第十二話「like dreaming」


 


 古い記憶を見ている。


 今までを振り返って、少し考えてみろとでも言うのだろうか。


 


 赤子の頃の記憶、まだ言葉も音も何もかも分からなかった頃の記憶。


 ただ、視界に入って来た光景だけは覚えている。


 その時は美しく感じていて、今になって思い返すとなんともないなと感じているだけ、そう思っていた。


 美しい"はず"の青空に、綺麗な"はず"の海。


 僕はきっと、幸せだった"はず"なのだろう。


 最初から一ミリたりとも感じてなどいなかった。


 母もいた、父もいた、僕が殺した。


 捨てられたから、人にもう意味も価値もないと思った。


 その瞬間だけ僕は、幸せになった。


 人として大切と言われるものをおおよそ捨てたのだから。



 

 未来を見る力、もしそんな夢のような力を持った人間が身近にいるなら?


 誰だって利用しようとする、だからみんな、周りの大人は利用しようとした。


 両親だって同じだ、利用しようと守ってくれなかった、利用しようとした人間から僕を離してくれなかった。


 呪いしか価値がないときっと思われていた。


 人間に価値なんてないのだと、百回、千回、一万回、思った。


 思うたびに、思うたびにに、度重なる虐待を受けた。


 人を狂わせて、人を惑わせて、人を奪って、僕はその力を密かに"呪い"と呼ぶようになった。




 でも違った、僕は呪いに狂わされていたんじゃない。


「—最初から狂っていた」


 美しいものを美しいと思えず、綺麗なものを綺麗と思えず、ただそんな自分に苦しんだ果てに辿り着いたのが、生と性の美しさより死の美しさ。


 終わりを好み、何事にも終わりを求め、それを拒んだ人間の骸こそ、美しい。




 そんな時、ある一人の男に出会った。


 名はサズファー、弱った僕を拾ってくれた。


 彼は止国という、戦争を止める国の人間だと言った。


 最初は至極つまらない国だと思った、人間にとって唯一の幸福である死を拒絶し、根絶するようなくだらない思想の集団だと。



 ただ、サズファーだけは違っていた。


 戦争を止めるためには戦争が必要、そのため死は死によって抑止する、とてつもない矛盾を止国は持っていると言った。


 サズファーが求めるのは、戦争のない世界ではない、"人間のいない"平和な世界。


 人間がいなければ争いも起こらない、悲しいことも、苦しいことも、そのための手段に矛盾はない。


 ただ人間を一掃すればいいのだから。




 一度、呪いについてサズファーに話したことがある。


 魔が刺したんだろう、また利用されるかもしれないという恐怖がなくなっていたからだった。


「だから、どうした」


「—え?」


「未来が読めるからなんだ、そんなもので何ができる」


「…いや、普通の人間にはないと思うんだけど、こんな力」


「当たり前だ、そんなものはない…だがな、理想は力さえあれば何事も必然となる、見るものではなく奪い取るものだ」


 その言葉が、サズファーがどんな人間かを理解させてくれた。


「…」


 同時に、利用され続ける環境から逃げるために人を殺した自分の行動に一つの間違いもないことを、証明してくれた。


「殺せ、奪え、争うな、相手に強いるのは反撃ではなく"抵抗"だ、一方的に勝利しろ」











「——ッあ」


 幻想の暗転から反転した視界で意識が戻る。


 咳が止まらない、血の味が体内を駆け巡る。


「ミライ…君は素晴らしいな、ただの人間がここまで…いや、素晴らしいのは呪いかね」


「生きてる…ってことは、受け身はギリギリ追いついたのかな…」


 地面に手をついて、立ち上がろうとした時に異変が起きる。


 右腕が動かない、いや、視界に映らない。


「———本当にギリギリだったんだ」


 否、動かないのではない、"無い"。


 右腕はとうに弾け飛んだ。


「…ナイフも…飛んでいっちゃったか」


 予備ナイフはない、ただロボハンから預かった止国式の物ならあるが扱えるかどうか。


 それに、左利きじゃないし。


「さて、血も残り少ないし…詰んだかな、これ」


「ああ、君は詰みだ」


 ミーレ・イクツガが銃口をこちらに向けた。


 もう避ける気力も——。


「—!」


「自分より強い相手に"争い"を持ち込むからだ、ミライ」


 目の前に黒い何か、人が現れた。


「—嘘」


放たれた銃弾は外れ、その直前にミーレ・イクツガの左腕は切断された。


「…——貴様ッ!!!」


「消えろ、無能」


 突然現れたその男は、ミーレ・イクツガの腹を深く蹴り、文字通り吹っ飛ばした。


 自身を救出してくれた男の正体は一目で分かった、だけど混乱はした。


「あ…え…サズファー?」


「…言わなかったかミライ、自身より強い相手に戦いを持ち込むなと」


 見たかった、何よりも見たかった横顔が、こちらを見つめる。


「…………言われてもさ、サズファーより強い奴いないじゃん、説得力ないよ…」


 もう助かる保証がない状況下で、その顔を見れた嬉しさに微笑みが漏れる。


「…あぐ…ッ」


 しかし、千切れた箇所に激痛が走る、遅れてやってくるタチの悪い痛み。


 出血量も完全にアウトだ、あと数分もすれば死ぬ。


 数分?いや、数十、意識が黒く染まっていく。


 サズファーは千切れた僕の腕を見た。


「…そこにいろ、すぐ終わらせる」





—その刹那、神速。


 目の前からサズファーは吹き飛んでしまいそうなほどの大きな風を起こし、消えた。


 その風に髪は揺れ、服も靡く、目も乾きそうだった。


 ロボハン、ミーレ・イクツガ、この二人でさえ目で追うことは不可能なレベルの速さだった。


 ———だが、サズファーのそれを認識した頃には、ミーレ・イクツガの姿が骸になっていた。


「え…」


 その骸は、埃のようにバラバラになって散っていった。


「本体は別か…くだらんな」


 偽物の体、恐らくは呪いの力で元からミーレ・イクツガはここには居なかった。


「———サズファー」


「ミライ」


 何も変わらない、サズファーはただ安堵を与えてくれる。


 彼の目的が遂げられるなら悔いはないだろう、いや、元から死ぬことは幸福の終局点だったか。


「遅いや、ここにいるのは知ってたけどさ、生き返ってるとは思わないじゃんか……死に損なったね、サズファー」


「交代だ、ミライ」


「うん、あとはお願い」


 終わり方としては、上出来かな。


 ああでも、最期くらい美しいものが見たかったけど。


「…できることなら、二人で全部成し遂げなかったなぁ」


 サズファーは、僕が目を閉じるその時までそこにいたんだと思う。


 "あぁ、それと、もう一人"


 


