終章 『 キミと―― 』

 ――  1 ――


side颯太


「アリシア!」

 意識が覚醒した瞬間に、颯太は真っ先に彼女の名前を叫んだ。

 ガバッ! と音を立てて毛布を剥いで上体を起こす。額には脂汗が浮かび、荒い息を繰り返した。

「……此処、どこだ?」

 いくらか落ち着きを取り戻すと、颯太は辺りを窺った。四角形の部屋だ。簡素なベッドが四つ。うち三つは皺ひとつない状態だった。

 それから、自分の体を見ると服装が違っていた。確か、前に来ていたのはいつも着ていた黒シャツのはず。しかし、今颯太が身に纏っているのは、薄緑を基調にした病服だった。  

 さらに、見れば腕には長い管が通っていた。その管を目で追えば、透明な液体が入ったパックに繋がっていた。

「ん……」

 ココが何処か理解し始めた時だった。不意に、横から唸り声が聞こえた。颯太は視線を下ろすと、自分のベッドで顔を埋めて眠っている女性がいることに気付く。

 颯太はその女性が誰なのかは瞬時に悟る。

「みつ姉」

 そっと、起きるか起きないか程度の声音で彼女の名前を呼んだ。

 すると、

「ん? ……ソウちゃん?」

 瞼を強く閉じたそのあと、みつ姉は口元の涎を拭ってハッと飛び起きた。

「ソウちゃん! ……良かった。目が覚めたのね」

「うん。今起きたばっかりだけど」

「無事に目を覚ましてくれただけでも十分よ。本当に良かった」

 ほぅ、とみつ姉は深い安堵の息を溢した。

「体? どこか痛い所とかはない?」

「まだ少し倦怠感があるくらいだけど…でも、全然動くよ」

「そう。でも、安静にはしててね。本当に、心配したんだから」

「ごめん。迷惑かけた」

「そんなことないわ。あなたが無事で本当によかった」

 目尻に小さな涙を溜めて、みつ姉は颯太の頭を抱きしめた。

 数十秒だけその温かさに浸って、颯太はその腕からゆっくりと離れていくと、

「みつ姉、ここ、病院で合ってるよね」

「そうよ。昨日、何があったか覚えてる?」

「ごめん……あんまり、あの後のことは覚えてない。つーか、思い出したくない」

 見つめてくる灰色の瞳に問いかけられ、颯太は逃げるように視線を逸らした。

 無意識に、颯太はシーツを強く握り締めていた。

「みつ姉が……来てくれたことだけは覚えてる気がする。そっから起きるまでの記憶は、まったく覚えてない。でも、病院に運んでくれたのはみつ姉なんだろ?」

「そうよ。ソウちゃん、浜辺で倒れてたの。それからすぐ意識を失くして、救急車を呼んだの」

「そっか……」

 みつ姉が颯太を見つけてなければ、颯太はあのまま浜辺で蹲っていただろう。死んでいても、おかしくはなかった。

 ――ふと一瞬だけ、死んでしまいと思ってしまった自分がいた。

「――ッ!」

 昨日の悔悟がフラッシュバックする。目の前で、アリシアが連れて行かれる光景が。その度に、颯太は身を焦がすような劣等感に苛まれた。

 強く、強く握り締める手から血が滲みそうになった。それでも尚握るのを止めない拳に、そっと柔かい手が覆いかぶさってきた。

「落ち着いて、ソウちゃん」

「……分かってる。けどっ」

 颯太の耳朶に、みつ姉の穏やかな声音が届く。その声に、行き場のない自分への憤りがいくらか収まる。

 同時に、胸の奥がこれでもかと締め付けられた。

「大丈夫よ。私が此処にいるわ。何処にもいかないから、だから、自分を責めるのはやめなさい」

 もう一度、みつ姉が優しく颯太を抱きしめる。今度は背中を叩きながら、まるで赤子をあやすように。

 その慈しみが、余計に颯太の心を搔き乱すというのに。

「ゆっくりでいいから、何があったのか教えてくれる?」

 みつ姉はおそらく、颯太に――否、二人に起きた事態を把握している。けれど、それはあくまでみつ姉の想像の範疇でしかない。だから、颯太自身の言葉を待っているのだろう。 喉を震わせて、颯太はゆっくり口を開いた。

「アリシアが……連れてかれた」

 言葉にしただけで、胸中が激情に震えた。胸が締め付けられて、今にも涙が零れそうになる。それを、力一杯歯を噛んで堪えた。

「アリシア……もう長くないみたいだったんだ。この世界にいられないって……でも、一緒に生きられる方法を探そうって……約束した、すぐだった……アムネトっていう天使が現れて……目の前で、アリシアを連れて行った」

「そう」

「目の前でアリシアが連れてかれるって……分かってたのに、俺……ッ……なにも出来なかったんだ……手を伸ばして、でも……届かなかったッ!」

 視界が霞む。声が震えて、今にも叫び出したかった。

 自分を認めてもらいたかった両親が亡くなって、

 自分の成長を見て欲しかった祖父も亡くなって、

 そして、今度は隣にいて欲しい大切な天使すらも消えて――

 我慢なんて、できるはずなかった。

「なんで……俺の周りからは……大切な人が消えていくだろう……なぁ、みつ姉? ……なんでなんだよ……ッ」

「――――」

 みつ姉は答えない。いや、答えられないのだろう。颯太を近くで見てきたのはみつ姉だ。颯太の苦痛を知っているのは、もうみつ姉だけだった。

 十六の子どもには、惨過ぎる人生だ。絶望するなと、そう言う方が無理だ。

 奥歯を噛み締める颯太を、みつ姉は強く抱きよせた。

「私が、まだ居るわ。ソウちゃんの傍に居る。これからもずっと一緒にいてあげるから。だからもう……泣かないでッ――颯太」

 分け合うことのできない痛みが、二人の胸を満たしていく。



 ――  2 ――


side颯太


 ――検査の結果、颯太の体に異常はなく、午後で退院となった。医者からせっかくのウミワタリなんだから楽しまなきゃ損だという寛大な好意もあってのことだが、今の颯太に祭りを楽しむ余裕などなかった。

