第三章 『 きっと、誰の心にも痛みがあって 』
―― 1 ――
side颯太
「わっとと! ……釣れてます! 釣れてますよ、ソウタさん!」
「よし。そのままリールを巻いて。そう、その調子」
左右に揺れる竿を両腕で押さえながら、アリシアはソウタの指示通りリールを巻いていく。額に滲む汗が頬を伝って地面に落ちて、心臓は興奮でバクバクだ。
「えい、こうだ! ほっ……よっ――とぉぉ‼」
なんとも可愛らしい掛け声と同時に、アリシアは段々と濃くなっていく魚影に舌を舐めずる。そして、最後は力一杯引っ張り上げた。
水飛沫を上げながら、魚は宙を舞った。
「やったぁ! 釣れました! 釣れましたよ、ソウタさん!」
「おめでとう。初めての釣りでよく立派なやつ釣ったね」
「えへへー。ありがとうございます」
褒められてにやけるアリシア。釣れた感動と称賛で、嬉しさは二倍だ。
アリシアは自分が釣り上げた感動に浸りながら、ぴちぴちと跳ねる魚に近づいた。
「このお魚さん、お名前は何と言うんですか?」
「あぁ、こいつはイシモチっていうんだ。この漁港で釣れる魚の中で一番美味い」
「そうなんですね……あの、ソウタさん」
「? どうした?」
「このお魚さん、お家では飼えないんですか」
イシモチの口に引っ掛かる針を取り除いている颯太に、アリシアはそんな質問をした。
初めて釣れた魚だから、なのか妙な愛着が湧いてしまったのだ。宮地家の玄関に置かれた巨大な水槽ならもしかしたら、とアリシアは提案したもの、颯太は難しい顔で首を横に振った。
「飼育できる手段は、あるかないかで言えばあるよ。でも、残念だけど、こいつを家の水槽で飼うことは出来ないんだ」
「どうしてですか?」
食い下がるアリシア。ソウタはイシモチをバケツに入れながら続けた。
「魚にも、〝住める場所〟っていうものがあるんだ。こいつは海水……用は、塩が含まれた水じゃなきゃ生きていけないんだ。家の水槽は淡水魚用のもので、塩が入ってない水なんだ。だから、こいつを入れると水槽には馴染めくて、数日で死んじゃう」
「そんな」
ソウタの説明に、アリシアは胸を締め付けられる。
「それにほら、こいつは元気だってないだろ」
「ホントだ」
バケツを覗き込んで、アリシアはこくりと頷いた。
バケツに入れた直後、お魚はひっくり返ってしまっていた。数秒して元に戻ったものの、動きはアリシアが釣り上げた時ほどの活きの良さは感じられない。ゆらゆらとヒレを揺らして、ただバケツをくるくる回っている。
「たぶん、このままバケツに入れても家に持ち帰る頃には死んでると思う」
「――――」
言い難い複雑な感情に、アリシアはどんな顔をすればいいか分からなくなった。
釣れた嬉しさは勿論あるが、その分、釣れてしまった魚に申し訳ない気持ちになってしまう。もし、自分が釣り上げなければ、今頃悠々と海中を泳ぎ回っていたのだろう。そう思うと、釣れた感動も味わえなくなってしまった。
そんな露骨に落ち込むアリシアを見かねてなのか、ソウタは朗らかな声で「そんな暗い顔しないでいいから」と励ます。
「アリシアは何に対しても優しいからさ。落ち込む気持ちも理解できるよ。きっと、釣らなければよかった、って今思ってるんでしょ」
「……はい」
見透かされたように心情を読まれて、アリシアはびくりと肩を振るわせた。
「だからこそ、俺はそんなアリシアには落ち込んでほしくないんだ。アリシアがこの魚を釣って落ち込んだら、こいつだって報われない。釣ったなら、ちゃんと責任を持って食べてあげよう」
「それが、このお魚さんにとっても報われること、なんでしょうか」
「うん。釣られた魚の役割は、人の血肉になり、生きる活力を与えることだから」
ソウタの言葉が身に染みて、アリシアは力強く頷く。
「分かりました。命に感謝して食べる。それが、生きるということですよね」
「そうだね。俺たち人間は、そうやって生きてるんだ」
「――――」
人間、そう答えたソウタに、アリシアは昏い影を落とす。
自分は、人間ではない。人間の真似事をしている――天使なのだ。
「アリシア? どうかした?」
「い、いえ。なんでもありません」
見ればソウタが訝し気に眉を寄せていた。アリシアは胸裏に渦巻いた雑念を振り払って笑みを作った。それから、またバケツを覗き込む。
「ありがとうございます。イシモチさん」
ぺこりと、アリシアはバケツを泳ぐイシモチに感謝の気持ちを込めて頭を下げた。心なしか、イシモチが満足そうな顔をしているように見えた。
「よし、こいつは家に持ち帰って、ちゃんと食べてあげようか」
「はい!」
胸裏の感情もソウタの言葉で霧散して、アリシアは力強く頷いた。
――ソウタはこうやって、生物の命の尊さを、実践を教えてくれる。
他の生物を殺して、そして食べる。残酷だけれど、この世界ではそれが生きる為の常識なのだ。そして、アリシアも今はその常識の渦中にいる。
ならば俄然、命の大切さはより深く身に沁み訳で。
「ソウタさん。いつも私に色々教えてくれてありがとう……」
ございます、そう言いかけて振り返ると、アリシアの表情が固まった。
「いやぁ。俺も今日は大漁だったし、晩御飯は刺身やら煮つけで豪華になりそうだなぁ。そうだ、久々にみつ姉も呼ぼうかな」
ソウタはご満悦げに、魚が大量に入ったクーラーボックスを叩いて晴天を見上げていた。
「私の気持ちを返してくれませんか⁉」
「うおっ。どうしたんだよ急に大きな声出して……」
「知りません⁉」
不服気に、ぷいっと頬を膨らませたアリシアに、ソウタは訳が分からず首を捻った。
命の大切について真面目な空気が漂っていたはずなのに、ソウタのせいでそれが霧散されてしまった。おかげで、感謝の気持ちもでどこかへ消えてしまった。まぁ、今晩の夕食が新鮮な魚料理なのはアリシアも楽しみだが。
「さてと、念願の魚が釣れたことだけど、どうする? もう一匹くらい釣ってから帰る?」
ソウタの提案に、アリシアは「いえ」と首を横に振った。
「今日はもう満足です。それに、このお魚さんが釣れた嬉しさを忘れたくありません。なので、今日はもう帰りたいです」
「ん。了解。じゃあ、帰り支度始めようか」
「はい」
初めて釣れたイシモチをソウタのクーラーボックスに預け、アリシアは身支度を整える。
「ういしょっと」
「あ、こっちは私が持ちますね」
「ん」
大きめの荷物はソウタが持ち、アリシアは竿の入ったショルダーを肩に担ぐ。
帰路を並んで歩いていると、ソウタが突然「それにしても」と話題を切り出した。
「この前は本当に焦ったわ。まさか、アリシアが俺に何も言わず出て行くなんて」
「うっ」とアリシアは思わず呻き声を漏らした。
「その件については、本当にごめんなさい。まさか、メモした紙を部屋に置き忘れたなんて……そのせいで、ソウタさんに余計な面倒をかけてしまいましたよね」
「まぁ、ここら辺をざっと一周するくらいは」
「うぅ。ホントにごめんなさい」
顔を羞恥心に染めて、アリシアは頭を下げた。
数日前。トモエとソウタが話し合った日のことは、アリシアも事の顛末は全部聞いていなかった。それに、こうして話題にしてくれたのも初めてだった。
「トモエさんから、ソウタさんと大事な話がしたいから二人きりになりたいとお願いされたんです」
「それっていつ? 俺、基本的にいつもアリシアと一緒にいたはずだけど」
思い当たる節がないソウタに、アリシアは顎に人差し指を当てて思い出す。
「えーと、確か、ソウタさんがお庭の手入れをしてた時だったと思います」
「あの時か……」
どうやらすぐに思い出したようで、ソウタは悔し気に眉間に皺を寄せた。
「念入りな相談は翌日に電話からトモエさんから窺ったんですけど……その、お恥ずかしい話、トモエさんからお礼に「学校見学させてあげる」と言われまして……」
