第6話 『 先生の頼み事 』
【 side颯太】
―― 7 ――
―― 一週間後。
学校にも段々と慣れ始め、颯太は以前と変わらない学校生活を送り始めていた。
変わった点といえば、
「颯太ー。お昼一緒に行かねぇー?」
「悪い。今日は陸人たちと食べるんだ」
「そっか。あ、お前ら、たまには颯太と一緒に食べさせてくれよな」
「べー。やなこった」「颯太はあたしたちと食べるんですー」
こんな風に、ご飯に誘ってくれたり、気楽に話し掛けてくれるクラスメイトが増えたことだ。それは颯太にとっても喜ばしく、以前と比べ明確な変化といえた。
まだ壁がないわけではない。それでも、少しずつ皆と関わっていきたいと思った。一年間、皆のことを知ろうともしなかったから。
颯太の心境の変化は、誰の目から見ても明らかで――
「っとすまない……なんだ宮地か。ちょうどいい所にいてくれたな」
「先生、俺に何かようですか?」
朋絵、陸人と食堂に向かおうとした時、教室の入り口で伊藤先生とぶつかりそうになった。
颯太の疑問に伊藤先生は肯定と頷いた。
「そうだ。昼休みにすまないが、ちょっと職員室まで来てくれるか?」
「…………」
申し訳なさそうな、そしてどこか面臭そうな顔で懇願する伊藤先生。颯太はたじろぎながらも朋絵と陸人に目配せすると、二人はこくりと頷いた。
「行ってきていーよ」
「お前、復学早々やらかしたのか。あとで何やらかしたか教えて」
思慮深い朋絵と笑いを堪える陸人。とりあえず陸人はあとでゲンコツとして、二人からの了承は得られた。
「分かりました。すぐいきます」
「ありがとう。なに、すぐ終わるさ。それじゃあ、二人とも、少し宮地借りるぞ」
『はーい』
二人に別れを告げ、颯太は伊藤先生の後を追う。最中、颯太は本当に自分が何かやらかしたか思案していた。思い当たる節はないが、やはり長期間の休学の件で呼び出されたのかもしれない――そう身構えていると、伊藤先生が顔だけを振り向かせて言った。
「そう身構えないでくれ。さっきも言った通り、数分で終わる……と思う」
「なんで疑問形なんですか?」
颯太の問いかけに伊藤先生は頬を掻くと、
「キミに用があるのは私じゃないんだよ。宮地に直接会って話がしたいそうだ」
「誰です? それ」
「……もう学校で顔は合わせてるだろう」
「……たぶん」
曖昧な返事に伊藤先生は鼻で笑った。
「とにかく、会って、話してくれればいい。時間がどれくらいかかるかは分からない」
「先生的にはどれくらいかかると思いますか?」
「さてな。キミの返事次第じゃないか。一分で済むかもしれないし、昼休みいっぱい使うかもしれない。それは宮地も嫌だろう?」
「……ですね」
「はは。私も嫌だ」
昼食が取れないのは颯太としても伊藤先生とも避けたい事案だ。空腹の状態で午後の授業は受けたくない。
「だから、キミの判断に私の昼食を掛けるよ」
職員室に入る直前に伊藤先生からそう言い渡され、颯太は生唾を呑み込んだ。
そして、颯太と話したい相手とは――
「おぉ、颯太、来てくれたか! 良かった。伊藤先生、ありがとうございます!」
「いえ」
大きな声に底抜けに明るい笑顔を向けるのは、颯太のかつての監督だった先生だった。
「竹部先生」
颯太の呼びかけに、竹部先生は椅子から立ち上がると、
「久しぶりだな、颯太」
「……はい」
ぎこちない颯太の返事に、竹部先生は困惑してしまった。おそらく、次に何を言えばいいか戸惑っているのだろう。
「――それでは私は席に戻りますので、あと竹部先生にお任せしますね」
「あ、はい」
「宮地、しっかりな」
去り際に伊藤先生から小さな声援をもらい、颯太は短く頷いた。それから、竹部先生に黒瞳を向けると、
「それで、竹部先生、俺に用事ってなんですか?」
「お、おお、そうだな……」
颯太は単刀直入に竹部先生に要件を訊ねた。おそらく、その方が竹部先生も話を進めやすいと思ったからだ。
実際、颯太の思惑は上手く運び、竹部先生から戸惑いが消えて現役時代のように会話することができた。
「学校に戻ってきたばかりで大変なのは分かっているんだが、颯太に一つ、先生の頼みを聞いて欲しくてな」
「頼み、ですか?」