「颯太⁉ 無事⁉」

「朋絵。何しに来たんだよ」

 退院の手続きをしていると、大声で颯太に飛び掛かってくる少女が目に見えた。朋絵だ。おそらく、みつ姉から連絡を貰って来たのだろう。

「なにって……颯太が病院に運ばれた、って三津奈さんから連絡もらって、それでお見舞いに行かなきゃって思って……あれ?」

「ごめんね、朋絵ちゃん。ソウちゃん、意外と元気みたいで、すぐ退院できちゃった!」

「えぇ! 何それ、それじゃあ急いで来たあたしがバカみたいじゃないですか⁉」

 みつ姉が悪気なく謝ると、朋絵はその場にガクリと崩れた。

 落ち込む朋絵に、みつ姉は慌てて弁明した。

「でも、こんな可愛い子がお迎えに来てくれただけでも嬉しいわよね! ね! ソウちゃん」

「え、あぁ、まぁ」

「ちょっと、そこは素直に喜んでよ」

 歯切れ悪い返事の颯太に、朋絵はじろりと睨む。

 それから朋絵は一つ吐息すると、よいしょと立ち上がって、

「まぁ、颯太が思いのほか元気でなによりだわ」

「…………」

 安堵した顔を向けられて、颯太は目を瞬いた。どうやら、朋絵は本気で心配して駆けつけてくれたらしい。

 だからきっと、次の言葉も無意識に零れたのだろう。当たり前だろうと、彼女自身も思っていたことだから。

「それで、アーちゃんは何処よ? 一緒にいるんでしょ?」

『―――――』

「え、なになに? あたし、何かおかしなこと言った?」

 颯太の傍にアリシアがいること。それは朋絵にとってももはや日常で、それ故に颯太の心を無意識に抉った。

 説明しようにも、喉の奥で言葉が詰まって出てこなかった。そんな颯太の心情を横に立つみつ姉が即座に汲み取り、

「朋絵ちゃん、ちょっといいかしら」

「え? はい……」

 みつ姉が朋絵を連れて、受付から廊下のほうへ離れていく。

 それから、体感的に三~四分ほどか。

「まって、朋絵ちゃん!」

 廊下のほうからみつ姉の叫び声がしたと同時、朋絵が切羽詰まった顔をして戻って来た。

「颯太! アーちゃんが連れ去られた、ってどういうこと⁉」

「今聞いたんだろ、みつ姉から」

「だから颯太に聞いてるんでしょ!」

「何を聞きたいんだよ」

「だから……」

 それまで必死の形相だった朋絵の顔から血の気が引いたのを感じた。

「もう……戻ってこないの? アーちゃん」

「――――」

 朋絵の疑問に、颯太は答えることができなかった。答えてしまえば本当に、アリシアが戻ってこないかもしれなくて、言えなかった。

「そんなの、嘘でしょ」

 奥歯を噛み締める朋絵に、追い着いたみつ姉がその肩に手を置いた。

「朋絵ちゃん。辛い気持ちは分かるけど、一番辛いのはソウちゃんなの。だからお願い、今はそっとしてあげて」

「……ッ」

 みつ姉の言葉に、朋絵の双眸の鋭さが増す。

 そして、朋絵は颯太を糾弾するように問いかけた。

「颯太は、悔しくないの? 自分の目の前で、アーちゃんが奪われて、悔しくないの⁉」

「…………」

「答えろ!」

 激昂する朋絵に、颯太は俯いたまま何も答えなかった。

「あっそ。もういい。あたしが好きだった颯太がこんな奴だったなんて――ガッカリしたよ」

 吐き捨てるように言って、朋絵は歩き出した。

 去り際に、朋絵は颯太に向かって呟いた。

「あたしは、悔しいよ。そこにいなかったことも、あの子が、一人で抱えた苦悩を知らずに一緒にいたことも」

「ッ‼」

 その言葉は、颯太の胸に突き刺さる。ナイフよりも鋭利に、深く。

 一瞥だけくれて、朋絵は去ってしまった。

 その背を見ないまま、颯太は声を震わせた。

「お前の言う通りだよ、朋絵」

 後悔も悔悟も、今更手遅れでしかなかった。



 ――  3 ――


side颯太


「それじゃあ、私は一度、家に戻るけど……本当に大丈夫なのね?」

「うん。車に揺られたおかげで、いくらかマシになった」

「すぐ戻ってくるから、帰ったら一緒にご飯食べましょ」

「気にし過ぎだよ、みつ姉。また、前の生活に戻るだけだから」

「それでも、よ。いい、一緒にご飯食べるから、ちゃんと家に居なさいね」

「分かったよ」

 念押しされて、颯太は嘆息しながら頷いた。

 みつ姉は憂い気な顔で颯太を最後まで見続けながら、門の外まで出て行く。それから車のエンジン音が聞こえてきた。音は徐々に遠くなっていき、みつ姉の走らせた車が町の方へ向かったのが分った。

「静かだな」

 ぽつりと、玄関の前に佇む颯太はそうボヤいた。遠くから祭りの音頭が聞こえてくる分いつもの日常よりは騒がしいが、それでもアリシアが居た頃に比べれば静かだ。

『――ただいま帰りました!』

「――――」

 玄関を退く直前。そんな幻聴が聞こえた。それを、頭を振って消し去る。

「ただいま」

 その言葉は部屋に響いたまま。何の返答もない。ただ、扉がガラリ、ガラリと二度立てた音だけが颯太を迎え入れた。

 靴を適当に脱ぎ捨てて、颯太は居間の方に向かう。

 ギシ、ギシ、と渡り廊下を踏みしめながら、黙ってそこへ。

 居間の畳を過ぎて、体は台所へ。手も洗わず、颯太はコップを手に取った。

「……あ」

 無意識に、颯太の手はコップを二つ取っていた。

 片方は自分の。もう片方は、アリシアのコップだ。

「そうだ。これからは、俺の分だけでいいんだ」

 コップを握る手に僅かに力が籠った。左手のコップを棚に戻し、そのまま片手で冷蔵庫から麦茶を取り出す。

 注がれる麦茶の音を無意識に聞きいていると、並々の所で我に返る。零れる寸前のところで蓋を上げ、仕方なく並々になった麦茶を飲み干した。

「みつ姉が戻ってくるまで暇だな」

 本人に曰く、一時間ほどで帰ってくるそうだが、それまで時間が空いてしまっている。

「テレビでも見るか」

 とりあえず、颯太は目先に映ったテレビの電源を点けた。

「…………」

 流れる映像を変えては欠伸する。その繰り返しだった。

『――あはは。見てください、ソウタさん。この芸人さん、凄く面白いですよ』

 変え続けた番組に、以前アリシアが好きだった芸人が映った。なんとなく番組をそのままにしてみたが、颯太はクスリとも笑わなかった。隣に彼女がいればきっと自分も笑っていただろうと思うと、胸中に一層虚しさが広がった。

「くっそ」

 一瞬でも気が緩めばアリシアが居る幻影を見てしまって、颯太は記憶を封じようと頭を振った。

 思い出に、心に、体に刻みついたアリシアとの時間。それは、簡単に消去して次に進もうと心変わりできるものではなかった。その程度の関係なら、颯太は別れ際に手を伸ばしてはいない。

「ここは……ダメだ」

 ゆらりと、亡霊のように立ち上がった。

 家の何処を見ても、アリシアの幻影が見えてしまう。声が聞こえてしまう。

 アリシアとの生活が染みついたこの家は、颯太にとってはもう――居場所ですら無くなろうとしていた。両親と住んでいたあの家にいた頃の苦痛のほうが、まだマシだった。

 足を引きずるように、颯太は階段を上がった。何度か足を踏み外して、登り切る頃には四肢を付いていた。

 この家で、唯一颯太を守れる場所。それは自部屋だった。

 ドアノブを捻り、倒れ込むように部屋へ入った。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 荒い息遣いを繰り返した。頭が、割れるように痛む。

