第2部 紫惑の懺悔編
第1話 『 新しい日常の始まり 』
【 side颯太 】
―― 1 ――
本日も町は快晴に恵まれ、買い物にいくのにはそれはそれは躊躇うほどの暑さだった。
戸を開けた瞬間にむせ返るような熱気を浴びて、頬を引き攣らせながら陽炎の立ち上る道を行く。
数分後には額から汗が滲み出して、それを乱暴に拭った。
道のりはまだまだ長く、少年は既に帰りたい気持ちが先行しだしていた。
やはり太陽が沈みだす夕方に買い物に行くべきだったと今更後悔が滲み出すも、少年はそれを口に出すことはおろか、顔にも出さなかった。それもそのはず、隣に立つ子のなんとも上機嫌な笑顔を見れば、そんな無粋な真似はできないからだ。
燦然と照りつける太陽の下、天使――否、少女の顔を曇らせてはいけない。それが少年、宮地颯太が少女とこの猛暑日のお昼に買い物に赴く理由だった。
「ダメだ暑い。今すぐ帰りたい」
そんなモノローグを台無しにするように、颯太は暑さに堪え切れず嘆いた。
半分死んだ目で歩く颯太に、隣で歩くペースを落としてくれた少女はやれやれと吐息すると、
「はぁ。ソウタさん。スーパーまでまだ半分も来てませんよ? それでは明後日からの学校、体力が持たないんじゃないですか?」
「だよね。やっぱ学校行くのやめようかな。このままずっとアリシアと一緒にいるのも悪くないし、むしろ俺としてはそっちが良いんだけど」
「何言ってるんですか。学校に行くって決めたのはソウタさんでしょ? なら、ちゃんと、言ったことに責任は持たないとダメですよ」
「ぐっ。正論が胸に突き刺さる」
「もうっ。しっかりしてくださいね、ソウタさん」
颯太の軽口をぷりぷりとした顔で咎めたのは、燦然と輝く白銀を靡かせる少女――アリシアだ。
颯太とアリシア。二人を簡単に説明するならば、宮地颯太という人物は不登校中の釣り好き少年。一方、白銀超絶美少女ことアリシアは元・天使だ。妄言ではなく、神が創った神聖なる世界【天界】で暮らしていた本物の天使。が、現在は堕天して人間として生きている。もっとも、そうさせたのは颯太だが。
そんな二人はウミワタリを経て同居人からついに恋人関係になった。とはいってもそれまでの日常と変わったことは特段なく、二人はいつも通りこの潮風町で平和な日々を過ごしていた。
一つ、変わった事があれば、それは不登校だった颯太が九月から学校へ復学することだ。そして、それによりアリシアが家で一人になる時間が増えるということだ。
アリシアにとっては復学する颯太が心配で、颯太にとっては帰宅するまでアリシアを一人にしてしまうことが不安だった。
颯太は咳払いすると、真面目な口調でアリシアに言った。
「まぁ、俺の方の心配はそこまでしなくて大丈夫だよ。むしろ俺としては、やっぱ日中アリシアを家に一人にすることの方が不安なんだよね」
「むっ。信用されてませんね」
颯太の言葉に耳がぴくりと反応して、アリシアは頬を膨らませる。不服気な彼女に颯太は慌てて弁明しようとしたが、アリシアの方が言うのが速かった。
「ソウタさんの心配もごもっともです。私は地球に来てまだ一カ月程度。慣れてない事も沢山あります。でも、私だってソウタさんが復学すると決めてからの二週間、色々頑張ってきました。洗濯機の回し方に掃除の仕方。まだ種類は少ないけど、料理だってできるようになりました。……そんな私を、ソウタはやっぱり一人にするのが心配ですか?」
「うっ。その濡れた子犬みたいな瞳向けるのやめて心が痛む! いや、アリシアのことは全面的に信用してるよ? でもやっぱりさ、こんな可愛い子が家で一人でお留守番とか、家の主というか彼氏としては心配な訳なんですよ」
アリシアは良い子だ。むしろ良い子過ぎる子だ。故にそこが颯太としては懸念材料だった。良くも悪くも純粋な性格なアリシア。果たして彼女が時々やってくる悪徳勧誘を断れるだろうか。泥棒が入ってきたらお客と勘違いしてお茶を入れてしまうのではないのだろうか。そんな嫌な妄想が働いてしまうのだ。
頭を抱える颯太を見て、アリシアはまた溜息を吐いて応えた。
「ソウタさん、私これでも、人を見る目くらいはあるんですよ? 伊達に何百年も天使やってませんでしたから」
「そ、そうなの?」
意外な返答を受けて、颯太は目を瞬いた。