「遅かったな、クラーク」


 私の目の前に立っていたのは、最も予想外で最も異次元の男だった。


 大量に人を殺し、和束を殺し、和束に殺された男。


「…ミライは」


「今死んだ」


 サズファーが殺したわけじゃない、それは一眼でわかる。


 そう、右腕を欠損しているミライの姿を見て確信した。


 恐らく、あれはミライが受け身を取って攻撃のダメージを最小限に減らした結果だ。


 サズファー相手に、受け身は確実に取れないし、何より二人は——。


「…ミーレ・イクツガは」


「ここにいたのは本物だが偽物だ、遠くには行けん」


 唇を噛み切りたくなるほど、手のひらから血が出るんじゃないかと思うほど、体に力が入っている。


 いつの日か感じた、怒り。


「あの男は…私が殺すわ」


 そう言って、サズファーの横を通り抜ける。


 この先に、ミーレ・イクツガはいる。


 握られた拳は、もう解くことができない。


「俺はやるべきことをやる、止めに来るなら来い」


 サズファーも止める、ミーレ・イクツガの目的も必ず止める。


 それが私の命の果て方であっても。


「あの男に斬撃を喰らった跡があった、状況はミライが作っている」



 今、優先すべきことのため、その一歩一歩を踏み出す。







 スミレトスの攻撃を一つ一つ、視覚からの情報を一切頼りにせず避けていく。


 力だけじゃ、速さだけじゃ、もう勝てないとその男に教えるように。


「ナぜッ!!なゼッ!!」


 無造作に拳を振り出した男の顔面に、真正面に拳を打ち付ける。


「———ッあガァッ、あ—」


 頭の骨まで砕けた音がした、血が鼻と口から噴き出す。


 男はうつ伏せに倒れた、とどめを——。


「——ッ」




 今、ミライが死んだ。


 感覚や予感ではない、ポケットからだ。


 ハンカチに染み込ませたミライの血の匂いが熱を生じさせて消えた。


 意図的に消すことは確かに可能だ、だがその行動に出る意味がない。


 呪いが消滅した、つまり本体、本人は数分前に死んだ。


 一撃でも与えたら撤退、一撃喰らったのなら撤退、最悪危険と感じ取ったのなら撤退、そう伝えていた。


 ミライが使っていたのは、間違いなく止国式のナイフだった。


 サズファーから預かっていたのだろう、刺す、切ると同時に毒を体内に流し込む近接武器に見せかけた化学兵器だった。


 一撃与えれば撤退、実力差が分からない相手であれ毒さえ与えればあとは俺か、バーナーが交戦するという計画だった。


 