 脳裏に流れ込むのは、颯太に起きた不幸な現実だった。

 両親が事故で亡くなった報せ。

 祖父の死の最期。

 アリシアとの別れ。

 繰り返し流れる悲惨な記憶。一つ終わればまた一つが再生されていく。逃れることのできない負のループは、颯太から幸福だった時間を悉く奪っていく。

「なんで……俺ばかりがこんな不幸にならなきゃならないんだよ!」

 それは、行き場のない感情の吐露だった。

 自分の中の何かが決壊しようとして、それを止める方法が見つからない。涙が勝手に溢れて、心臓を握り潰さんとばかりに胸を掻いた。

 いっそ自分も死ねば――。

『――できます。ソウタさんなら』

「俺に何が出来るってんだよ⁉」

 何処からともなく聞こえる幻聴に、颯太は泣き叫ぶ。

『私は、信じてます』

 まるで、自分の言葉に応えるかのように、幻聴がそう返してきた。

『ソウタさんは、自分を信じる人です』

 まるで、近くで自分を見ているようだった。

『だから頑張れ、ソウタさん』

「――ッ‼」

 居ないはずのアリシアが一瞬だけ見えた気がして、颯太は顔を上げた。しかし、結局幻覚に過ぎず、視線の先には真っ白な壁だった。

 ただ、そこに確かにアリシアが微笑みながらエールを送っていた……そんな気がしたのだ。

「……そうだ。部屋、片づけなきゃ」

 呆然としたまま、颯太は涙で濡れた目元を雑に拭いて立ち上がる。

 みつ姉が来るまで、体感的に三十分以上ある。ならばそれまで、アリシアの使った部屋の整理でもしようと、颯太は隣の部屋に向かう。

 また、ドアノブを開けた。

「は。やっぱ、部屋綺麗にしてたたんだな」

 思わず、力の無い笑みが零れた。

 アリシアの部屋は綺麗だった。布団はきっちり畳まれているし、カーペットに埃もない。

「アリシア。掃除機好きだったもんな」

 二日置きに、部屋からは掃除機の音と鼻歌が聞こえてきた。アリシア曰く、掃除も好きだが、掃除機を動かすのが楽しくてやっているのだと。

「これじゃあ、この部屋の片づけはすぐ終わりそうだな」

 部屋が汚れているならば少し綺麗にしよう。そう思っていたが、目立った汚れもなければ放り捨てた服もない。さすが天使なだけある。

 部屋を見渡していると、ふと勉強机に目が向いた。

「これ、ゲーセンで俺と取った熊のぬいぐるみか」

 机に大切そうにそれが置かれていて、颯太は力の無い笑みを浮かべた。

 そのまま、机に置かれていた学習ノートを手に取った。

「すご。ぜんぶ終わってる。これも、これもだ」

 それはまだ、颯太が見ていなかった学習ノートだった。そう分かるのは、判子が押されてないからだ。颯太はアリシアの勉強を見る時、終わったページには動物の判子を押す約束があった。だからこれは、アリシアが自発的にやっていたものなのだろう。

「字……上手に書けるようになったんだな」

 最初に見た歪な文字。顔が引き攣ったのをよく覚えている。けれど、それはもう見る影もなかった。綺麗に書かれている文字に、颯太は撫でるように触れた。

 机に置かれた学習ノートも一通り眺め終わり、今手にしているノートを置こうとした、その時だった。

 一か所だけ、閉じかけられた引き出しが目に入った。

「空きっぱなし……」

 何故かそこに惹かれるように、手が勝手に動いた。

「これ」

 開けた引き出し。そこにあったのは、学習ノートでも本でもない――一冊の自由帳だった。

 白紙の部分。そこにはアリシアの字で『にっき』と記されていた。

 心臓の鼓動が僅かに高まったのを覚えながら、颯太は『にっき』を開いた。

 そこには――。


『7月5日 きょうから、わたしはこののーとにおもいでをかこうとおもいます。きょうのおもいでは、そうたさんににほんごをおしえてもらったことをかこう』

 アリシアがこの家に住み始めて、二日後のことが内容として書かれていた。まだ全部がひらがなで、字もよれよれだった。

『7月11日 今日は、ソウタさんとりょうりをしまいした! でも、不思ぎなことにお魚がばくはつしてしまって、わたしとソウタさんはおおあわてになってしまいました。どうしてばくはつしたのかは、ソウタさんも分からなかったみたい……』

 今でも鮮明に覚えていて、思わず笑ってしまった。

『7月23日 今日は、ソウタさんと初めて電車にのりました! まどから見るけしきがすーごくきれいで、それにびゅんっ! って通りすぎっていった! そして、大きなデパートでくまのぬいぐるみをゲット! スゴくかわいいので、べんきょう机に置いておこう』

 飾られた熊のぬいぐるみ。どうやらそれは、アリシアの宝物になっていたらしい。それもこの『にっき』を通して初めて知った。

『7月31日 今日は、ソウタさんのお友だち、ともえさんからソウタさんと大事な話がしたいと相だんされました。朝の6時30分に高校に向かうじゅんび! どうか、お二人が仲良くなってくれますように』

 それはアリシアが消えたかと肝を冷やした前日のことだった。ただアリシアのおかげで、颯太は朋絵と改めて友達になれた。そのことは、アリシアも次の日の思い出として書かれていた。

 捲られるページにはアリシアが今日起きた楽しかったことが主に書かれていた。

 あれをした。これをした。こんなことがあった。アリシアが見たものを、颯太は『にっき』を通して知っていく。

 綴られていた楽しい思い出。しかしそれは、8月3日から様子が変わり始めた。

『8月3日 今日、夢を見た。朝起きた時は覚えていたけど、もうよく覚えてはないみたい。それでも、思い出そうとするたびに悲しい気持ちになる』

『8月5日 夢が、段々と濃くなっていく。今日は鮮明に覚えている。それと同じように、私の紋章も、濃くなり始めている気がする』

『8月7日 今日、みつ姉さんにお願いされた。ソウタさんを助けてほしい、って。私の力でソウタさんを助けてあげられるなら、私はソウタさんを助けたい。それがきっと、私がこの世界でできる、最初で最後の天使の役目だと思うから』

 この時から、アリシアは自分が消えると悟っていたのだ。それでも、アリシアは自分ではなく颯太を助けることを優先した。自分が消えることなど、そんな素振りを一切悟らせることなく、アリシアは平然を装っていたのだ。いつも笑っている自分を、その裏に、漠然とした恐怖を隠したままで。

それを考えるだけで思考が白熱した。

 それでも、颯太は『にっき』を見ることを止めなかった。

『8月10日 もうすぐ、ウミワタリという大きなおマツリが始まる。ソウタさんと一緒に見れることはウゴく嬉しい! 

 そしてもう一つ、やりたいことが出来た。それは、私の成長したすがたを、ソウタさんに見てほしいこと』


 それが、件の神輿担ぎだったのだろう。だから、アリシアは神輿担ぎに出たかったのだ。それは全部、颯太にこの潮風町で成長した自分を見てもらう為だった。

 それはつい昨日のことで、綴られた日記はそこで終わりだった。当たり前だ。アリシアは昨日、この『にっき』の続きを書けないまま連れ去れたのだから。

「ごめん。アリシア」

 あの時、手を伸ばして、掴めていたら、アリシアはこの続きを書けたかもしれない。

 楽しいこと、嬉しいこと。書きたいことが沢山あったはずだ。アリシアは昨日、ミチカという友達ができたらしい。それに、屋台で美味しいものを沢山食べた。まだ祭りは二日も残っている。それに、これからも二人で色々な体験をしようと、約束したのだから。

 それも全て、無に帰してしまった。

「――――」

 奥歯を噛み締めて、颯太はノートを閉じようとする。せめてこの『にっき』だけは、彼女の存在を残すこれだけは、自分の手元に残しておきたかった。

 そしてノートを直前。最後のページに黒い文字が見えた。

 開く。そして、そこに書かれた文字に、ノートを持つ手が強く握られた。


『――いつまでも、忘れない。この日々の思い出を。

             ソウタさんへの、感謝の気持ちとこの恋心を』


「――ッ‼」

 また、目頭が熱くなった。けれど、次は涙は流さなかった。

「――すぅ」

 瞼を強く閉じて、深く息を吐く。思考は熱を帯びたまま。だが、冷静だった。

 ――諦めるのは、早いだろ。馬鹿野郎!

「まだ、終わらせてたまるか。絶対、可能性を見つけるんだ」

 蹲って、何にも向き合わず逃げ続けるのは、アリシアが孤独から救ってくれた日を最後に止めたはずだった。なのに、自分は勝手にアリシアにはもう会えないと決めつけて、また傷つく現実から逃げようとしていた。

両親が事故で亡くなった報せ。

 祖父の死の最期。

 アリシアとの別れ。

 流れる負の思考のループ。その脱却は、己への問いかけだった。

 何の為に、アリシアは自分の成長した姿を見せようとした。

 何の為に、爺ちゃんは颯太の手を引っ張ってくれた。

 何の為に、両親は大会を見に来ようとしてくれた。

 さっきは考えようともしなかった。でも、今は違った。

 何のために、悲しい現実があった?