「それが嬉しくて、ついうっかりやらかしてしまったと」
「その通りです」
語尻が弱くなったところをソウタが答えて、アリシアはしゅんと項垂れてしまう。
見返りは期待していなかったが、前々から興味があった学校という場所を見学させてくれるという条件につい飛び掛かってしまったのだ。それこそ、餌を見つけた魚の如く。
そして、問題の当日。アリシアのうっかりミスにより、ソウタは潮風町を半周走り回り、トモエは想定した時間より一時間も長く倉庫に閉じこもってしまった訳だ。
二人とも無事話し合いは果たせたようだが、過程を切り取ればアリシアは中々の失態をしてしまった。
「それで、念願だった学校見学は楽しかった?」
「はい! それはもう、とても楽しかったです! リクトさんもご親切にしてくれて……最初は少し怖かったですけど」
「よし、あいつをぶん殴ろう」
「急にどうしたんですかソウタさん⁉」
突然拳を硬く握り締めたソウタにアリシアは驚愕。それからどうにか誤解を解き、ソウタの拳がリクトに炸裂することはなくなった。
「ふぅ。どうやら、今後もあいつとは友人を続けられそうだな」
「そうですよ。大切な友達なんですから、無闇に傷つけてはいけません」
「男同士ならそこから友情が芽生えるかもしれないよ」
「だとしも、です。喧嘩はいけません」
「はーい」
「ふふ。分かればいいんです」
まるで公園で遊ぶ幼稚園児みたいな返事に、アリシアはつい苦笑。ソウタも、顔は見せてくれないが同じ顔をしてると思う。
あの日から少しだけ、ソウタの表情に僅かながらも変化があった気がする。
――少しだけ、張りつめていた何かが和らいだような、そんな気がするのだ。
「――――」
「? じっと見つめてどうしたのさ。まさか、顔になにか付いてる?」
「いいえ、なんでもありません」
「む。その反応、気になるな」
悪戯に笑うアリシアに、ソウタは口を尖らせた。内緒です、内緒。そう言って、アリシアはにししと笑う。
「あーあ! お腹が空きました!」
「よし。それじゃ、家に帰ったらさっそく釣った魚でご飯でも作るかー。アリシアは何がいい?」
「はい! 煮つけが食べたいです!」
「了解。なら、刺身は夜で」
「今日はお魚さん尽くしですね!」
真っ青な晴天に、両腕を突き上げる。
二人の日常は、今日も穏やかに続いていく。
―― 2 ――
sideアリシア
家に帰る途中、アリシアは町の違和感に気付いた。
「それにしても、最近は町が賑やかな気がしますね」
きょろきょろと周囲を見渡せば、何やら大人たちが束になって話し込んでいた。よく見れば、あちらにも同じように話し込んでいる人たちを見かけた。
それに、普段は見慣れない小さなお店がちらほらとだが立っている。
そんな町の喧噪に目を瞬かせていると、ソウタは何か納得した声を出した。
「もうそんな時期か」
「? そんな時期とは?」
「祭りがあるんだよ」
「マツリ?」
どこか聞いたことがあるような単語だったが、すぐには思い出せずアリシアは小首を傾げた。
そんなアリシアに、ソウタは「簡単に説明すると」と前置きして、
「祭りっていうのは、町全体でわいわい賑わう行事のこと」
「わいわい! つまり、とっても楽しい行事ということですね、マツリというのは!」
「そうそう。そんな感じ」
楽しい行事。ならば俄然、アリシアの高揚感は膨れ上がっていく。マツリ、それを胸中で反芻すると、その響きに胸が高鳴った。
「でも、楽しい行事、といっても、具体的に何をするんですか?」
んー、と唇に人差し指を当てて想像してみる。町全体を使って開く催しだ。どんな風なのか、まったく全体像が掴めない。
脳内であれこれと想像を膨らませていると、ソウタが「色々あるんだけどね」と説明を始めた。
「祭り中は屋台が開かれるんだよ。ほら、もう何件か準備してるのが見えるのでしょ」
「はい。あれ、ヤタイ、って言うんですね」
小さなお店の正体を知り、アリシアはこくこくと頷いた。
「そうそう。んで、その屋台だけど、これからどんどん増えてくる。射的に金魚すくい、綿あめとかタコ焼きだったり……アリシアが見た事ないものが沢山並ぶんだ。この道も、当日は屋台で埋まるんじゃないかな」
「おぉ、なんて壮大なんでしょうか⁉」
ソウタの言葉でイメージがさらに膨らみ、同時に胸に期待が高まっていく。
すっかり祭りの虜になりつつあるアリシア。だが、ソウタはまだまだと言わんばかりに続けた。
「この祭りの開催期間は三日。まぁ、屋台の数は減っていくけど、でも、日程ごとで目玉の行事が変わるんだ」
「ほほぉ!」
ぴょんぴょんとアリシアは前髪を揺らした。
「一日目は、神輿担ぎ。めちゃくちゃに重い神輿を、坂の先にある組白神社まで運ぶんだ。俺もみつ姉も毎年やってたんだけど……地獄だった」
「じ、ジゴク……」
死んだ顔で笑うソウタを見て、アリシアは生唾を呑み込んだ。
「そ、それで二日目は何をするんですか?」
「あぁ、そうだね、二日目ね――次の日は、海で花火を上げるんだよ」
「ハナビ……夜空に咲く花のことですよね」
「随分とロマンチックな表現だけど、大体合ってるかな」
夕飯を待っている間に見ているニュース。そこでハナビについて取り上げられていた。実際に見てこそないものの、画面越しからでもその美しさは伝わった。そのハナビを、まさか実際に見られるとは思ってもいなかった。
「一日目におミコシ。二日目にハナビ。これだけも凄く豪勢なのに、まだ一日も残ってるんですね」
もう満腹感があるが、アリシアは気になって仕方なくソウタに先を促した。
「三日目にやるのは、この町で最も重要な行事――ウミワタリをやるんだ」
最後の行事を言葉にした時、ソウタの顔が神妙になる。
「それが三日間行われるこの祭りの名前――【ウミワタリ】だ」
「…………」
ウミワタリ、どこかで聞いたようなことがある気がしたが、すぐには思い出せなかった。
胸にもやもやを抱えながらも、アリシアはそのウミワタリとやらが何のかをソウタに訊ねた。
「それは一体、どんなことをするんですか?」
「そうだなぁ。一言でいえば、海に飛び込むんだ」
「え、飛び込む?」
ソウタの言葉を脳内で想像してみる。
「ばっしゃーん! て感じでしょうか」
ソウタはあははと笑った。
「合ってる、合ってる。毎年、決められた一人が船から飛び込むんだ」
それから、ソウタは説明してくれた。
どうやら、ウミワタリとはこの潮風町から三百年続く伝統行事らしい。
海の一年の安全を願う気願成就として、毎年一人、16歳を迎えた男子が巫姿で海に飛び込むそうだ。
「聞くところによれば、今年は陸人がその役目らしい」
「ほえぇ。リクトさんがですか」
身近な人物がその大役を担うことを知り、アリシアは思わず感嘆してしまった。
ならば、是非ともその雄姿を一目見たい。そう思うと、脳裏に何かが過った。
「ウミワタリ……あ」
もう一度、祭りの名前を声に出すと、アリシアはようやく胸の突っかかりが取れた。
「ソウタさん。そのウミワタリってもしかして、『ウミワタリの伝説』ですか?」
「そうだよ。アリシアがこの前読んでた絵本、というより伝承に近いかな、あれは」
思い出した絵本のタイトルを口にすると、ソウタはそれに小さな頷きで肯定した。
陽炎の揺れる車道に視線を落としながら、アリシアはその絵本の内容の感想を呟く。
「三百年前にこの町で起きた実話らしいですが……悲しいお話でしたよね」
これまで沢山の絵本を読んできたアリシア。その中で最も印象的だった絵本が、この『ウミワタリの伝説』だった。
『ウミワタリの伝説』それは三百年前に、この潮風町で起きた実話をもとに創られた物語だそうだ。ソウタ曰く、この町に住む子どもなら誰しも一度は読み聞かせられる絵本……というより伝承らしい。
