い目と整った顔立ちをした少年だ。
普段エミルは、遠く離れた王都に有る王立学園の寄宿寮に居るが、丁度夏の長期休暇の時期の為、自宅であるアルテリア伯爵家に帰っていた。
兄の手を引くティアは、3歳になったばかりの幼い少女だ。彼女はストロベリーブロンドをナチュラルに伸ばしており、兄のエミルと同じ青い目と非常に可愛らしい顔をした天使の様な容姿をしていた。
彼女達はアルテリア伯爵家の子供達だ。アルテリア伯爵家は広大なエイリア大陸の東部に位置するロデリア王国の諸侯である。
アルテリア伯爵家はロデリア王国南東の辺境に領地を持っているが、辺境故に決して裕福とは言えない財政状況だった。
そんなアルテリア伯爵家だが、現当主は二人の兄妹の父であるトルスティン フォン アルテリアだ。彼は質実剛健な人柄であったが其れでいて子煩悩な父である。
アルテリア伯爵家は当主トルスティンによる実直かつ誠実な統治により、質素であるが安定した領地経営をしていた。
ところで二人の兄妹が歩いている場所は、アルテリア伯爵家の裏庭である。伯爵家の屋敷は小高い丘の上に建てられており、裏庭と言っても広い面積を有していた。
妹のティアは普段いない兄が家にいる事が嬉しくて仕方なかった。ティアにとってエミルは年上だが優しく頼りがいのある兄だった。
だから兄が帰省中の時は、暇を見つけては構って貰うのだった。
今日もティアは家庭教師のオルディに有り難くそして眠たくなる授業を受けさせられた後、エミルを半ば泣き落としで連れ出し屋敷から逃げ出す様に裏庭に走り出たのだ。
裏庭には庭園がありその中央には窓ガラスが多用されている小さな温室が設置されていた。
温室は彼らの母親であるマリナが残したものであった。その小さな温室は医療に用いる貴重な薬草を越冬させる為に設けられていた。
マリナは薬草学の心得が有り、病で亡くなる領民を想い薬草の栽培を行っていた。
この世界には魔法が普通に存在し、回復魔法等もあった。しかし回復魔法は切り傷等の外傷には効果が有ったが、生命力を徐々に蝕む病には効果が薄かった。その為にマリナは薬草を重視していたのだ。
温室は小さな小屋位の大きさしかなかった。
貴族が建造する温室と言えば普通は全面ガラス張りで、社交の為のテーブルが設置され楽隊を呼び入れてパーティーが出来る様な大きさが一般的だったが、アルテリア伯爵家の懐事情では高価なガラス細工を多用した大きな温室はとても用意出来なかった。
この小さな温室を建造するだけでも負担であり、マリナの夫トルスティンは何とか完成した小さな温室を彼女と共に見ながら、 “箱庭みたいで申し訳ない” と侘びた。
対してマリナは “私はこの箱庭が良いんです” と返したという逸話がある。
領民には、この話は領主でありながら慎ましくそして、仲睦まじい二人を表す美談として広まり、この小さな温室は“箱庭”と表だって呼称されるようになった。
領主トルスティンとしては、その話を少し複雑な思いで聞いてはいたが、領民が喜ぶのならと聞き流した。
そんな仲の良いアルテリア伯爵家だったが、堪えがたい不幸が訪れてしまう。
ティアの母、マリナが亡くなったのだ。
マリナはティアを産んだ後、体調を崩しがちになり彼女が1歳の時に流行病で亡くなった。病に苦しむ領民の為に尽力したマリナだったが、彼女自身も病には勝てなかったのだ。
アルテリア伯爵家は悲しみに暮れ、領民達も同じ気持ちだった。その後、時が経過して悲しみが薄らいでも、夫のトルスティンはマリナを愛していた為、新しい妻を迎えることは無かった。
幼いティアの事を思い“新しい母を”と周囲の者から言われはしたが、どうしてもマリナの代わりは選べなかったのであった……
ティアはその小さな温室である通称“箱庭”を占領し秘密基地にしていた。屋敷の使用人たちは苦笑しながらもティアの為に“箱庭”を常に整理し、彼女の為に提供していた。
エミルはそんな心遣いをさせた使用人達に酒を贈る等、裏でしっかりフォローを入れていた。幼いティアはそんな裏事情を知る筈もなく秘密基地にエミルを案内するのであった。