「アリシアが成長をみせてくれたのは、伝えたかったんだ。俺にだって周りの人たちがいることや諦めちゃ駄目だってこと。

爺ちゃんが俺の手を引っ張ってくれたのは、俺に可能性を教えたかったからだ。俺なら、何にでもなれることを。

 母さんと父さんが来ようとしてくれたのは、俺を認めようとしてくれたからだ。俺をちゃんと見ようとしてくれてたんだ」

 言葉にして、自分で出した答えを呑み込んだ。そうやって、悲しい現実も背中を押す活力に変えるのだ。

 未来は変えられる。アリシアに言った言葉を、自分で否定してはいけない。

「そうだよな、アリシア」

 ポケットから取り出したのは、あの時、届かなかった手が握った、一枚の羽根だった。

「俺は必ず、キミを取り戻す」

 優しく握る羽に、颯太は誓った。

 そして、走り出した。部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。一直線に玄関に向かって、靴を履いて外に出る。

「うわっと⁉ どうしたの、ソウちゃん⁉」

「みつ姉! 戻ってきたとこごめん。今からちょっと行くとこあるから。ご飯あとで!」

 玄関先で戻って来たみつ姉とぶつかりかけるも、胸が顔に蹲るギリギリで堪えた。そして、態勢を整えて走り出す。

「ちょ、ちょっとソウちゃーん⁉」

「行ってくる!」

 まだ困惑したままのみつ姉に手を振って、颯太は門を越え、一気に坂を下りる。祭りで賑わう人々と屋台を颯爽と抜けて――向かったのは公民館だった。

 吐く息が血の味がする。心臓が破裂しそうな苦しい。でも、それが今は心地よかった。足を動かすことが、可能性に向かって走ることが、これほど愉快なものとは知らなかった。十六年間。ずっと損をしていたらしい。

 息を整えないまま、颯太は乱暴に玄関を開く。後方から突然大きな音を立てられて、眼前の人物たちは一斉に肩をビクッとさせた。

「あれ、颯太⁉ なんでこんな所に、三津奈が看病しに行くって……」

 晴彦さんが颯太に真っ先に気付いて、目を瞠っていた。

 視線を突然の乱入者に一斉に集まる。

 ここに居るのは、翌日に行われるウミワタリの進行役の人たちだ。

 晴彦さん。ゲンさん――人身御供役の陸人。

 そんな陸人と目が合い、颯太は靴を投げるように脱いで部屋に入った。

 周囲の人たちには目もくれず、颯太は陸人の前に仁王立つ。

「ど、どうしたんだよ、颯太」

 陸人が頬を強張らせていた。警戒している陸人の肩を勢いよく掴むと、ひえっと呻き声を漏らした。

 驚愕する陸人。その顔に息が掛かりそうなほど近づくと、颯太は叫んだ。

「頼む、陸人! ウミワタリの人身御供役――俺と代わってくれ!」



 ――  4 ――


side颯太


ウミワタリの伝承が、昔から颯太にとって不思議でならなかった。

何故、少女が空から光を放ちながら落ちてきたのか。どうして、少女がこの町に住み始めてから、町は栄えたのか。少女が死ぬとき、何故、海は光ったのか。そして、それ以来毎年決まった日に海が光るようになったのか。

至極当然だが、人が落ちたところで海は光らない。その現象は、この潮風町の海にのみ起こるものだ。海は自然の在りもので、もし誰かが落ちて光るのなら、この世界で海で亡くなった人間はいない。

颯太は祖父が生前していた頃、よくそれを文句のように言っていた。

そんな颯太に、祖父は馬鹿デカい声で笑いながら、こう答えたのだ。

『海っつーのはよ、とにかく馬鹿デカい。昼は真っ青な景色が水平線まで続いてんのに、夜になれば真っ暗だ。光は精々船のライトくらい。それ以外の光は海にはねぇ。だからよ、颯太ァ、この伝説はな、そういう、暗い世界でも光があるってことを教えたかったんじゃねえかな、って俺は思ってるんだよ。どんな八方塞がりの上古湯でも、困難な道のりでも、一人じゃなきゃ、どうにか乗り越えられる。俺はガキの頃この伝承を聞いて、そう感じた。――つまりだ、奇跡を信じろ、ってことだよ』

 その時は祖父の言葉に納得できなかったけれど。

 けれど、ようやく理解できた。

 祖父の言う通りだった。

 颯太の周りには、沢山の助けてくれる人がいた。

 アリシアに会えるかもしれない、たった一つの可能性に――この潮風町の皆が、颯太の力となってくれていた。

「準備はいいかァ、颯太!」

 風が、帆を揺らしていた。

 ――爺ちゃん。俺、奇跡を信じるよ。

 眼前には眩いほどの漁船のライトが照射されていた。そこから一人の漁師が声を掛けてきて、颯太は小さく相槌を打って応じる。一つ息を吐いて振り返れば、後ろには沢山のギャラリーと見知った町の人たちが見守ってくれていた。

 その中に、この人身御供という役を譲ってくれた友達もいて。

「まさか、海の一年の安全祈願をする祭りが、こんな結末になるなんてな」

 やれやれと吐息する陸人に、颯太は苦笑いで返した。

「だな。俺もこんな事になるなんて思わなかったよ」

「フ。だろうな」

「代わってくれて、ありがとうな。陸人」

「なーに。一世のラーメン屋三回おごりと引き換えだ、気にすんな。……それに、俺からすればずっと、この役はお前だ、って思ったんだから」

 そう言って、陸人は屈託のない笑みを見せた。突き上げた拳が颯太の胸を叩く。

「絶対、アリシアちゃんを連れ戻してこいよ」

「分かってる」

「それから……」

 男の約束を交わした後、陸人は辟易とした顔で体を逸らした。

「……朋絵」

 そこに隠れていたのは、昨日喧嘩別れした朋絵だった。

 互いにぎこちなく、どう接していいか分からなかった。

 しばらく微妙な空気が続いたあと、

『あ……』

 声が重なった。

「そ、颯太からいいよ」

「いや、朋絵からでいい」

「う、うん……それじゃあ」

 バッ! と朋絵は勢いよく顔を下げた。

「昨日はあんな酷いこと言ってごめん!」

「いや、あれは朋絵の方が正しかった。謝る必要なんてない。だから、顔上げろ」

「び、ビンタとかしないよね?」

「今この場でそれやったらブーイング受けるの俺だからしない」

 何を聞かされたのかよく分からなかったが、とにかく朋絵の顔を上げさせた。

 まだ少し、頬を強張らせている朋絵に、颯太は「ありがとう」と言って、

「昨日のお前の言葉で、俺も身に染みたよ。アリシアを奪われて悔しかったはずなのに、すぐに何もできなかった。どうしようもならない、って決めつけてたんだ。でも、今は違う。どうにかなる方法があるかもしれない。それを考えるきっかけをくれたのは、お前だ」