「ロボハン、僕の呪いはね…このナイフと相性がいいんだ」


 そう言って、ミライは海を背中にナイフを取り出した。


「ミライ…それ」


 歪な形に、持ち手とは逆の方向についた刃。


「そ、サズファーから貰った」


 止国式ナイフ、それも俺たちの世代では既に使われていなかった物。


 サズファー、そういう男が生きていた世代の物。


「中に僕の血を入れてある、刺した瞬間に僕の血を流し込んで拒絶反応を起こす、どう?」


 血の量を無限に増やせるミライ故のやり方だった。


「相手は一応止国の人間だからな…効くかどうか」


「いや、ミーレ・イクツガ"には"効くよ」


「…?」


 ミライは何かを分かっているような顔をして笑った。


 いや、未来視できっと何か分かっていたのだろう。


「あとこれ、僕が死んだらロボハンが代わりに返しといて」


 ミライは、ポケットから取り出した白いハンカチを手渡してきた。


「それ、サズファーの」


 かすかに血の匂いがした、でも血の跡はなかった。


「昔サズファーが僕の応急手当てに使ったやつでね、僕の血が一度染み込んでる」


「呪いの影響で消えちゃって血痕はないけど、匂いがまだ残ってるんだ」


「んで、それを?どうやって」


「今から行く場所ね、サズファーがいる、死体だけ残置されてるんだと思う、生きてりゃ万々歳なんだけどね〜」


「そりゃ俺らにとっちゃ最悪だよ」


 今から行く場所、それは副総督が収容されている場所。


 テイーストルクの地図から消された場所、数百年前に童楼製薬が設立された原初の場所、そして。


 ——和束家が、あった場所。


「そのハンカチから匂いが消えたら、僕は確実に死んでる、そう思ってくれて構わない、僕が死ねば次の依代を見つけられなかった呪いも死ぬ、血は完全に消滅する」


「…言っとくけど、ミーレ・イクツガにナイフ一刺ししたら撤退だぞ、死ぬなよ…バーナーと俺が倒すべき敵なんだからな」


 ミライはまともな返事をする気がないのか、その言葉に反応したクスリと笑ってくるくると舞い始める。


「は〜い、善処しま〜す」








 地面を舐めるように倒れ、全身の血管から血が溢れ出し、口からは鮮血と水を垂れ流し這いつくばる男の姿。


「———が、あッ、ギッ!!!」


 もう言葉も話せなくなったその男を憐れむように見つめる。


「不死身も、進化も、何も完成しなかったな、スミレトス」


 男の身体すら、もう動かない。


 先の一撃で、スミレトスは限界だった。


「…ま、ダ…まダダッ!!」


 喋るたびに飛び散る血飛沫、見るに耐えないほどの。


「いいや、終わりだ、"お前は"」


 その一言に、男は身体を無理に動かそうとすることをやめた。


「…あァ、私…は、おわ…りだな」


 ゆっくりと、ゆっくりと、男は話す。


 一文字一文字、子供のように。


「だ…が、まだ…終わら…ない、モ……ノもあ…ル」


 震える手を、自身の血に濡れた手で壊れた鳥居の先に、指を刺す。


「リ…」


 男にもう目は見えていない。


 男はもう何も見据えていない。


 男はだが見つめている。


「リ…ラ」


 この暗闇の先にいる自分の娘を。


「…スミレトス、お前」


 その男は、本気で俺たちを潰しに来る気なら、どうしようもないほどの力を秘めていたのかもしれない。


 全てを捨てて、全てを壊す、そういう誰かに似た力を。


 だが一つ、捨てきれないものがあった。


 娘。


 最後まで取っておいた食材に、最後にできなかった贖罪を。


 遅すぎた、まだ戻れた。


 記憶もなく、起きた世界にただ一人存在した、リラという知らない娘を彼は愛さなかった。


 生き返らせる、それが彼が娘に最後にとった愛であり、自身への鎖。


 自身の計画を遂行するために、とある男の悲願を遂げるために、娘に愛を注がない先端をとった。