その物語の内容は、読めば読むほど話に引き込まれ、そして、結末を知れば胸が締め付けられる。ハッピーエンドが多い絵本らしからぬ、結末はバッドエンドに近かった。
「女の子を助ける為に漁師さんは海に飛び込んで、でも、二人とも助からなかったんですよね」
「……そして、海はその日を境に翡翠色の光を放つようになった」
アリシアの感想に付け加えるように、ソウタが声の調子を落として言った。
ソウタが述べた最後の一文。アリシアは何度聞いても、気掛かりだった。
「ソウタさん。ずっと気になっているのですが、あの絵本の最期の一節、二人が海に消えた日になると光を放つとは本当なんですか?」
「あぁ。そのことね」
アリシアの疑問に、ソウタは肯定だと頷いた。
「俺も毎年見るけど、不思議だよ。本当に海が光るんだ。なんの前触れもなく、突然」
「へぇ」とアリシアは感嘆するように息を吐く。
そのまま、ソウタは饒舌に語り出した。
「一部の専門家の意見だと、色んな条件が重なって起こる現象なんじゃないか、って言われてるんだよ。海のプランクトンの活性化、月明かりと海の乱反射による偶然起こる現象。……でもさ、それだと、毎年同じ日に光るなんてありえないはずなんだよな」
真剣な顔で思案するソウタだが、アリシアにはその内容が全く理解できなかった。
そして、夢中になっているソウタの前にひょいっと覗き込んで聞いた。
「ソウタさんは、ウミワタリの伝説を信じてますか?」
「いや、これぽっちも信じてない」
意外な返答がきて、アリシアは眉根を寄せた。
「えぇ? 今、偶然じゃないって言いませんでしたっけ?」
困惑するアリシアに、ソウタは「そう言う訳じゃなくて」と手をぱたぱたと振った。
「俺が信じてないのは伝承の方ね。海が光るのは毎年呆れるくらい見てるから、そっちは信じてるよ」
伝承。つまり三百年前から伝えられた話の方だ。
「どうしてですか?」
「聞きたい?」
「気になります!」
アリシアはソウタの意見が気になって、その先を促した。すると、ソウタの声音が一段階上がった気がした。思わず、にやけてしまう。
「だってさ、人を呑み込んだ海が、現代になっても特定の日になると光り続けるって普通におかしいじゃん。そんなもん、オカルトの類だよ。だから、昔の人が、海が光る日のことを特別にしようとか思って大袈裟に話を盛ったんじゃないかなと思ってる」
オカルト、という単語の意味は分からなかったが、とにかくソウタが否定的なのは伝わった。
「なら、どうして海は毎年決まった日に光るのでしょうか?」
「俺的には、専門家の意見が正しいと思うんだよなぁ。雨の時でも光るのを見れば気象条件は関係ないんだろうけど、でも、プランクトンとか、海の乱反射はわりと近い線行ってる気がするんだよな」
「…………」
「あ、ごめん。つい夢中になってしまって」
「いえいえ。お気になさらず。ソウタさんのこんな姿見れるのが珍しくて、もっと見ていたいくらいですから」
「うっ……」
専門的な知識は理解できないけれど、釣りの時みたく何かに耽っているソウタを見るのは好きだった。表情の変化に乏しいソウタだけれど、こうして活き活きしてるのは珍しい。だから、何時まで眺めていても飽きない。
「……調子狂うなぁ」
と、アリシアに見つめられていたソウタはあからさまに顔を逸らした。それから何度か咳払いした後、ぎこちなさそうに話をまとめた。
「とにかく、俺は海が光るのは伝承じゃなくて、ちゃんとした自然現象だと思ってる。機会があれば追及してみたい気がするけど……それはこの町の人たちが望んでることじゃないからね。毎年この現象を一目見ようと他方から取材局が来るけど、この町の人たちはいい気はしてないんだよ。――この伝承を信じてるから」
「難しいですね」
「うん。すげぇ難しい」
好奇心を押し留めるソウタを見て、アリシアはその姿勢を尊敬した。自分はよく好奇心に負けてしまうからこそ、ソウタの欲求に対する自制心は見習わなければと不覚にも反省してしまう。
「まぁ、ここの海はこの先もずっと光るだろうし、チャンスがあれば一回くらい調べてもいいかもしれないね」
「そうですか。その時は是非、私も一緒にお手伝いしたいですね」
「…………」
「? どうかされました、ソウタさん」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔のソウタに、アリシアははてと小首を傾げた。
何か変なことでも言っただろうか、そう考えていると、ソウタは小さく笑って言った。
「そうだね。もし、その時がくれば、一緒に調べようか」
「はい。ご一緒に」
ソウタの笑みに釣られて、アリシアも微笑。
そしてアリシアは「ところで」と話を戻すと、
「そのウミワタリ、今年もソウタさんは観に行くんですよね?」
「そりゃあね。毎年見てるから」
ソウタはしれっと答えた。
「? 急にどうしたのさ、もぞもぞして」
「いえ、その、ですね……」
本題に触れようした途端、胸の鼓動が五月蠅くなった。
深呼吸を数度繰り返して、アリシアは意を決して問いかけた。
「よろしければ、そのウミワタリを観るの、ご一緒したいなと、そう思いまして……」
「なんだそんなことか」
呆れたように吐息するソウタに、アリシアは肩をビクッと震わせた。
やはり、ソウタはウミワタリを一人で観に行きたい――
「一緒に行くのは当たり前だろ。というか、俺は最初から今年はアリシアと一緒にいくもんだと思ってたんだけど」
「――ッ」
平然とした顔で答えるソウタ。彼がくれた返答に、アリシアの顔はたちまち熱くなってしまった。
「そ、そうですよね! 一緒に行きますよね! ヤタイも! おミコシも! ハナビも!」
「お、おう。一緒に……もしかして、別の人と行きたかった? みつ姉とか誘った方が良かった?」
「いえ! ソウタさんと一緒がいいです!」
「真顔でそんなこと言われたら調子狂うな」
みつ姉やトモエと一緒に祭りを楽しむのも素敵な提案だが、どうしてか、この祭りだけは、アリシアはソウタと一緒にいたい気持ちが強かった。
「ソウタさんと一緒に、おマツリを楽しめる……やった」
嬉しさが込み上がって、小さくガッツポーズ。
「おーい、アリシア? 何か言った?」
「なんでもありません!」
「そう……なんでもないならいいけど」
「はい。いいえ。はい」
「なんかバグったロボットみたいになってるけどホントに大丈夫なんだよね⁉ 心配になるんだけど⁉」
「本当に大丈夫ですから! 何の問題もありません! 私は元気です! さぁ、早くお家に帰りましょう!」
「っと、待ってよー、アリシア」
ぎこない態度でその場をどうにか乗り切り、アリシアはソウタに顔を見られたくない一心で速足で歩いていく。
ソウタの声が少しだけ遠くから聞こえる中、アリシアは自分の胸中に湧き上がる感情に戸惑っていた。
「もう、もうっ……トモエさんがあんなこと言うからですよ!」
あの時、トモエから言われた一言が、どうしても頭が離れなかった。
『ソウタのこと、一人の異性として、好き?』
学校探検に赴く寸前だった間際に投げかけられた、たった一言。それは、こうしてアリシアの胸中にずっと残り続けていた。
それ以来、否応なく考えてしまう。ソウタに向けるこの、温もりある感情が何なのか。
天使は未だ、自覚していなかった。胸の中に芽生えた感情の正体を。
感情の正体を掴めぬまま、天使は悶々とした時間を送る――。
―― 3 ――
sideアリシア
――悶々として、自分の感情に整理がつかない時、アリシアが毎回頼りにするのはソウタの幼馴染――優良三津奈ことみつ姉だった。
休日。みつ姉も今日は仕事がお休みということで、アリシアはみつ姉の自宅にお邪魔していた。
「みつ姉さんに折り入って相談したいことがあるんです!」