「……アーちゃん。帰ってくるんだよね?」

「分からない。でも、必ず連れ戻してくる。そうしたら、また一緒に遊んでくれ」

「っ! うん! あたし、まだ、アーちゃんと話したいこと沢山あるから……」

 だから、と継いで、

「絶対、連れて戻してね」

「あぁ。任せろ」

 朋絵のハイタッチと掲げた手に、颯太はその想いを受け取るように叩いた。快音が夜空に響く。

 陸人と朋絵。二人から想いを託された。残るは、

「行ってくるよ、みつ姉」

「――――」

 振り返った視線の先。そこには、不安そうな表情で颯太を見つめるみつ姉が立っていた。

「本当に、大丈夫なのね」

「あぁ。俺は大丈夫」

「嘘つかないで。手、震えてるわよ」

 それは今まで颯太が懸命に隠していた恐怖心だった。それを、みつ姉は容易く見破った。

「やっぱみつ姉にはバレるか」

「当たり前でしょ。何年ソウちゃんのお姉ちゃんやってると思ってるの」

「流石はみつ姉。なら、俺が止まらないのも知ってるだろ」

 真っ直ぐ見つめる黒瞳に、みつ姉は吐息する。

「知ってる。だから止めれない。それに、私も願うことなら、アーちゃんにまた会いたい。それができるのは、ソウちゃんだけなのよね」

「たぶん」

「それなら、私にできることは、貴方たちが無事に帰ってくるのを此処で見守ることだけだから」

「それだけで十分だよ」

 震えた手を握り締めて、そして開いた。その手で、颯太はみつ姉の手に触れた。

「みつ姉の提案から、俺とアリシアの時間が始まったんだ。だから、最後まで見守っててくれないかな」

 みつ姉の顔をしっかり見つめて、言い切った。

「だって、みつ姉は俺たちの姉ちゃんなんだろ?」

「……ッ!」

 その言葉に、みつ姉は瞳を大きく開けた。それから、瞳から零れそうになる雫を振り切って、自信に満ちた顔で頷いた。

「ええ! 貴方たちのお姉ちゃんはこの私、優良三津奈よ! 世界でたった一人の。だから、最後までちゃんと、見守っててあげる」

 みつ姉は颯太を強く抱きしめた。

「行ってらっしゃい、ソウちゃん」

「うん。行ってくる」

 力強く、颯太は頷いた。

「晴彦くん! ソウちゃんをお願いね」

「任せて、三津奈! 俺が必ず、颯太をアリシアちゃんの元まで届けるから」

 船の上から、晴彦が親指を立てる。白い歯がキラリと光るが、その言葉に周囲の漁師の眉間が動いた。

「おい小僧! 聞き捨てならねえな、颯太を海に送り出すのは俺たち全員の仕事だぞ!」

 分かってますって、と晴彦が頭を下げるも、既に一発ゲンコツを喰らっていた。

「安心しろや、三津奈ちゃん。颯太はかーならず、俺たちが嬢ちゃんのとこまで届けてやっから!」

「ええ! お願いします、松島さん!」

「こりゃあ爺には答える笑顔だな! 婆さんのより何倍もやる気が出るわ!」

 三津奈の笑顔に海賊のように笑っていると、船上もそれを受けて騒がしくなり始めた。

「なに嬢ちゃんの笑顔一人占めしてたんだこのエロジジイ!」

「うるせぇっ! だったらお前もレディーがときめく一言くらい言ってやれってんだ!」

「うんだと、このヤロー!」

「やんのかこのヤロ―」

「ちょっと皆落ち着いて!」

『小僧は黙ってろ⁉』

「そんなー⁉」

 船上から聞こえてくるやり取りに、

「ふっ」

「あははっ」

 この場にいる全員が思わず笑ってしまった。

 お腹が痛くなるまで笑い合って、目に嬉し涙が堪ったところで、颯太は呼吸を整えた。

 恐怖も覚悟の後押しとばかりに、颯太の靴が船を跨いだ。

 揺られる船上から、颯太は体を前に突き出す。

「それじゃあ、今度こそ行ってくるよ。また此処に返ってくる時は、アリシアも一緒だから」

 みつ姉に、朋絵や陸人、それにアリシアを無事を願う人たちに向かって、颯太は堂々と言い切った。

『行ってらっしゃい! 颯太!』

「行ってきます!」

 町中の人たちが、颯太に手を振り、それに振り返す。名残惜しさを覚えながらも、颯太は漁船の真ん中へ進んでいく。

「しっかし、本当にこのウミワタリの伝承が宛になるんだろうな、えぇ? 颯太よ」

 出航に向けて準備の最中、ゲンさんが怪訝そうな顔をして問いかけた。それは当然の疑問であり、颯太もこれがアリシアを救う方法だという絶対の確信はなかった。けれど、

「確証はないよ。でも、あの伝承の二人と、俺たちが似てたんだ」

「それだけか?」

「うん。それだけ」

 少女が空が降ってきたことは、アリシアが天界を越えてこの町の空に落ちてきたこと。

 少女と漁師が出会って、その日常が豊かになったことは、颯太がアリシアと出会って毎日が彩られたこと。

 颯太と漁師が似ているというより、伝承の少女とアリシアが酷似していると颯太は感じたのだ。ひょっとしたら、その少女も天使だったかもしれない。

 ただ一つ。ウミワタリの伝承と自分たちが違うのは――結末だ。

 颯太とアリシアは必ず皆の元に帰る。それを強く、己の胸に言い聞かせた。

「お前も、爺さん譲りで大胆だな。もっとこう、慎重に動く子だとばかり思ってんだがよ」

 これはきっと褒めていないだろう。

 なのに、颯太は不覚にも笑ってしまった。

「俺にとっちゃ、最高の誉め言葉だな」

 世界一尊敬する人と同じように見られている気がして、最高の気分だった。

「へっ。いい面になってきたじゃねえか。その調子でウミワタリも頼むぜ、颯太」

「あぁ! 任せてよ」

 強く背中を叩かれても、颯太の体はよろけず受け止めた。

「颯太! そろそろ出航するよ。到着予定時間は十五分後。覚悟、決まってるよね」

「当然! いつでも出航していいよ」

 晴彦の呼びかけに、颯太は自信に満ちた顔で応えた。

 船を止めていたロープが外れて、エンジン音が上がった。

 ウミワタリ最終日。その最期を飾る行事―― 

 ウミワタリが幕を上げた。

「アリシア――必ず、キミを取り戻す」

 海風を斬りながら、船は進んでいく。



 ―― 5 ―― 


side颯太


 今宵は満月。さらには満天の星空だ。

 凪、と呼ばれる状態に近い海に、船員たちは険しい顔をしていた。

「もし危険だと判断したら、俺たちはお前を止めるからな。例え、これが嬢ちゃんを助けられる可能性だとしても、だ。俺たちの役目は、お前の安全を確保することだからな」

「分かってるよ、そのくらい」

「……ならいいが」

 睥睨する一人の漁師に、颯太は顎を深く引いて頷く。

「そろそろ、ポイントに到着するけど、何か思い残すことある?」

「それ、まるで俺が死ぬみたいじゃん」

 晴彦が顔を覗かせると、物騒な問いかけをしてくる。

「実際、これは死にかけるからね。だから、これだけ大勢の大人たちが船に乗ってるんだ」

 この船に乗っている船員は全部で十五人ほど。確かに、普通の漁にこれだけの人数はまずない。役に選ばれるのが子どもだけあって、大人たちは常に緊迫した雰囲気だった。

「無理はしないし、それに、俺は何もアリシアを助ける為だけにこの役を陸人から譲ってもらったんじゃないよ。ちゃんと、この役に与えられた仕事を果たすつもり」

「……本当に、このウミワタリでアリシアちゃんに会えるのか?」

 それは出向前にゲンさんに聞かれたことだった。それには答えたつもりだが、やはり晴彦は半信半疑らしい。

 それは同じだ。絶対に会える、なんて何度も言うが確証はない。

 それでも、

「俺は、もう迷わないって決めたんだ。足を止めても、そこには何もないから。だから。どんな小さな可能性だって、あるなら前に進みたい。これが、俺にそう教えたくれたように」