 その男が、リラ・リンという少女をどういう風に利用して、実験していたかは知らない。


 だが、それはきっとここで終わった。


 スミレトス・リンの結末は、今ここで訪れてしまったのだから。


 遺体はその場に、壊れた鳥居の上を飛び越えて前に進む。


「待って」


 その場に一人の、とある女が立っていた。


「…ナレイか」


 いつからその場に居たのか知らないが、ある程度の事情を知っている顔だった。


 何より、ナレイはあの男と同時期に蘇生された人間の一人だった。










 あの壊れた鳥居の先、ずっとずっと後ろにはロボハンさんと私の父親スミレトス・リンがいる、でも振り向くことはできなかった。


 きっと暗闇の奥から残酷な音が響き渡るのが聴こえてくるだけだから。


「スミレトス…あなたの父親の目的は、この先の礼拝施設…この国では神社と言われる建造物にある"理と世の門"を使い、妻を蘇らせることでした」


 咲葉さんは、そう私の横を歩きながら口にした。


「つまりそれは…」


「そう、あなたの母親…ラーシュ・リンです」


「——」


 母親、顔も知らない、名前も今初めて聞いた、そんな女性。


 探す気もなかった、記憶にもない人を探すのは無理だった。


「勿論、蘇生後のあなた方には記憶がありません」


「なら、なぜ…」


 私の父、私、ナレイさん、空っぽの記憶で私たちは蘇った。


 全てが不明の世界に生まれたような感覚だった。


「スミレトスは死ぬ前の自分がどのような人間だったのかを自分の力で調べました、妻を愛し、娘を愛し、誠実な人間だった、故にその"自分だったはず"の男に敬意を表し、名前も階級もそのままに全てを取り戻すと決めました」


「…私がそのままの名前だったのも…」


「ええ、彼の意志です…後は妻を取り戻せば全てが元通り、そう思っていたのでしょうね」


 あの人は、ごく当たり前の、高望みすぎるけど誰だって願うそれを、そのために命をかけていた。


「———全て、元通り…家族…ですか」


 曖昧な天秤に、曖昧な物を乗せ、曖昧に自分を壊し続けた。


「ええ、そのために、リラ・リン…あなたが必要だったのです」


 その曖昧な天秤には、きっと私も乗っていた。


「私…ですか?」


「難しい話ですがよく聞いてください、"理と世の門"には時間の概念がないものしか干渉できません」


「時間の概念…が、ない…って」


 時間の概念がない、それは地球でも宇宙でも、きっとその先でもありえないことだった。


「全ての理は始まりから終わりに向かっていくものです、それが存在しない世界へと繋ぐのが"世と理の門"、その門を通れるのは勿論時間の概念がないものでなければなりません」


「それにどうして私が必要なのですか?」


「……スミレトスをあのような姿に変えてしまったのは残痕呪と言われる寄生虫です、その虫は人間の体内にしか存在せず、体外には決して存在しません」


 残痕呪、きっとレーリさんや、ロボハンさんは知っているのだろう。


 私には、無関係だと思っていた。


「ならどこから寄生するんですか…?」


「時間です、門の先にある前世の自分たちの願いや感情、後悔と言ったものが作り出した寄生虫、それが来世の私たちに寄生する、門の先で生まれた残痕呪に時間の概念は存在しない」


「私たちは"残痕呪"と"時間を生きる心"の複合体、"不変"と"可変"の融合体、ですがあなたは違います」


 私はこの世全ての人間とは違う、まるで咲葉さんはそう言っているようだった。


「私…が?」


「ええ、蘇生した者の中に私が"人格を与える"前から自由に行動できた人間が一人いました」


 ———。


「残痕呪という寄生虫が人格を形成し表面に溢れ出た存在、リラ・リンです」


「え…」


 ——私は、私じゃなかった?