「兄さま! ここは、私のヒミツ基地なの! ホントは内緒なんだけど……特別に兄さまを、ここに入れたげる!」
ティアは“箱庭”を前にエミルに対して胸を張って自慢げに話す。対するエミルは苦笑しながら何気なく“箱庭”の方を見て、違和感に気付いた。
それは……血だ……“箱庭”のドアに血痕が付いていたのだ……
「!!……こ、此れは!?」
驚いたエミルは周囲を見渡した。よく見ると血の跡が点々と裏庭を超えて向こう側の森の中から続いている。
誰かが、森の奥から血を流しながら、この“箱庭”に入り込んだ様だ。エミルは穏やかだった気持ちから、背筋が冷たくなる様な恐怖を感じた。
「……ティア! ティアは中に入ったらダメだ!」
エミルはそう叫んで懐から短刀を構える。そうして慎重に“箱庭”のドアを開けると、“箱庭”の床に女性が倒れていた。
女性はこの辺りでは見た事が無い美しい銀髪で、抜ける様に白い肌をしている。
服装も見た事が無い奇異な格好だ。ボディラインがしっかり出る様なピッチリとしたツナギの様な服で真白い色の不思議な服装だった。
額には冠の様な揺らめく光を放つ不思議な銀色の髪飾りを付けている。
女性は両手で1mを超える大きな貝殻の様な白いケースを大事そうに抱えたまま倒れており、意識は無い様だ。
そして一番目を引いたのは女性の背中に非常に重篤な火傷が見られる。そればかりか、足にも酷い怪我をしており出血が酷い。足からの出血が、森の奥から続いていたのだろう。
エミルは倒れている女性に声を掛ける。
「だ、大丈夫ですか!? しっかりして下さい!!」
エミルは大声で叫びながら女性の体を揺り動かして、ギョッとした。
……体が冷え切っている!
非常に拙いと思ったエミルは慌ててティアに大声で叫んだ。
「テ、ティア!! 僕は館に戻って誰か呼んでくる!! 此処でじっとしていて!!」
そう叫んで、エミルは元居た館の方に全力で駆け出した。
残されたティアは、慌てたエミルが締め忘れたドアから恐る恐る“箱庭”の中を覗き見た。そしてその床に横たわる銀髪の不思議な女性を見る。
「…………」
ティアは無意識に銀髪の女性の横に座り、女性に声を掛ける。
「……だいじょうぶ?」
しかし女性は反応しない。ティアは館のメイド達が自分にやってくれる様に女性の背を撫でる。
すると女性は意識を取り戻しゆっくりと目を開いた。その瞳は夕暮れ時の空の様な美しい茜(あかね)色だった。
女性は意識も虚ろに絞り出す様に呟いた。恐らくはもう目も見えていない様だ。
「……ど、どうか、どうか……この……御方を……うぐぅ!……ハァハァ……レナン様を……お、お守り下さい……どうか……」
そう呟いて女は意識を失った。傷の痛みで気を失った様だ。
「…………うん」
女性に懇願されたティアは、じっと考えていたが取敢えず頷いて見せた。
そして女性が抱えている大きな貝殻の様な白いケースを見遣る。見た事が無い不思議な形状と材質のケースに興味を持ったティアは、そっとその白いケースに触れてみた。
“ポウン”
そんな柔らかな音を立てた白いケースは一瞬白く光り、鳥が翼を畳むかの様にスルスルとゆっくりと開いた。
――その中から現れたのは……
輝く様な銀髪と、抜ける様に白い肌をした小さい男の子が眠っていた。その絵の様に美しい男の子を見たティアは小さく呟いた。
「わぁ……月の……王子様だ…」
キラキラした目で男の子を見たティアは、そっと男の子の髪を撫でて話し掛ける。
「……もう、大丈夫だよ……私があなたを絶対に守るから……」
こうして運命の少年レナンとティアは出会う事となった。
ティアはこの時、無邪気に男の子に誓ったが、その後成長した彼女が……もし……その誓いを忘れなければ歴史は、違った結果になったかも知れない。
ティアは彼との出会いと別れ、そして再会が、長らく隔たれていた二つの世界を大きく揺り動かす事になるとはこの時、思いも寄らなかった。
――レナンとティアの物語が今、始まった。
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