「羽根、か?」

「うん。あの時、届かなかった俺が唯一掴めたもの」

 手に握っていたのは、アリシアが抜けた一枚の羽根だ。不思議と、この羽根を持っていると勇気が湧いてくる気がした。

「アリシアが待ってる……そんな気がする。だから行くんだ」

「そっか。それなら、俺たちは全力でお前を協力するよ」

「ん。頼むよ、晴彦さん」

 話し終えると、タイミングを見張らからっていたようにゲンさんが大声で叫んだ。

「おい! 颯太、そろそろ時間だ! 飛び込む準備、出来るんだろうな⁉」

「大丈夫! いつでも行ける!」

「ならよし! お前の爺さんみたいに、カッコよく飛んでくれよ!」

「ん⁉」

 何か聞き捨てならない単語があった気がして、颯太の耳がピクリと動いた。そんな颯太の反応に、ゲンさんは「なんだよ?」と眉を寄せて、

「知らなかったのか。お前の爺さん……勝也さんはウミワタリ経験者だったぞ」

「知ってたら驚かないでしょ……」

 目を白黒させる颯太に、晴彦がさらに続けた。

「それだけじゃない。ここに居る全員、ウミワタリの経験者だよ」

「そうだったんだ」

 ウミワタリに乗る乗員が毎年決まった顔ブレなのはそういう理由だったらしい。

「だから、安心して行ってこい――颯太」

「あぁ! 行って来る!」

 最後に晴彦から想いのバトンを受け取り、颯太はいよいよ一歩目を踏み出して――

「おい、ちょっと待て」

 一人が颯太に腕を伸ばして制止させた。

 海が光る十秒前にして、突然、海が荒れ始めた。

 何人かの船員はよろけたり、転びそうなほど、揺れが強くなっていく。

「まるで、海が俺を拒んでるみたいだ」

 船が左右に揺られて、颯太も堪らず膝を突いた。

「おい、これは危険だ。一度様子を見て……」

「いや、大丈夫!」

 揺れる船上で、颯太は着いた膝を上げた。顔には無意識に笑みが零れて、心臓の鼓動が五月蠅かった。

 そんな颯太に、大声の叱責が飛ぶ。

「馬鹿野郎! さっきも言ったろうが! 危険と判断したらすぐに中止するって……」

「大丈夫! だって、海は俺の味方だから」

「何訳分からんことを……」

 けれど、漁師の制止した声が止まった。そして、何か悟ったような口ぶりで言う。

「その言葉、勝也さんの言葉か」

「あぁ。爺ちゃんの言葉。爺ちゃんはいつだって嘘はつかなかった。だから、海は俺の味方だって信じてる」

 その瞳に、迷いも躊躇いは欠片もない。

 そして、高らかに叫んだ。海に向かって、堂々と、自分の名を。

 すぅ――。

「俺は宮地颯太! 宮地悟と宮地由依の息子で、宮地勝也の孫だ――ッ!」

 海が、淡い燐光を放っていく。翠に光る夜の海は、なんとも幻想的だった。

「待ってろ! アリシア‼」

 そして、船板を力強く蹴り上げた。

『いけぇ! ――――――颯太‼』

 船にいる全員の声と、遠くから聞こえてくるみつ姉たちの声に、颯太の背中は押される。まるで、羽が生えたように、颯太は夜空と翠の海を飛んだ。

「うおお―――――ッ‼」

 刹那。光が、颯太を呑み込んだ。 



 ――  6 ――


side颯太 


 ――暗闇の世界。体に重力を感じず、ただ、漂っている感覚だけあった。

 何も、聞こえない。

 何も、感じない。

 ――あぁ。俺、死んだのかな。

 人って、こんなに呆気なく死ぬのか。そう思った。

 死んだら、自分はどうなるのだろう。天国に行くのか。地獄に行くのか。それとも、今のように漂っているだけなのか。

 天国に行けるならせめて、彼女を一目だけでも……。

 そんな思考に、ぽつりと、何かが落ちた感覚が広がった。

 ――ん。

 声が、した。

 ――さん。

 それは少しずつ、意識を覚醒させていく。

 ――ソウタさん。

 ――分かってるよ。今、起きるから。

 誰かが呼んでいた。その声が、ずっと颯太が求めていた声で。

 聞くだけで愛しさが込み上がって、大切だと思う感情が溢れ出していく。

 そう思うのは、世界でたった一人だけだった。

「ソウタさん! ……ソウタさん‼」

 混濁した意識が覚醒を迎え、その視界は朧げに涙を流す少女を捉えた。

 切羽詰まった顔の天使――アリシアに、颯太はゆっくりと手を伸ばし、その頬に触れた。

「――そんなに何度も呼ばなくても、アリシアの声なら、ちゃんと聞こえてるよ」

「よかった……目を覚ましてくれて」

 いつかの日と真逆だな、と内心で呟きながら、颯太は小さく笑った。

「一か八かの賭けだったけど、成功してよかった」

「バカ! なんでこんな所まで来ちゃうんですか⁉」

 叱責するアリシアは本気で怒っていた。そんな彼女に、颯太は「そりゃ」と置いて、

「あんな顔見せられて、素直に引き下がる男はいないでしょ」

「だからって……こんな無茶しなくてもいいじゃないですか!」

「他に方法が無かったんだよ……」

 時間的に残された猶予を鑑みた、たった一度きりの挑戦。これを逃せば、アリシアと再会を果たすことは絶たれていたに違いない。

 その賭けとは――

「それで、今更だけど、此処どこ?」

 アリシアの後ろに見える世界が言及するのを忘れさせ、颯太は体を起こしながらアリシアに訊ねる。

「ここはですね……」

「天界と地球の狭間だ」

 アリシアが答えようとした瞬間、そこに低い声が割って入った。

 アリシアの代わりに答えたのは、颯太も因縁深い天使――

「お前、あの時の……アホエト」

「アムネトだ⁉ ……まったく、これだから人間は苦手なのだ」 

 深々と吐息するアムネト。その顔には厄介な乱入者が来たと書かれているのが分った。

「えーと、天界と地球の狭間ってことはつまり?」

「説明すれば長くなりますが、要約すれば、二つの世界を繋ぐ廊下のようなものです」

「おぉ。凄い分かりやすい。成長したね、アリシア」

「えへんっ」

 あのアリシアがこれまでになく分かりやすく説明してくれたことに感慨深さが滲み出したが、颯太はその説明を受けて周囲を見渡した。

 鏡のような水面に、目を覆う程の星々がくるくると回っていた。

「なるほど。だから、こんな幻想的なのか」

「ね、素敵ですよね」

 アリシアがにこりと頷いて同調する。

「ええい⁉ 二人だけの空間に浸るな!」

「なんだ、嫉妬か?」

「ふ、ふざけるな⁉」

 どうやら図星だったらしい。にやつく颯太にアムネトはますます機嫌を悪くしてしまう。

「だいたい! 人間が神聖な我ら天使と関わりを持つこと自体が硬く法で禁じられているのだ! アリシア様は広く心お優しい性格であるから貴様なんぞと懇意にしていただけだ! そもそも! ただの人間で特別な力を持たない貴様が、なぜ、この次元に渡ることが出来たのだ⁉」

 ぜぇぜぇ、と息を荒くしながらアムネトは颯太を指さした。おそらく、彼の疑問はアリシアも抱いているのだろう。この世界に渡れた原理。それは奇跡でしかないが。

 それを説明するのに考えていると、アリシアが珍しく険しい表情を見せていた。

「アムネト」

 たった一言。彼の名前を呼んだけにもかかわらず、直後、アムネトと颯太の顔が強張った。

「貴方の疑問も分かりますが、まずはソウタさんの安全が最優先のはずでしょう。貴方の言葉通り、ソウタさんはただの人間です。その人間が、この空間に居続ければ、その体に何の影響が出るかは分かりません。ならば、知的好奇心よりも天使としての使命を果たすべきではないのですか?」

「も、申し訳ありません⁉」

 威厳。それに近しい圧を醸すアリシアに、アムネトはたちまち委縮した。確か立場はアムネトの方が高いそうだが、これを見ればアリシアが如何に天使として高位ある存在だったかが分かる。