と真剣な顔つきな相談者に、みつ姉はマグカップを机に置いて目を瞬かせた。
「また、何か悩みごと?」
「はい」
こくこく、とアリシアは頷くと、みつ姉は綺麗な黒髪を耳に乗せ聞く体勢を作った。
「それで、今日はどんなお悩みなのかしら?」
「えーと、ですね……」
早速要件を求められ、アリシアは少しだけ躊躇う。一息の後、頬を朱に染めてアリシアはぎこちない口調で言った。
「最近……ソウタさんを見る度にですね、こう、胸の奥が熱くなったり、締め付けられたりするんです。前も似たようなことはあったんですけど、ここ最近は、それがもっと強くなった気がして……」
「あらあらぁ……何それもっと詳しく聞かせて頂戴⁉」
「みつ姉さん⁉ なぜ楽しそうなんですか⁉ こっちは真剣なのに⁉」
それまでの平常心がどこへ行ったのか、途端にみつ姉は鼻息を荒くして食いついた。普段はおっとりとした目が爛々と輝いていて、流石のアリシアも驚愕してしまう。
椅子ごと半歩下がるアリシアに迫るように、みつ姉は豊満な胸を押し付けてテーブルに倒れ込んだ。
「あ、圧が凄いです⁉」
「いいから、いいから! お姉さんが全部聞いてあげるから、ほら、だから早く教えて頂戴!」
「わ、分かりました! ちゃんとお話ししますから! ですから一度落ち着いてください!」
観念したアリシアは悲痛の叫びを上げた。
羞恥心に顔を真っ赤に染めたアリシアを不憫に思ったのか、みつ姉は咳払いしてするすると椅子に戻っていく。そして、申し訳なそうな顔をして手を合わせた。
「ご、ごめんね、アリシアちゃん。お姉さんたら、ようやくかと思って、ついはしゃいじゃったわ」
「……ようやく」
みつ姉の何気ない言葉。けれど、アリシアは胸騒ぎを覚える。
まるで、この感情の答えを知っているかのような口調に、アリシアは怪訝に眉を顰めた。「みつ姉さんは、知ってるんですか? 私の、このもやもやの正体を」
間髪入れず、みつ姉は頷いた。
「たぶんね。私も似た経験あるから」
肯定するも、みつ姉は答えを明かすつもりはないらしい。
眉間に皺を寄せるアリシア。そんなアリシアに、みつ姉は微笑を浮かべた。
「だーかーらー。アリシアちゃんがソウちゃんに、どうして胸が熱くなったり、締め付けられたりするようになったのか、それを詳しく聞きたいな」
「――はい」
自然と、胸中を吐露する空気が流れる。そのきっかけを極めて自然に作り出したみつ姉に胸の内で感嘆しつつ、アリシアは緊迫する心臓を落ち着かせる。
先程のやり取りのおかげで、強張っていた緊張が少しだけほぐれた気がした。
だからか、抱えていた胸襟はすっと声に出ていた。
「――きっかけは、トモエさんからの問いかけでした。ソウタさんはきっと私のことを大切に想ってる、って。けど、あなたは? と……トモエさんにソウタさんをどう想ってるのか聞かれた時、どうしてか、すぐに答えが出てこなかったんです」
「……そう」
「だから、ここ数日。ずっと考えてたんです。私にとって、ソウタさんは何なんだろう、って。――今は分かります。私も、ソウタさんは大切な人です。ソウタさんは私を救ってくれた恩人で、私なんかに居場所をくれた優しい方です。でも、あの時、すぐにその答えが出てこなかった」
初めから、アリシアとソウタの関係は決まっていたはずだった。
空から落ちた手を差し伸べてくれたあの始まりの日から、アリシアにとってソウタは命の恩人だった。そして、アリシアはソウタに恩返しがしたかった。そこにあるのは『感謝』しかないはず。それ以上の感情は、芽生えないはずなのに。
だって、自分は――。
「ソウちゃんは、アリシアちゃんにとって、とても大事な人なのね」
「――――」
みつ姉の言葉に、アリシアはただ黙って頷いた。胸中に込み上げる感情を押し殺すのに必死で、言葉がうまく出てこないせいだ。
――そうだ。ソウタさんは大事な人だ。
命を救ってくれた。居場所をくれた。世界を広げてくれた。手を差し伸べてくれた。
これまで見た風景の全部に、宮地颯太という少年がいた。
天使の傍には、いつも隣に黒髪の少年がいたのだ。
本来ならば隣にいることなど、アリシアには許されぬというのに。
「みつ姉さん。本当の私は、誰かの傍に居てはいけない存在なんです」
温もりなど、情など、罪科を持つ天使が持つべき感情ではない。
なのに、
「なのに、ソウタさんと一緒にいると、それを忘れてしまう」
ソウタがくれる居心地に、無意識に縋ってしまう自分がいた。
切なくて。もどかして。苦しくて。辛くて。――でも、それすらも愛しく感じてしまう。
この感情は、果たして何なのだ。
答えは出ない。分からない。思考を重ねるほど奥深く沈んで、気持ち悪かった。
「教えてください、みつ姉さん。この気持ちの正体を」
それは最早、相談ではなかった。これは、ただの救済だ。苦悩者が唯一、解放される為の手段でしかないもの。
アリシアは縋るような顔で答えを求めた。じっと、じっと待った。
「……アリシアちゃん。それはね」
ゆっくりと、みつ姉の指が上がっていく。それは、アリシアの左胸を指して止まった。
みつ姉は、朗らかな笑みを浮かべて――告げた。
「それは『恋』よ」
「……コイ?」
分からない。と首を横に振るアリシアに、みつ姉は微笑を浮かべながら、
「あらら、まさか恋を知らない乙女がいるなんて。これは、教えがいがありそうね」
楽しそうなみつ姉とは対極に、アリシアは依然困惑したままだ。
「いい? アリシアちゃん。恋っていうのはね、誰かを好きになること、なのよ」
誰かを好きなる。そう教えられて、アリシアはバッと顔を上げた。
「それなら、私はみつ姉さんにだってコイをしていますっ」
「あらやだ照れちゃう! ――じゃなくて、アリシアちゃんの言うそれは、恋とはまた違う感情の好き」
言及され、アリシアは己の胸にきゅっと手を握り締めた。確かに、みつ姉のことは好きだが、ソウタの時ほどの感情の起伏がなかった。
徐々に『恋』を知っていくアリシアに、みつ姉は珈琲を飲みながら続けた。
「アリシアちゃんが私に対して抱く好きは、『親愛』の意味の好き。親しかったり、友達なんかに抱く感情なのよ」
「親愛……」
「そうねぇ、アリシアちゃんは友達、皆好きでしょ?」
「はい。好きです」
アリシアは躊躇いもなく答えた。
トモエやリクト、ゲンさんや幼稚園の子どもたち……等しく、脳裏に浮かべた人たちがアリシアは好きだった。
「でもね、アリシアちゃんがソウちゃんに抱いている好きはもっと特別」
「トクベツ……」
オウム返しするアリシア。
みつ姉は愛しむような目をして続けた。
「この人にだけはこう見られたい。この人の前ではありのままの自分を見て欲しい。この人の前では恰好つけたい――この人の傍にずっと居たい。そう思うの」
「――っ!」
みつ姉の言葉に、アリシアの心臓が跳ね上がった。それは、まさしくアリシアがソウタに向ける感情そのものだと気付く。
驚愕し、困惑するアリシアに、みつ姉は訥々と続けていく。
「自分じゃどうしもないくらい、相手のことを思ってしまうのよ。それこそ四六時中ね」
「…………」
「厄介で、でも、堪らなく愛しい気持ち――」
自分の感情とは関係なく、自分を振り回す感情。それが――
「それが〝恋〟なのよ」
「これが――〝恋〟」
己の胸を強く握った。
恋を知り、理解した瞬間、アリシアの胸中を覆っていた黒い霧が晴れた気がした。
だから、鮮明になった思考で、今一度、みつ姉の言葉を反芻する。
ソウタを思う度に、彼に抱くこの感情は強くなっていった。それは、アリシアの意思とは関係なく、勝手に肥大化していった。
まさしく、みつ姉の言葉通りだった。
夏祭りに行く約束をした日、これからもずっとソウタの傍にいれたらといいと願ってしまったのは――つまり、その時からアリシアはソウタに『恋』をしていたから。