「でも、アリシア、いつも皆に明るく振舞ってるじゃん」
「当然ですよ。皆さんいい人達なんですから。私がこれまで関わってきた人たちに、悪い人はいませんでしたよ」
「それは俺も保証するけど」
アリシアの返答を受けて、颯太も照れくさげに肯定した。
どうやら颯太は周囲の人たちに恵まれていたようだ。天使だったアリシアがこうやって断言するのだから皆本当に良い人たちなのだろう。
「なので、ソウタさんは私のことは心配なさらず、思いっ切り学校生活を楽しんできてください」
「……分かった、そうする」
渋々と頷いた颯太に、アリシアは柔和な笑みを浮かべると、一つ指を立てた。
「それに、ずっと一人という訳でもないじゃないですか」
「うん、時々、みつ姉が様子を見に来てくれるって言ってた」
みつ姉、とは颯太の姉さんだ。厳密には姉ではなく幼馴染だが、十年来の付き合いがそう呼ぶに相応しい関係を作り上げた。みつ姉は颯太にとっても、アリシアにとっても頼れる存在だった。無論、彼女は仕事しているので、アリシアの様子を窺いに来てくるのも限りがあるが、それでも颯太からすれば大変有難いことだ。
「ホント、みつ姉には頭が上がらないな。俺の時もそうだったけど、アリシアのことまで気に掛けてくれるとか、俺が姉離れできない最大の原因はこれだな」
もうすぐ十七歳になるというのに、いつまでもみつ姉に頼るのはさすがに男としての尊厳が保たれない。そろそろ本格的に姉離れを考える頃合いだろうが、それをみつ姉本人が知れば泣きつくのがみつ姉の方だとは颯太は知らない。結局、二人揃って弟離れも姉離れもできないのである。
「いつか、みつ姉に恩を返せる日が来ればいいな」
「そうですね。二人で一緒に、みつ姉さんに喜んでもらいましょう」
「え、それって……」
「? どうしたんですか、ソウタさん、急に顔を赤くして」
「うん。分かってはいた。深い意味で言ってないってこと、分かってたから」
同意するアリシアに思わずたじろぐも、きょとん、とした顔のアリシアを見てすぐに肩を落とした。二人で一緒に、という単語に颯太は胸を弾ませたが、そこはアリシア。しっかり無垢かつ純粋さを発揮して颯太を現実に引き戻してくれた。
「ま、そんな未来も遠くはないか」
今はまだ、未成年で何の責任も果たすことができない。けれどいつか、自分が思い描く立派な大人になれたら、もう一度アリシアに告白すればいい。その時まで、この想いは変わることないから。
「天帝様にも約束したしな。アリシアと一緒にいるって」
「さっきからずっと、何を一人で喋ってるんですか? ハッ、もしかして、暑さで頭がやられてしまいましたか⁉」
「うん、アリシアさん。それは普通に俺に対して失礼なのでは。普通に独り言だよ」
顔を蒼くするアリシアに体を揺さぶられながら、颯太は青空を見上げる。そこには颯太とアリシアだけが見える、アリシアのかつての故郷があった。
天界は本来であれば人間には見えないらしいが、天使だったアリシアの影響で颯太は見えるようになった。そして、アリシアも堕天して人間となってもまだ見えているらしい。
そんなアリシアの故郷を見上げながら、颯太は述懐した。
ウミワタリの最終日。アリシアを取り戻すために渡った、あの幻想の回廊。そこで繰り広げられた会話は、今でも昨日のように鮮明に覚えている。
颯太は、アリシアと一緒に居たいが為にアリシアを天使から堕天させた。その罪を背負って生きろと天帝に言われ、颯太はそれを背負っていくと誓った。
アリシアとこれからも共にいる為、彼女に相応しい男になる為に、だから颯太は復学ことすることを決意した。
明後日は、その第一歩だ。
「ほら、アリシア。そろそろ歩き始めようよ。道のりはまだまだ長いぞ」
「それはこっちのセリフですよ⁉ も~、途中でばてないでくださいね、ソウタさん」
指し伸ばした手を、アリシアが握り返した。繋ぐ手と手の温もりは、夏の暑さにも負けないくらい熱を帯びていて、離れることはなかった。
もうすぐ、夏休みが終わり、学校が始まる。
それが大波乱を呼ぶことになるとは、颯太もアリシアもまだ知らなかった。
―― Fin ――
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