 そんな彼女がどうして罪を犯したのか、気になって仕方がないが、今は胸にしまい込んだ。

 いつか、アリシアから話してくれるまで待つと決めているから。

 数秒の回想から戻り、颯太はアリシアが懸念していることに触れた。

「アリシア。この空間が俺に影響を与えてるかもしれないって言ってたけど……もしかして、実はもう死んでるの?」

「いいえ。ちゃんと生きてますよ。まだ……」

「まだ⁉ え、俺死ぬの?」

「それも含めて、これからある方が全てを決定しに来ます」

 先程から、アリシアはどうも表情が硬かった。見れば、アムネトも落ち着きがなかった。

 颯太だけ状況に付いて行けてない颯太に、アリシアは体をしゃがませると、

「立てますか? ソウタさん」

「あぁ。ちょっとふらつくけど、立てるよ」

「では、立ってください。あ、体が苦しかったら、手を引きましょうか?」

「いや、そこまで心配しなくても平気だよ」

 心配そうに見つめるアリシアに、空元気で答えた。

 立ち上がってから一、二分ほどか。突然、空間が大きく歪み出した。

『――よもや、一度ならず二度も禁忌を犯すとはな、アリシアよ』

 何処からともなく聞こえてくる声がアリシアを糾弾した。それに顔を歪めながらもジッと耐えたアリシアに代わって、颯太が反論しようとした瞬間だった。口が動かなかった。

 体が勝手に反応したのだ。この相手に下手な真似をすれば、命が容易く消えると。

 それにとって人間は疎か、アリシアやアムネトの天使たちですら、己の足元に足る者ではないだろう。全ての生命が、それの手平の上。

 そこに現れたのは、まさしく威厳を体現化した存在だった。

「――神様」

「に最も近しい存在――〝天帝様〟です」

 無意識下に漏れた単語を拾ったのは、隣に立つアリシアだった。

「もう分かっていると思いますが、ソウタさん。くれぐれも、慎重に言葉を選んでください」

「だろうね」

 小声で忠告するアリシアに、颯太は生唾を呑み込んだ。あれに冗談を言う気にはなれないし、そもそも動いていいのかすら分からなかった。

 そうやって身構えている二人とは対極に、アムネトはその雄々しい翼を畳んで凛然とした声音を上げた。

「天帝様。お忙しい最中に申し訳ありません。そして、来ていただいた事へ感謝申し上げます。この度は、私ではとても手に負えぬ事態故、天帝様に助力して頂きたくお呼びしました」

 先程とは打って変わって静粛なアムネト。おそらく、これが本来のアムネトの姿なのだろう。

『それは一向に構わん。が、何故、この場に人間がいる?』

「それは……私にとっても不測の事態でして……」

 言及されて言葉に詰まるアムネト。そんな彼に代わって、颯太は生唾を呑み込んで一歩前に出た。

「アリシアに、もう一度会って話がしたくて来たんです。だから、アリシアとアムネトは何も悪くありません。責任を問うなら俺にあります」

『……ほう。罪科を持つ天使に、もう一度会うために命を投げ捨てるとはな』

「それが俺の覚悟です」

 躊躇いなく言うと、天帝が厳かに顎を引いた。

『なるほど興味深い。が、未だ、理解できぬな。貴様、どうやってこの場へ来れた? アムネト、貴様まさか、天門を開いたまま戻ったわけではあるまいな?』

「そ、そんな失敗は犯しません! 確かに、天門は閉じました!」

『ならば何故だ?』

 神に最も近しい存在といえど、全知全能ではないらしい。そして、それは初めにアリシアとアムネトが疑問を抱いていたものでもあった。

『答えよ、人間』

 天帝から投げかけられた問に、颯太は呼吸を整えて答えていく。

「俺の住んでる町に、伝承があるんです。三百年前から続く伝承で、それにはアリシアと似た女性のことが語られていました。彼女は空から降ってきて、そして、死の間際に海が光を放った。それ以来、その海では毎年その日に海が光るようになったんです」

 それまでは、海が光るのは自然現象だと決めつけていた。けれど今、こうしてあのウミワタリの海に飛び込んだから分かった。

「俺はこれまでずっと、海が光るのは奇跡でも特別な力でもない。自然の現象だって決めつけてた。でも、今日ようやく分かったんだ」

『ほう、何を?』

「この海は……女性はずっと待ってたんだ。何も見えない真っ暗な世界で、誰かが自分たちを見つけてくれるのをずっと待ってたんだ」

 そして見つけたのだ。アリシアを。

 三百年前の伝説となった二人、女性と漁師の残滓を。

『それだけの可能性で、貴様はこの空間に来れたと』

「いいえ。俺だけの力じゃありません」

 天帝が結論を出すも、颯太はすぐに否定した。

 一人だけで辿り着ける道のりではなかった。決して。

「俺を信じてくれて、アリシアを助ける為に沢山の人たちが俺に力を貸してくれました。俺の背中を押してくれる友達がいました。信じて送り出してくれた姉がいました。何よりも、海が、俺の味方をしてくれたから、この場所に辿り着けたんです」

 多くの想いが一つに結ばれたからこそ、颯太はアリシアの隣に立っているのだと、そう思っている。

「だから此処に辿り着けたのは、皆の願いが生んだ――奇跡です」

 颯太自身の想い。町の皆の想い。三百年前の二人の願い。海が味方してくれた奇跡。何か一つでもここから欠けていたのなら、此処には立てていなかった。

 奇跡を語る人間に、天帝の声音はどこか愉快そうに言った。

『天帝を前に奇跡を語るか』

「はい」

 颯太は躊躇なく肯定する。

 天帝は一拍間を空けたあと、

『貴様が奇跡を手繰り寄せて辿り着いたことは称賛に値しよう。だが、貴様が救いたいと願う天使の処遇が何一つ覆されることはない。その紋章が刻み込まれている限り、アリシアは咎者だ。それ故に消滅は免れない』

「――っ」

 酷薄に告げた天帝に、颯太は顔を歪ませた。

 天帝の言葉。それは天界の法であり、この場の権力者ゆえの決定権だ。天帝は自らの世界の法を以てこの場の全員を抑圧させる。

「なら……」

 そんな絶対な権力者を前に、颯太は声を振り絞った。

「アリシアがどう足掻いても死ぬ運命だっていうなら、彼女に選択権下さい」

『なに?』

「貴様⁉ 天帝様の前で何を不躾なことを……ッ」

 ソウタ以外の全員が驚愕した。アリシアとアムネトからすれば顔面蒼白な要求だろうが、荒れる海にダイブすると既に腹を括ってあった颯太からすればこんなお願いごと今更だった。

 そして三者の中で最も早く冷静に返したのは、やはり天帝だった。

『どういうことだ、人間?』

 聞くだけ聞くつもりか、ならばと颯太は言い分を始めた。

「アリシアの魂は、元々天界で消滅するはずだったんですよね。でも、その魂は消滅を免れて、地球に着いてしまった。それはただの偶然かもしれない……それでも、アリシアが地球で生きていたっていう事実は変わらないはずだ」