いや、ならばこの気持ちはもっと以前から――。
「ダメッ」
無意識に零れた否定。それは、脳裏に浮かぶ少年との思い出を強く拒む。
悲痛に顔を歪ませて、アリシアはみつ姉に訴えた。
「恋、というものは、同じ種族に対して抱く感情です」
過剰な反応、そう言っていいほど否定の色を濃くするアリシアに、みつ姉は朗らかな声音で反論する。
「そうとも限らないわよ。今のアリシアちゃんみたく、人間が別の生き物に恋することだって普通にあるわ」
「だとしても! それは、人間が抱く感情ですッ!」
みつ姉の意見を聞いてなお、アリシアは否定を続けた。それも、もっと激しく。
「私は……私は天使です! 天使が人間と同じ感情を抱くなんてありえません。ましてや、人を好きなることなんて、許されないんですッ!」
感情を剝き出しにして叫ぶアリシア。歯止めが効かなかった。その感情に呑まれるように、バンッと机を強く叩く。痛い。それでよかった。この痛みが、人を好きなった代償ならば、いっそもっと傷ついてしまえ、そう思った。
「そんなことないわ」
「ぁ」
痛む手を、みつ姉はそっと握った。まるで、雛鳥を優しく抱きかかえるように。
「アリシアちゃんが天使だろうと、私たちが人間だからだろうと、誰かを好きなる気持ちに人種も垣根も関係ないのよ。誰かを好きになる権利は、誰もが持っているものなのよ」
「それでも……」
頑なになるのは理由があった。
アリシアに、もしソウタに恋する権利があっても、その資格がなかった。
だって、アリシアは天界で罪を犯し、それを贖わぬまま生きてしまっているのだから。
罪科を負う者が、誰かを好きになっていいはずがないのだ。
「アリシアちゃんが何に怯えているのか、それは私にはわからない。でもね、否定する為だけに、自分の気持ちを偽っては駄目。それは、貴方を不幸にしてしまうから」
「私は……」
みつ姉の訴えが、アリシアが張っていた虚勢を少しずつ崩していく。
「人間も、天使も、誰かを思う気持ちは一緒なのよ。アリシアちゃん」
アリシアが自分の感情を否定するのならば、みつ姉はその感情を肯定する。
「だから、ちゃんと自分の気持ちに向き合って」
「私は、ソウタさんのことが……」
天使にだって、恋をする権利があるなら。
罪科者にも、誰かを好きになる資格があるなら。
この気持ちを、否定しなくていいのなら。
天使・アリシアは――
「私は、ソウタさんのことが――好きです」
アリシアはようやく、己の恋心を認めた。
認めた言葉は熱を帯びて、心臓の鼓動を上げていく。
「そう。自分の気持ちに、嘘なんかつかなくていいのよ」
アリシアの想いを受け止めたみつ姉は、安堵の表情に満ちていた。
「ありがとう、ございます。みつ姉さんのおかげで、もやもやが晴れました」
まだ、胸にしこりは残っている。けれど、それをみつ姉に明かすつもりはなかった。
ここから先は、誰かに甘えず、己の手で決着をつけたいからだ。
みつ姉はアリシアの金色の瞳をじっと見つめていた。胸裏で秘めた想いに気付いたのかとドキリとしたが、みつ姉は小さく吐息すると、
「ん。いい顔してるわ。ちゃんと、アリシアちゃんも恋する乙女って顔ね」
「それは、どんな顔している気になりますね」
後で鏡で見たいな、そう思っていると、みつ姉が突然、吹き出した。
「ぷっ。あはは、やっぱり、アリシアちゃんはどんな顔しても可愛いわねぇ」
「なんですかそれ、それを言うなら、みつ姉さんだって美しい顔してますよ」
「当たり前よ。なんたって私は町一番の美女ですから!」
「流石みつ姉さんです」
「ぷっ」
「ふふ」
この茶番がただただ可笑しくて、二人、我慢できなかった。
「あはは!」
「あはは!」
まるで、姉妹のように笑い合う二人。笑い声はしばらく部屋を満たしていた。
笑って、涙が零れるまで泣いた。
「あー笑った。こんなに笑ったの久しぶりかも」
「私は初めてですよ」
目尻に残った雫を払って、アリシアは霧が晴れた思考で思う。
――もし、ソウタさんの傍に『罪』を背負ったままずっと隣にいられるなら、私はソウタさんの傍にいたい。
天界での過去が消えたわけじゃない。腕の紋章がその証だ。
左腕に刻まれた紋章をきゅっと握った。
「みつ姉さん。改めて、ありがとうございます。おかげで、気持ちの整理ができました」
深く頭を下げ、感謝の気持ちを伝えた。本当に、頼れるお姉さんには頼りになりっぱなしだ。みつ姉も、ソウタと同じくらい立派な恩人だったのだ。
ゆっくりと頭を上げると――みつ姉の顔に瞠目した。
「みつ姉さん……?」
どうして、彼女は今にも泣きそうなくらい、切なげな顔をしているのか。
「お礼を言うのはこっち。ソウちゃんを好きになってくれてありがとう」
その声音が、今にも泣きそうなのは、どうして。
思考が追い付かないアリシアに、みつ姉は追い打ちをかけるように、突然、
「アリシアちゃん。お願いがあるの」
「み、みつ姉さん⁉ 急に何を……」
机に額を擦りつけて、みつ姉が懇願した。
「これはきっと、アリシアちゃんにしかできないこと」
「―――」
それは、それまで頼れる姉だった人が初めてみせた弱さだった。
それに圧倒されたまま、アリシアは驚愕を顔に張り付けたままみつ姉を見続けた。
「どうか、ソウちゃんを救ってあげて」
顔は見えなかった。
ただ、激情を抑えるように震えた声音は、今にも泣き出しそうなほどだった。
―― 4 ――
sideアリシア
――みつ姉から託された想い。それに応えるために、アリシアはひとまず自覚した恋心を閉まっておくことにした。
改めて自分の気持ちを整理しておきたい。そんな思惑もあった。終らせなきゃいけない宿題は山ずみで、けれど、いま一番に解決すべきは、やはり『ソウタを救う』ことだ。
「ソウタさん、ずっと一人で抱え込んでたんだ」
とある坂道を上りながら、アリシアは神妙な顔つきで耽っていた。
みつ姉から明かされたソウタの過去は、アリシアの想像を絶していた。
全ての過去を聞くのはソウタ自身の口からだと思い、アリシアはみつ姉から断片的な過去だけ聞いた。その過去が、アリシアの想像の何倍も重く、壮絶なものだった。
前々から、疑問に思っていたことが一つあった。どうしてソウタは、家族で暮らすような大きさの家に一人で住んでいるのか、と。
そして、その答えはひどく単純だった。
――宮地颯太という少年は、天涯孤独だったのだ。
父や母、祖父祖母、姉弟――家族という存在が、ソウタには無かった。もっと正確にいえば、失くなったのだ。
アリシアが出会った少年は、ずっと独りぼっちだった。
「私、ソウタさんのこと好きなのに、何も知らなかったんだな」
そんな後悔の念がアリシアを襲った。事情に踏み込まなかったとはいえ、触れようとしなかったのは事実だ。
「しっかりしろ、私。ソウタさんのことを知る為に、ココに来たんでしょ」
弱気になりそうな心を叱咤して、アリシアは木洩れ日の抜ける先を見上げた。
こうやって歩いているのは、ソウタを救う方法を見つける為だ。その為には、アリシアは宮地颯太を知らなければならない。
まず、アリシアと出会う前のソウタを知らなければ、彼の過去に触れる資格がないと思うから。
「ふぅ。着いた」
長い坂道もようやく終わり、整地された歩道に立ったアリシアは額に滲んだ汗を拭った。
アリシアが辿り着いたのは、以前に一度だけ訪れた場所だった。
一際に大きな門。そこからさらに伸びる坂道の先には、楽器の音色や少年少女の掛け声が聞こえてくる。
アリシアがソウタを知るために訪れたのは――かつてソウタが通っていた高校、潮風第一高校だった。
ドクン、ドクン、と心音が大きく聞こえる気がした。
「よし、行こう!」