 リラ・リンじゃ、ない。


「そしてスミレトスの理想が潰えた今、あなたを利用しようとするのはミーレ・イクツガでしょう」








「レーリ・クラーク、初対面だが君を待ち侘びていた」


 暗い暗い"何かの部屋"、明かりなんて探す気にすらならない。


 円柱の柱が八本、等間隔に並んでいる、それ以外は何もないコンクリートだけで構成された部屋。


 その真ん中に、ミーレ・イクツガは立っていた。


「何の疑いもなしに、君はこの部屋に来た、それは何故かな」


 男には確かに、ミライが与えた斬撃の跡があった。


「…あなたを殺すという単純な目的のため…出張所の人たち、ロボハンの母親、ミライ、止国の兵士ともあろう人間が私利私欲でこれだけ殺しておいて生かしておけるとでも?」


 まだいるのだろう、この男がもし総督、和束の姉を殺している可能性も高い。


「全ては自然現象だよ、レーリ・クラーク、必然、全ては決まった死の循環と終結…私が殺すことも世界が誕生した時から決まっていた」


「なら無罪放免になりますってんなら、戦争なんてやり放題かませるじゃない」


「私はその自然現象と循環、終わらぬ歯車を止める、私が矛盾に満ちた人の子を導く」


 この男から、神を信仰しているような気はない、ただ言動とあまりにも一致しない。


 そもそも、言動も思想も湧きどころが分からないほど狂気めいている。


「——話すだけ、無駄みたいね」


「今日はよく拒絶されるな——、残念だ」


 踏み出せ、この男を殺せと、身体が叫んでいる。


 ——地面を蹴れ、飛べ、風をきれ、前へ進め。


 男が薄く笑っている顔が見えた。


 その笑う男だ、殺せ。


「—。」


 男の顎を蹴り飛ばす。


 次の一撃だ、行けと身体はまだ叫ぶ。


 柱の壁を走って吹っ飛ばされた男の高度まで飛び上がる。


 今度は蹴り落とせ、地に顔面を叩きつけろ。


 殺し合いは何よりもずっと速く次から次へと移るもの、一寸だって思考を止めるな。


 次から次へと殺す手を考えて実行しろ、身体と脳を完全に連携させろ。


「…ッ!!!!!」


 蹴った衝撃で柱が一本倒れてくる。


「意外と脆いのね——」


 障害物は壊して進め。


 矛盾を起こせ、一度に一万回相手を殴れ。


 一撃で殺せ、しかし簡単に殺せると思うな。


 全力を百度しても殺せぬ相手と思え、全力を百一回する覚悟をしろ。


「———」



 

 空中で体が止まった、正確には操作が効かなくなった。


「時には油断も必要だぞ、レーリ・クラーク」


「——あ」


 一度もダメージを喰らっていない、しかし私の口から溢れ出たのは紛れもなく、鮮血だった。


 今のは、私が見ていたのものは?