『なるほど』

 どうやら天帝は、颯太の言いたい事を理解したらしい。さすがは神に最も近しい存在。その慧眼には脱帽する。

 心が見透かされているのならもう、躊躇うことはなかった。

「なら、アリシアはもう、天使じゃなくて人間だ」

 颯太はアリシアをどんな手段でも助けると決めた。例えそれが、彼女を穢すことになっても。覚悟は出来ている。

「人間の権利を奪うことは、誰にもできない。それが例え、神様であってもだ」

『つまり貴様は、天使という存在からアリシアを堕天させようという事か』

「はい」

「貴様ッ、いい加減にしろ‼」

 颯太の暴論に、アムネトが堪え切れず怒号を上げた。天使である彼ならば当然の怒りだ。颯太がすることは、天使からその誇りを奪うことなのだから。

『控えろ、アムネト』

「ですがッ」

『お前の出る幕ではない。貴様ではもはや、この事態は対処不能だ』

「ッ」

 天帝の慈悲のない戦力外通告を告げられ、アムネトはその顔を屈辱に歪めた。その気持ちだけは痛いほど分かりながらも、颯太はアムネトに視線を向けることはしなかった。

 そうして、天帝と颯太は一対一になった。

 真正面から向かい合う天帝の圧は、かつてないほど膨れ上がっていた。気を引き締めていなければ一瞬で意識が駆られそうになる。

『分かっているのか、人間。それが如何に罪科であるかのか』

「そうじゃなきゃ、こんな馬鹿げたこと言いません」

 覚悟はとっくにできていた。アリシアから天使という冠を剥奪しようとしているのだ。それに罪がないほうがおかしい。

 望むのはアリシアの命。対価は自分。

「そんなの嫌です!」

「……アリシア」

 それまで、ずっと我慢していたアリシアが、激情を露にするように叫んだ。

 振り向けば、アリシアの目が雫で潤んでいて。

「私が生きて、ソウタさんが居ない世界なんて嫌です! アナタがいない世界で、私はどうやって生きればいいんですか?」

「みつ姉たちがいるよ」

「嫌です。私は、ソウタさんと一緒に居たい。アナタの傍に居たいんです!」

「ごめん。でも、なにが何でも、アリシアを助けるって決めたから」

 アリシアが手を掴んだ。握られる手の温もりはまるで彼女の感情を伝えるようだった。その熱に、胸が締め付けられる。

『貴様ら、何を勘違いしている』

「「え?」」

 二人の会話に、痺れを切らしたように天帝が声を出した。

「何って……アリシアを助ける為に俺の命が必要なんじゃ……」

『人間一人の命で、天使の罪科が無罪になるはずがないだろう。己惚れるな』

「それじゃあ……」

『人間よ。貴様の願い通り、アリシアに選択肢をやろう』

 天帝の手から、二つの光が伸びた。それはアリシアの左右に止まり、球体となって浮遊した。

『一つは、背負った罪科とともに天使として消滅するか』

 そして、

『もう一つは、天使としてではなく、罪科を背負ったまま人間として生き、生涯を真っ当するか』

「――――」

 それは、アリシアにとって究極の選択だろう。

 天使としての矜持と誇りを抱いたまま死ぬか、堕天し人間として死ぬかの二択。

 けれど、アリシアは迷わなかった。

「私の答えはもう決まっています」

 アリシアが手を伸ばしたのは――

「私が天使でなくなろうと、きっと、私の大切な人はそれを受け入れてくれる」

 伸ばした手が、燐光に触れた。天帝は、沈黙のままその決断を見守っていた。

「私は、もうずっと前から、この人と一緒に生きたかった」

 そして、アリシアが振り向いた。

「こんな私でも、好きなってくれますか? ソウタさん」

 振り向き、満開の笑顔を見せるアリシア。

 そして、颯太の答えも決まっていた。だから、一歩大きく踏み出して――アリシアを抱きしめた。


「当たり前だ。俺も、キミが好きだ。天使じゃなく、アリシアが好きだ」


 あの日、できなかった告白を、ようやく言えた。


「私も、アナタが大好きです」


 強く、愛しい少女を抱きしめた。そして、少女もまた涙を流しながら抱きしめ返した。 

『決まったな』

 二人の行く末を見届けた天帝が、小さく吐息した。

『貴様は、アリシアから天使の冠を奪った罪を、

 アリシアは、天界での罪科を背負ったまま、

 共に地球で生きていくがよい』

 二人はそっと離れていき、そして手を繋ぎながら天帝と向かい合った。

「ありがとうございます。天帝様」

『感謝されるいわれはない』

 頭を深く下げるアリシア。ソウタもまた深く頭を下げた。

「それでも言わせてください。それから、俺は必ず、アリシアを幸せにします」

『――うむ』

 これからどんな困難が待ち受けようとも、アリシアと乗り越えられる。そう思えた。

『貴様……名は?』

「宮地颯太です」

『ソウタ、か。……ふむ、覚えておこう』

 アリシアたちが崇める存在に名を覚えられるのは流石に驚愕だ。思わず、頬が引きずった。

『そろそろ時間だ。いつまでもこの空間にいては、ソウタの肉体が維持できなくなる』

 天帝の姿が霞出した。どうやら、天帝も天界に帰るようだ。

『ソウタよ。これからお前がどんな未来を紡いでいくのか、楽しみに見守っているぞ』

「ッ! はい!」

 最後にそんなメッセージをくれて、天帝の姿は完全に消えた。

「言っておくが、私はお前を認めないからな、人間――いや、ミヤジ・ソウタ」

「あぁ。だったらお前も地球に遊びに来いよ。俺とアリシアはいつでも歓迎して迎えるから」

「ふんっ」

 不貞腐った顔をしながら、アムネトは天帝の後を追うように消えた。

 そして、最後に残ったのは颯太とアリシアだけだ。

「それじゃあ、俺たちも帰ろうか。皆の所に」

「はいっ。帰りましょう」

 手を繋いで、その温もりを感じ合う。生涯、忘れることないこの思い出と共に。

 歩く先は真っ暗な闇の中。それなのに、二人は微笑んだままだった。

 怖くはない。二人だから。

 躊躇いもない。皆が待ってるから。

 この暗闇の先に、未来があると信じて、二人は歩き続けた。

 この物語の結末は――。



 ――  7 ――


『8月16日』


「おい。もう十分だぞ。これ、救出しに行った方がよくねぇか」

「そうですね。海に飛び込んでから、一回も息継ぎの浮上がない。もしかして、中で何かあったのかも……」

 ゲンと晴彦は翠色に輝く海を見つめながら、険しい表情をしていた。船内にも、緊迫が走り続けていた。

 流石に二人は我慢しきれず、救出の準備に取り掛かろうと――した瞬間、怒号が轟いた。

「馬鹿野郎! 大人の俺らが、子ども信用しないでどうすんだ!」

「おまぇ、さっきと言ってることがちげぇじゃねぇか⁉」

 危険だと判断したらすぐに中止する。その約束を自ら反故したことにゲンが反論した。

 胸倉を掴むゲンに、船員――ショウヘイは鷹の目のような鋭い視線を向けた。

「おめぇ。何も分かっちゃいねぇな」

「何だと⁉」

 今にも殴ろうとするゲンに、カツキは言った。

「颯太の目、ちゃんと見てなかったのか」

「どういうことだよ?」

 訳が分からないと困惑するゲンに、ショウヘイはフッと笑った。

「あいつの目。ウミワタリをやった時の勝也さんと同じだった」

「何が言いてぇんだよ?」

 ショウヘイは何かを核心したように、船内の全員に向けて言ってやったのだ。

「つまり、あいつは必ず帰ってくる。必ずな。――ほら、」

 顎をくいっと引いて、ゲンは視線を海に落とした。

「まさか……っ!」

 ゲンは船から落ちそうなほど身を乗り出して、それを見た。

 翠色に輝く海。そこに、黒い何かが蠢いた。しかも二つ。

「本当に、やりやがったッ……颯太の野郎ッ」

 ゲンの瞳から熱い雫が零れた。大粒でボロボロと零れていく。その肩を、晴彦とショウヘイが叩いた。

「「ぷっはぁ―――――ッ‼」」

 海面から顔を出したのは、颯太ともう一人。白銀の天使――少女だ。

「ただいま、皆! 約束通り、アリシア連れて帰って来たよ!」

「皆さん! お騒がしました! ただいま帰りました!」

 約束を果たして帰って来た少年と、その横で満面の笑みを魅せる少女。

 こうして、今年のウミワタリは幕を閉じた。そして、その長い歴史に新たな一ページが刻まれたのだった。


           ―― Fin ――






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