緊張している自分を鼓舞して、アリシアは校門を潜り抜けていく。
緩やかな坂道を登り切り、アリシアは前回の記憶を頼りに目的地にまで向かっていく。
その途中、校内では珍客なアリシアに生徒の視線が刺さった。皆、アリシアをちらっと見て、こそこそ耳打ちしている。――一瞬、あの時の記憶が蘇りかけるも、アリシアは逡巡を振り払って目的地に急いだ。
校舎を抜けてグランドに入ると、静謐な空気がガラリと変わって活気に満ちていた。
「うわぁ」
前に来た時は部活前で、見る事が出来なかった景色が広がっていた。
視界いっぱいに広がる、選手たちの練習風景。
走り込みしている選手もいれば、優雅に高い棒を飛び越える選手もいる。奥の方では金属の玉を空に投げていて、さらに奥では豪快な跳躍が見えた。
「スゴい!」
まさに多種多様な種目とその選手たちを目に焼き付けて、アリシアはそう感嘆を溢さずにはいられなかった。
視線は彼らに釘付け、意識もそうなりかけた所に、後ろから鼻歌が聞こえた。
「でっしょー。陸上のカッコよさに目をつけるなんて、さっすがアーちゃん」
アーちゃん、と聞き慣れない呼び名で呼んだのは、今日アリシアが約束した少女――トモエだった。おそらくは部活用のジャージだろう。髪型もいつものウェーブではなく一つに纏めていた。ポニーテールと呼ばれる髪型だ。この姿も可愛いなと内心で思いつつ、アリシアは目を光らせた。
「トモエさん! これがリクジョウブなんですね! カッコいいです!」
「いやぁ。そう言ってもらえるとマネージャー冥利に尽きってもんだね。不覚にもウルッときちゃった。とりあえずアーちゃん成分補充~」
「わっ、や、やめてください、トモエさん」
照れ隠しなのかよく分からないが、アリシアはトモエに頬をムニムニされた。
トモエとはあの日以降、こうやって親密な関係を築けている。笑顔を沢山見せてくれるようになったし、なによりあだ名で呼んでくれるのが何よりの証だ。
「ホントは抱きつきたいんだけどね、今汗でぐしょぐしょだし我慢」
「くんくん。……全然気になりませんよ。むし清涼感の良い匂いします」
「ちょ、急に嗅ぐのやめて。ハズいから」
匂いを嗅ぐアリシアに、トモエは顔を赤くして距離を取った。
「ほ、ほら、そんなことより、今日会いに来た理由! 例のあれ、借りに来たんでしょ」
「は、はい。……それで、どうなりましたか?」
「――――」
返事を待つアリシアは生唾を呑み込んで待った。
神妙な顔のまま黙り込むトモエに、アリシアは嫌な予感がした。
やはり無理だったか、そう落胆しかけた瞬間、
「オッケーでした!」
「本当ですか!」
満面の笑みで答えたトモエに、アリシアも安堵の息をこぼす。
「部活で録画してやつ、いくつか持っていっていいってさ。……で、その中からあたしなりにピックアップしたやつで良かったんだよね」
「は、はい。トモエさんが一番、ソウタさんの走りを見てきたと思うので、トモエさんのおススメなら間違いないです」
「でも、なんでまた颯太の走りが見たいの?」
「えーと。それは電話でも説明した通りなんですが……」
「うん。それは聞いた。颯太のことを知りたい、って。でも、もうずっと一緒に居るなら、それなりに颯太のこと知ってるはずだと思うんだけど……」
「それなりに、じゃダメなんです」
「――――」
トモエの言葉を遮り、アリシアは強く言い切る。
アリシアの真剣な顔に、トモエは暫く面食らったまま、
「アーちゃんなりに、何か考えがあるんだね」
それ以上は語らず、トモエは察したに顎を引いた。
「じゃ、今日はこれからビデオ鑑賞会だ。ちょっと待っててね」
「あの、どちらに行かれるんですか?」
体を方向転換させたトモエに、アリシアは疑問をそのまま口にした。
するとトモエは首だけアリシアの方に向けて言った。
「ん、ちょっと竹部先生の所にね」
「はぁ……」
「じゃ、五分くらい待っててね」
ウィンクして、トモエは本当に何処かへ行ってしまった。おそらくは竹部先生という人の所へ向かったのだろう。仕方なく、アリシアは待つことにした。
トモエを待つ間、アリシアは陸上部たちの練習風景を眺めていた。
「……前は、ソウタさんもここで走ってたんだよね」
想像で、トラックを走るソウタを描いた。
想像で走るソウタはやはりカッコいい。颯爽と、風のように走っている。けれど、本当のソウタの走りをアリシアは知らない。
――本当のソウタさんはどんな風に走るんだろうか。
静かにかな。以外と豪快だったりするかもしれない。
アリシアの胸中には、ソウタのことでいっぱいだった。
「お待たせー」
「いえ、全然待ってませんよ」
膨らむ妄想に、再びトモエの声がアリシアの意識を現実に還した。
アリシアの元へ駆け足で寄るトモエ。そんな彼女の姿に、アリシアはどことなく違和感を覚えた。バックを背負って、今にも帰りそうな雰囲気だった。
「よし、それじゃ行こうか」
「? 行くって、ドコへですか?」
「決まってるでしょ。あたし家」
「でも、トモエさん、まだ部活中では?」
「だから竹部先生の所に行ったんじゃん。早退していいか聞きにいったの」
目をぱちくりさせるアリシアに、トモエはバッグを揺らしながら続けた。
「竹部先生も、なんか感付いちゃったみたいでさー。よくわからないけど、選手の記録確認するのもマネージャーの仕事だ、って言って。学校で見てもいいし、あれだったら帰って見てもいいよって言われたんだ」
「それで……」
「それで、どうせならクーラーの効いた部屋で見たいなーて思って……そんな訳で早退しちゃいました☆」
「理由が軽すぎないですか⁉」
「あたしも家に帰っていいって言われた時思わずガッツポーズしちゃったわ~」
絶句するアリシアに、トモエは悪びれもない顔で自分の頭を叩いた。
「ま、先生からの許可を貰ってるし、オールオッケーてことで! ほら、さっさと帰って家でビデオ見るよ、アーちゃん!」
そう快活に笑って白い歯を見せるトモエに、アリシアは何も言えずただ途方に暮れるのだった。
そして、我先にと進むトモエ。その後に付いて行こうとすると、突然、ピタリとトモエが止まって振り向いた。
どうしたのかと、アリシアが小首を傾げると、トモエは顔の前で手を合わせて言った。
「ごめん。家に帰ったらまず、シャワー浴びさせて?」
「さてと……それでアーちゃんは、どのレースの颯太の走りを見たいの?」
シャワーを浴び終えたトモエは、まだ濡れた髪をタオルで乾かしながらそう訊ねた。
「全部です!」
「全部⁉ うえぇぇ、何時間もかかると思うけど」
「大丈夫だと思います。一応、ソウタさんには遅くなるかも、とだけは伝えてあるので」
「うーん。それでも颯太は心配するだろうなぁ。アーちゃんの事になると過保護になるし……しょうがない。あとで連絡しておくか」
眉間に皺を寄せてそう呟くと、トモエは氷の入ったレモンティーをぐいっと飲んだ。アリシアも釣られてレモンティーを飲めば、ほのかな甘みに頬が緩んだ。
「よしっ。それじゃ早速見ますかー」
「はい!」
机に置かれたディスク。数はざっと十枚くらい。それに加え、トモエが個人的に撮影したものもある。なるほど、これは確かに時間がかりそうだと、アリシアは気合を入れた。
「まずはこれかなー。颯太が入部して初めて出た記録会だね」
ディスクにはしっかりと日付が記載されていて、トモエは口笛を吹きながら準備していく。手伝えることがあればいいが、生憎アリシアは機械に滅法弱かった。なので、ここは静かに待つしかない。
トモエがリモコンを操作し、ニュース映像から黒い画面へ、そしてさらに映像が切り替わった。
「これが、ソウタさんですか」
「そう。陸部時代の颯太だよ」
少々画質の悪い映像に、アリシアは新鮮な瞳を、トモエは懐かしさを宿した瞳を向けた。