竹部先生の神妙な顔を見て、颯太は瞬間的に察した。これは、良くない流れだと。
それは恐らく、颯太に選手として復活して欲しいと――
「もう一度、選手として戻ってきてくれないか」
やはり、竹部先生の願いは颯太の予想通りのものだった。
「三崎から聞いてると思うけど、まだお前の退部届は保留にしたままだ。……大人が子どもにこんな頼み事なんてみっともないのは承知の上だ。でも、俺は……いや、皆、お前には戻ってきて欲しいと思ってる」
「先生……」
真摯に向けられる瞳に、颯太は強く奥歯を噛んだ。
竹部先生が颯太に期待を向けるのは必然だろう。去年、インターハイに出場した選手を監督としては見捨てて置けないはずだ。磨けば光る原石を前にして、磨かない人なんていないのだから。
「お前には『走る』才能がある。数カ月のブランクは頑張って戻せばいい。お前の脚ならすぐ選手として走れるようになる。その為の協力も俺は惜しまない。だから颯太、もう一度、走ってくれないか?」
「――――」
そう情熱的に訴えかけられ、颯太は逡巡した。
「俺は……」
――今の自分に、果たして選手として『走り』たいという気持ちはあるのだろうか。
颯太が走るきっかけは亡き両親だった。父と母に認められたい一心で陸上の世界に飛び込み、周囲の期待に興味を持たず結果を残してきた。
端的にいってしまえば、今の颯太に走る理由はない。
それどころか、走ることよりも優先したいものまでできてしまった。
誰もいない先頭の景色より、歩幅を合わせて歩きたい人がいる。
だから、颯太は期待の眼差しに頭を下げた。
「先生、もう自分は走る気はありません」
拳を強く握りながら、颯太はそう告げた。
「これまで、自分は認めて欲しい人の為にこれまで結果を残してきました。でも、もうその意味はなくなってしまったんです。今の自分に、走る意味はありません」
「……それは、走りながらでも見つけられないのか?」
食い下がる竹部先生に、颯太はゆるゆると首を振った。
「先生が俺に期待してくれるのは嬉しいです。でも、今の俺には、『走る』ことよりも優先すべきことがあるんです」
走る意味を失った代わりに、生きる意味を見つけることができた。
家で待つ――白銀の少女の姿が脳裏に過る。
「俺は、その時間を大切にしたい。だから、先生の期待には答えることはできません」
「……そっか」
ありたっけの誠意を込めた颯太。それに、竹部先生は短く息を吐いた。
数秒の沈黙が降りて、颯太は瞑目する竹部先生の反応を窺った。
精悍な顔からゆっくりと瞼が開かれると、竹部先生はバシン! と強く自分の両腿も叩いた。
「すまん!」
「へ?」
大きな第一声が謝罪で、颯太は素っ頓狂な声を上げた。目を白黒させる颯太に、竹部先生は口角を上げていった。
「生徒の気持ちに寄り添わず、自分の欲求を押し通そうとした自分に嫌気が差すよ」
「そんな。先生はただ俺にもう一度部活に戻って来てほしかっただけじゃないですか」
「あぁ。だが、さっきのお前の目を見て、自分が如何に生徒に向かい合っていないか気付いてしまった。まったく教師として不甲斐ないばかりだ」
反省だなこれは、と言いながら、竹部先生は立ち上がり、颯太の肩に手を置いた。
「生徒がやりたい事を見つけたなら、それを応援するのが教師の役割だろ。勿論、それが悪い方向なら止めるが……その顔は大丈夫だろ」
「……ありがとうございます」
にこりと微笑む竹部先生に、颯太も晴れた顔で頷いた。
「頑張れよ、颯太。お前ならきっと、その夢だって叶えられる」
「――はいっ。頑張ります」
竹部先生からの激励に、颯太は胸の奥が沸騰するような感覚を覚えた。
その熱が少しでも伝わればと、颯太は力強く返事したのだった。
*************
――翌朝。
「はよ、颯太」
「おう」
ホームルーム開始の十分前。颯太は小説を呼んでいると、朝練を終えた朋絵が椅子を引きながら挨拶をしてきた。
彼女に一瞥してからまた本に視線を戻そうとした時、シトラスの香りが近くに届いてきて、
「颯太~。昨日竹部先生から聞いたよー。部活、誘われたけど断ったんだって?」
「あぁ」
椅子を一歩引いて距離を縮めた朋絵から昨日の呼び出された件を掘り返され、颯太は本をパタンと閉じながら肯定した。