 ——幻想、違う、幻覚、ただ匂う。


 血と死と泥の匂い。


「——ガ」


 地面に強く背中がぶつかった。


 空中で回転する、それが動かせた限界。


 そのせいで受け身が取れなかった。


「偽物を本物に、本物を偽物にする呪い」


 ミーレ・イクツガは宙ではなく、地に足をついてさっきと一歩の変わらない場所に立っていた。


「…」


「ミライという少年に与えられた斬撃、本物になった偽物の私が喰らったことで本物の私にもダメージが入った」


 聞かなくとも、その男は一つ一つ説明してくる。


「善と悪の矛盾の間を生きる、それと変わらず人間は偽物と本物の中間を生きる」


「君が私に与えた攻撃を偽物に、君へのダメージだけを本物にした」


 釣り合っている均衡の天秤を傾ける呪い、真と偽の針。


 血を流した私に、その男は一歩一歩近付いてくる。


「私とて、あの少年の血を体内に流されている、長くは殺し合えない、残念だが君はすぐに殺す」


「…言わなくてもいいわよ、そんなこと」


 血を吐き背骨には間違いなくヒビが入っているこの体でも、まだ、立てる。


「流石は金階級、この程度では折れんな」


「ええ…最低でも百人は持っていくのが私たちの心情だもの…」


 ギリギリだ、もう体を動かすたびにそこらじゅうが痛い、痛い、痛い。


 いつ攻撃を喰らったのか、それが分からない。


 本物の攻撃を与えた後に偽物に変化させた、恐らくはそれだ。


 私自身が認識できていないだけだ、腕に二発、右足に一髪、腹に一発、痛みと傷跡を見る限りそれくらいだ。


「…ミーレ・イクツガ、あなたの呪いはなんとなく把握した」


「そうかね?なら今君が吸っているガスについてもかい?」


 視界が緑色に変わっていく。


「——ガ——ス?」


 視界に映らなかった偽物が本物へと姿を変える。


「——あ」


 肺が痛い、凍る、溶ける、潰れる、焼ける、千切れる。


 痛い。


 苦しくはない、ひたすらに痛い。


 肺だけではない、全身も血流も何かおかしい。


 偽物にされていたから痛みにすらならなかった、体が思うように動かなくなったのは痛みのせいじゃない。


 これだ、このガスだ。


 口から流れる血の量は変わらない、それでも出続けている。


「———ッ!」


「痛みを理解してもなお、まだ立つのか」


 意識が、途絶える。


 ダメだ、耐えろ、耐えろ、耐えろ、耐え———。


「…」


 何も見えない、意識はある、血が地に落ちる音がする。


 近付いてくる足音と、何処かから放出されるガスの音。


 膝が今、血の溜まった地についた。


「どう…し…、なに…これ」


 皮膚が熱い、皮膚が熱い、目が見えなくても立て、この程度で倒れるな。


 正真正銘動かない。


「君は殺さない、せっかく尻尾を捕ませて呼んだエサなのだから」


 ここまでは全部読まれていた、想定内だったけど、対応が遅すぎた。


「君はリラ・リンを呼び出す為、いいエサになってくれるだろう」


「ただ、もう二度と動けない程度には体を潰させてもらう」


 ダメだ、もう死ぬ。


 私は、誰のためにもなれなかっ———。





 コンクリートの壁を突き破り、強引にその部屋へと突入する。


 暗闇で大きさが分からないが、壁を破壊した音の反響で奥行約七十メートル、高さ約十八メートルほどあるのは判断がつく。


 破壊したのは約十二メートル地点。


「———ッ」


 人が二人いる、レーリとあとは謎の男。


 レーリは倒れて、男はそれに近付いている。


 酷い出血だ、それに毒ガスとは違うが異様なガスが流れている。


 地面が近付いてくる。


 さて、あと数秒遅かったらどうなっていたことやら。


「遅かったな、ラステンクス教官」


 レーリの盾になるように着地する、あと二メートル近付かれていたら確実に遅かった。


 レーリに意識はない、ただまだ生きてはいる。


「副総督ミーレ・イクツガ、間違いなさそうだな…んで、一番弟子に酷くやってくれたもんだな」


 ミーレ・イクツガその人、顔の皮膚の一部、右頬が顎と額にかけて黒く変色している。


「ああ…金階級とはいえ、"今の"止国兵のレベルがしれるな」


「そりゃ、失礼な話だな…」


 レーリが入ってきたであろう後ろのドアから、一人の男がそう発しながら入ってきた。


「…お前」


「ラクス」


 ラクス、そう呼ぶ人物は一人しかいない。


 昔はもう少しいた、でも今はこの男だけだった。


 いや、本来ならその男だって今この瞬間までいないと思っていた。


「アスヤ…」


「すっかり教官ヅラになっちまったな」


 昔と少し変わった、大人びた顔で、昔の話し方をしている。


 無理矢理そう話しているのが分かる、十何年も姿を消していた男の、十何年も息子よりも万人の命を優先した男の愛想。


「…んで、久しぶりだな、ラクス」


 昔とは違う、低い声でそう言った。

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