アリシアと出会う前のソウタ。その姿は、今よりも明らかに勇ましかった。
髪は短く、背も一回り低い気がした。それに、周囲と比べて体のラインが細い気がする。
「ソウタはね、昔から筋肉が付きにくい体質だったんだ。その代わり、筋肉のしなやかさと足のバネは凄かった」
アリシアが疑問に思っていたことを見透かしたように、トモエは画面に視線を集中しながら説明した。
「つまり?」
説明を受けても分からず、アリシアは小首を傾げる。そんなアリシアに、トモエはにんまりと笑って、
「ま、見てれば分かるよ」
「分かりました。では、始まるまでじっと待ちます」
どうやらトモエは、走るソウタを見て欲しいらしい。その意図に気付き、アリシアはこくこくと力強く頷いた。
「……それにしても、皆さん薄着ですね。寒そうです」
「あはは! やっぱ見慣れない人が見るとそう言うよね!」
何気ない感想に、トモエはお腹を抱えて笑い出した。そして、トモエは目尻の涙を拭いながら、
「まぁ、冬は尋常じゃないくらい寒いかなー。走ってればそのうち熱くはなるけどね」
「では、もっと厚着にすればいいのでは?」
アリシアの純粋な疑問に、トモエは「そう言う訳にはいかないんだよね」と返した。
「陸上はね。時間と距離を競う戦いなんだよ。相手よりも一秒でも速く、一センチでも遠くへ――風っていう障害を失くすために、陸上のユニフォームは洗練された形になってるんだ」
「……風との戦い」
真剣に語るトモエの言葉を呑み込んで、アリシアはそう呟いた。
「ほら、そろそろ颯太、走るよ。もう分かってると思うけど、ソウタ、右から三番目のレーンだからね」
「はい。ちゃんとあれがソウタさんだって分かってます」
「流石だねぇ」
アリシアも自然と佇まいを直していると、隣から感嘆のような、呆れた風な吐息が聞こえた。
「アーちゃん。よく、颯太の走りを見ててね。凄いんだから」
「はい」
トモエに言われた通り、アリシアはソウタに視線を集中させる。
今はレース直前なのだろうか。選手の皆、その場で軽く跳ねたり、数メートル走っていた。
その中で、ソウタは立ったまま、微動だにしなかった。
「あぁ、それね……」
「集中してるんだ」
トモエが言いかけるよりも速く、アリシアはソウタが何をしているのか理解できた。
「一発でよく分かったね」
ほえぇ、と驚嘆するトモエが続けた。
「それね、颯太が走る前にやる儀式なんだよ。前に聞いた何やってんの、聞いたら、速く走る自分をイメージしてるんだってさ」
「今でも、時々していますよ」
「え?」
どうしてソウタが集中しているのか分かったのか。それは、見覚えがあったからだ。
アリシアはトモエに振り向く。
「ソウタさん。時々、縁側で一人でこの儀式、やってます」
「そっか。……そうなんだ」
その声音がどこか嬉しそうだったのは、たぶん勘違いではない。
何をしているのかと聞いてもいつも曖昧に返された。アリシアも特に深い意味はないんだろうと思っていたが、まさか、レース前に行っていた儀式だったとは。
やはりまだ、ソウタは走ることに未練があるのかもしれない――そう考え込んでいると、画面から『オンエアマーク』と掛け声がした。
「さ、始まるよ」
それまで観客の喧噪やざわめいた空気が、先の掛け声で一斉に静粛なる。選手たちは一斉にスターティングブロックに足を置いていき、姿勢を落としていく。さらなる静寂の数秒後、パンッ! と銃声が響いた。
それを合図にして、選手たちは一斉に走り出した。
「――風みたい」
無意識に漏れた言葉。それはアリシアが、ソウタの走りを見て感じたものだった。
スタート直後から、ソウタは他の選手よりも前に出ていた。反則ではなく、純粋な脚力のみで、前にせり出したのだ。数十メートルを過ぎ、ソウタと他の選手の距離はすでに体一つ分差が開いていた。もはや、独走状態に近い。にも関わらず、速度まだ上がっていく。
走っているというより、飛んでいるみたいだった。
「相変わらず、容赦ないよなー」
隣ではトモエが苦笑していた。
ソウタの足はぐんぐん加速して、他を圧倒していく。結果は当然、一着だった。
試合がそこで終わり、映像も数分後にぶつりと途切れる。そして、次のソウタのレースが写し出された。
「颯太の足は、陸上選手が欲しがっている足そのものなんだよね」
「さっき仰っていた、筋肉のしなやかさとバネ、ですか」
「うん。筋肉がしなやかだと、瞬発的な動きができるし、足のバネは地面を蹴る動作を反発力を作る。これって全部、速く走る為に必要な力なんだよね」
「ソウタさんは、恵まれた才能をお持ちだったんですね」
アリシアの言葉に、トモエはゆるゆると首を振った。
「それもあるけど、やっぱ努力したんだと思うよ。あたしが颯太みたいな足を持ってたとしても、あんな風には走れないもん」
「私も、あんな風には走れませんね」
トモエの言葉に、アリシアも短く同調した。
あの走りは、長い年月をかけてようやく至れる境地だ。ソウタの年齢を鑑みれば、それこそ十六年の人生の大半を尽くしてこそのものだろう。
いったいどれほどの練習を積めば、ソウタのように走れるだろうか。きっと、何年かけても彼のように風になることは無理だろう。そう感じるのはやはり、悔しそうに奥歯を噛むトモエを見たからだ。
だって、アリシアよりも長く、トモエはソウタを見てきたのだから。
映像は淡々と流れていく。
トモエは、憧憬に浸るように語り出した。
「颯太はね、中学の頃に百メートル走の選手として全国で優勝したんだ」
「全国で優勝ですか⁉」
驚愕の事実にアリシアは目を剥いた。トモエは「驚き過ぎ」と苦笑うが、全国優勝した人物がすぐ傍にいることに驚かないほうが無理だった。
「ソウタさん、只ならぬ人だとは思いましたが、まさかそんな凄い人だったとは」
「そうだね、颯太は凄い人だった。身近なあたしらから見ても……」
「トモエさん?」
トモエの表情に違和感を覚えた。
「高校に入ってから、颯太はまた強くなったんだ。一年生でインターハイに出場するくらい、颯太は速くなった」
二つ目のレースが始まった。結果は、またソウタが一着だった。
「地元でも、颯太は雑誌に載るくらい有名になった。本人は望んでなかったけど、周りはどんどん颯太を持ち上げていった。地元のスーパースターだって」
「――――」
「学校の皆も、地元の皆も、皆、颯太に期待した。お前ならまた全国優勝できるって」
語っていたトモエが突然ゆっくりと立つと、テレビの画面を止めた。そして、机に置かれたディスク、ではなくカメラを手に取り、テレビにコードを繋いだ。
「……これは、あたしが勝手に撮影したものだから、誰にも内緒ね。何回も消そうとしたけど、結局消せなかったあの日の動画」
「あの日?」
真っ暗な画面は鮮明に映像を映しだした。
会場は一目で分かる広大な規模だ。そして、歓声も一際大きい。
「これって、例のインターハイというものですか?」
「そう。去年のインターハイ。陸上男子の部・百メートル。その第三レース」
アリシアの問いかけに、トモエは静かな声音で肯定した。
アリシアは息を呑んで、画面を見た。
撮影者はおそらくトモエだろう。ズームされた画面に、ソウタが映っていた。
「この日のソウタ。いつもと違ってたんだ」
「あ」
トモエの言葉に、アリシアも数秒遅れてその違いに気付いた。
このレースだけ。ソウタは周囲と同じように、その場で少し跳ねて、足場を調整したりしている。
「ソウタさん。あの儀式、やってない」
声にして、アリシアは困惑した。
そんなアリシアに、トモエは「そうなの」と肯定した。
「最初は誰も気づかなかった。私も、このレースの結末を見届けてからようやく気がついた。そういう意味で言えば、すぐに気づいたアーちゃんはやっぱりすごいよ」