「先生、昨日、部活で男泣きしてたよ。『俺は教師としてまだまだ未熟だぁ! そんな俺でも付いて来てくれるか⁉』って」
「熱いなぁ」
「だよねー。私たち、返事はしたけど引いてたもん」
今となっては可笑しな事だったのだろう。朋絵は思い出し笑いしながら、
「まぁ、その後の練習めちゃくちゃハードだったけどね」
「わ、悪い」
すっと顔が元に戻るどころか目が据わっていて、颯太はつい謝ってしまった。別に何も悪いことはしていないが、先生のやる気を焚いたのはおそらく自分だけに、陸上部の皆には申し訳なくなってしまった。
委縮する颯太に、朋絵は「気にしないで」と微笑みながら、
「先生が熱いのは今に始まったことじゃないじゃん。松岡修造くらい熱いから、あの先生」
「あー。言われてみれば確かに」
声の張り方や仕草に既視感を覚えて、颯太もつい微笑してしまった。
「でも、やっぱりもう一回部活やりたかったなー」
んー、と背伸びしながら言ったのはきっと、胸裏に沸いた感情を誤魔化す為なのだろう。
朋絵は一度外した視線を戻すと、
「先生も私も……ううん、部員の皆、やっぱりまた颯太と一緒に走りたかったんだよ。後輩は特にね」
「なんも接点ないはずだけど?」
「颯太はね。今年入ってきた子の何人かは、颯太がここの陸上部だからって理由で入ってきた子もいるんだよ」
「俺、そんな凄い奴か?」
「自覚なし男だなぁ」
首を捻る颯太に、朋絵は呆れた風にため息を吐いた。
「中学校でインターハイ個人百メートル優勝したのは誰ですか」
「俺です」
「高校一年生でインターハイ出たのは誰ですか?」
「それも、俺です」
「そんな凄い人、普通身近にいないよ?」
ジト目の朋絵に指摘され、颯太は口ごもるしかなかった。言われてみればそうなのかもしれないが、本人からすればやはり『身近な凄い人』という感覚が薄かった。最も颯太の場合、父が元プロバレーボール選手、母が大女優、そして、アリシアが本物の天使と肉親にとんでもない人ばかりなのもあるが。
「はぁ。颯太はもうちょっと、周りに影響力がある人だって自覚した方がいいね」
「しょ、精進します」
彼女も颯太に惹かれた一人なだけあって、その発言力は颯太もしみじみと頷いた。
「おはー。……お、朝から痴話喧嘩か?」
とホームルーム開始五分前に教室に入ってきたのは陸人だった。
「遅いじゃん。何してたの?」
「んにゃ、別に、着替えながら喋ってた」
「ふーん」
「何すか朋絵さん。もしかして、俺が女の子と話してると思ってた?」
「あたしはそれでも興味ないけど。え、そうだったの?」
「辛辣! 嘘嘘、絶賛カノジョは募集中ですよっ」
「あたしを見ながら言わないでよ」
「どうしよう颯太。俺、朝からめっちゃ泣きそう」
「……泣きたきゃ泣けば?」
「本当にお前はアリシアちゃん以外に冷たいのな⁉」
いつものメンバーが教室に揃い、それから三人はホームルームが始まるで談笑していた。
こうやって友達と他愛もない会話を挟みながら、今日も学校生活が穏やかに過ぎていくのだろう――そう思っていた。
「はーい、皆席に着けー」
そう言いながら扉を開けたのは、担任である伊藤先生だ。彼女の登場に、生徒たちは談笑を数十秒かけて止めていくと、予鈴とともに静かになった。
「よーし、ざっと見た感じ、全員いるな。時間が押すから、皆静かに聞いてくれ、今日は出席を取る前に、紹介する子がいる……入って来てくれ」
伊藤先生の少しばかり忙しない口調に、教室中が何事かと騒がしくなり出した。
そして、伊藤先生の合図に、教室の扉がゆっくりと開かれた。
その姿は、誰もが目を奪われるほどの圧倒的な存在感だった。喧騒に満ちかけた教室は瞬く間に静まり返り、ただただ、教卓の前まで歩く姿を生徒たちは羨望するように見つめていた。それはまるで『天使』が降臨したかのように。
「――始めまして。神払聖羅と言います」
その微笑みは、誰もが魅了されるほど可憐だった。
突如、二年二組に来訪した紫色の転校生――神払聖羅。
この日から、ゆっくりと、颯太とアリシアの日常は――。
―― Fin ――
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