映像は止まることなく、選手たちは掛け声とともに発走準備に入っていく。
そして、銃声が響く。
盛大な歓声。それとともに、選手は誰よりも速くゴールに着くべく駆け抜けた。ソウタも。
そして、それは起こった。
「――ッ」
観客のざわめきに、アリシアにも声にならない悲鳴が上がった。
ただ、愕然とするアリシアに、代わってトモエが二人の目に映る光景を言葉にする。
「このレース。颯太は途中で走るのを止めた」
映像はソウタが立ち止まったまま、その数秒後にぶつりと途切れた。録画時間はたった四分。それなのに、アリシアの胸には悲壮感が渦巻いていた。
「これを最後に颯太は調子を崩していって、そして今は部活にも、学校にも来なくなった」
「――――」
テレビ画面が立ち止まったソウタの姿を映したまま止まった。トモエは視線を落として、誰に問いかける訳でもなく呟いた。
「期待、掛けすぎちゃったのかな、あたしたち」
「違います!」
「アーちゃん」
トモエの言葉を、アリシアは力強く否定した。
「ソウタさんは、誰かの期待から目を背ける人ではありません。ソウタさんはもっと強い人です」
「何言って……」
「ソウタさんが走らなくなったのは、もっと別の原因があるんです」
「アーちゃん。もしかして、颯太が走らなくなった理由知ってるの?」
「たぶん……でもごめんなさい。これは、まだトモエさんにお答えすることはできません」
今のレースを観て、そしてみつ姉から聞いた事情を含めば、アリシアはどうしてソウタが走らなくなったのか想像ができた。だが、それはあくまでアリシアの推測でしかない。この事実を確かめるまでは、トモエにアリシアが知ったソウタの過去を明かすことはできなかった。
アリシアはただ、友達に頭を下げることしかできなかった。
「そっか。そういうことなら、あたしは信じて待つね」
「いいんですか?」
「そりゃあ、あたしも颯太を助けたい、って思わなくもないけど、でも、アーちゃんが頑張ってくれるなら、あたしは友達のことを信じて待つよ」
だから顔を上げて、とトモエはアリシアの肩を叩いた。
顔を上げたトモエの顔は、それまでの暗い表情から一掃して白い歯を見せて笑っていた。まるで、雨上がりの空のように。
「頼むね、アーちゃん。颯太のことお願い」
アリシアを真っ直ぐに見つめるトモエの瞳に、思わず泣きそうになってしまった。
その気持ちをぐっとこらえて、そして、新たに決意を固くする。
みつ姉の願いに、トモエの期待に応えたいと。
その為に、ソウタの過去を知るのだ。
「トモエさん。改めて、ソウタさんのレース、全部見せてください」
二人の願い先に、少年が待っているから――。
―― 5 ――
side颯太
――天使が過去を知る一方。颯太は珍しくクラスメイトと漁港にいた。
「いやー、まさか、お前があんなに可愛い子と一緒に住んでるとはね。ビックリしたわ」
釣り糸を垂らしながらケラケラと笑う少年――陸人に、颯太はバツが悪そうな顔した。
「色々、事情があったんだよ」
「ほぉ、それは、それはどんな事情か気になりますなー。……で、いったいどんな?」
「ぐいぐい詰め寄るな。それと教える気はねぇよ」
「えー。なんでだよ。言っても別に問題はないはずだろ。それとも何? 何かの陰謀に巻き込まれてるとか?」
「なんだその中二な発想は。……普通に、説明しづらいんだよ」
苦虫を噛んだ形相の颯太に何かを察したのか、陸人は「ふーん」と鼻で生返事して、
「ま、絶賛不登校中のお前が訳もなく女の子を連れ込んだのには何かしらの理由はあるんだろうと思ってたけど、ま、今日はいいか。その辺の事情はまた今度聞くわ」
「そうしてくれ」
と深く言及を止めた陸人の察しの良さに颯太は内心で感謝する。単純に、口で言うには気恥ずかしかった。
そして、二人は無言になる。くるくると互いに垂れた糸を巻きながら、針先のイソメがいるか確認して、もう一度、海面に向かって投げた。
「ところで、どうして俺はお前と二人で釣りに来てるんだ?」
「すげぇ今更聞くじゃん」
「いや、話題が無くなったなと思って」
「それ思っても口にしないやつだから……」
言葉通り、無言のまま男二人でいるのは中々に精神的に来るものだった。陸人もそのことは共感していたようで、苦笑を浮かべながら答えた。
「どうしてって言われてもな。約束したじゃんか。アリシアちゃんに学校案内する代わりに、俺とどこでも遊びに行くって」
「そんな約束した覚えないんだが? あと勝手にアリシアをちゃん付けで呼ぶな。捻るぞ」
「イタイイタイ⁉ なにその腕力⁉ 頭潰れる⁉」
無性にイラっとして、気付けば左手が勝手に陸人の頭を力強く握っていた。涙目で白旗を上げる陸人に辟易としつつ、
「陸部の時といい、この前のこといい、お前は突拍子なく俺と関わってくるよな」
「あはは。なんかお前のことはほっとけないんだわ。なんだろ、構って欲しくなさそうにしてるのに本当は構って欲しい野良犬みたいな感じ?」
「どんな感じだ」
陸人のよく分からない例えに颯太は深い溜息を吐く。
陸人は基本、こんな風に快活な性格なのだ。楽観的で人あたりも良い。朋絵のように、友達も多かったはずだ。そんな奴が、どうして颯太と一緒にいるのが謎だった。
「なんかもうどうでもよくなってきた。お前といると時々自分の考えてることが馬鹿らしくなるから不思議だ」
「あれ、俺いまディスられてる? ねぇ、ディスられてる?」
「半分半分だよ」
「なんだよー。俺なりに気使ってやったのにー」
「……何の気だよ」
拗ねた顔する陸人が異様に気になって、颯太は眉根を寄せた。
追及する颯太の顔を、陸人はちらっと覗く。一瞥して、空気が変わったことは颯太でも分かった。
「んなもん。お前と朋絵のその後に決まってるだろ」
「本題はそれか」
ようやく、颯太は陸人に呼びだれた理由を理解した。
確かに、朋絵から告白された日から時間はそれなり経っている。話を聞くには丁度良い頃合いだろう。
「そういえば、お前もあの日の共犯者だったな」
「共犯者とはまた人聞きの悪い。俺も聞かされたのは当日だぜ? 朝の五時に、いきなり朋絵から電話が掛かってきて、颯太に告白するから、アリシアちゃんを学校案内させてあげて、って」
寝起きにそれは中々だな、と颯太は内心で苦笑した。
「まぁ、俺も朋絵がお前に告白するって聞いた時点で、協力するって決めてたけど、まさか女の子を学校案内させるのが役目だったとは……噂に聞く絶世の美少女を拝めて最高だったからいいけど」
「今度はこの拳が腹を撃つぞ?」
軽口を叩く陸人に、颯太は頬をひくひくさせてその軽口を引っ込めた。そして、逸れそうになった本題に舵を戻す。
「とにかく、結果はどうであれ、朋絵はお前に告白したんだろ」
「あぁ。告白、されたよ。あと、その場で返事もした」
「じゃあ、俺的には結果オーライだ」
告白された日。颯太は己と感情と、そして朋絵の向き合い、その答えも出した。それはきっと、朋絵も同じなはずだ。
「今は普通に、友達してやってるよ。俺よりアリシアとの方が仲いい気がするけど」
実際、アリシアは今日朋絵に会っているらしい。何をしているかは知らないが。
「なんだ、アリシアちゃんに嫉妬か?」
「嫉妬なんてするか」
絡もうとした腕を払うと、陸人は不服そうに唇を尖らせる。それから、
「はぁ。颯太くんや。振った相手と仲良く普通に会話できるって、それだけですげぇことだからな? それ分かってるんですかね」
「口調が腹が立つな……分かってるよ、それくらい。だから、朋絵には感謝してる」
「……ならいいけど」
ふーん、と陸人は曖昧に頷いた。
「とにもかくにも、颯太も朋絵もちゃんと向き合えて俺は良かったよ」
「悪かったな。お前も、一応だけど心配してくれたんだろ」
「馬鹿野郎。一応じぇねえや。こーんくらい心配したわ!」
竿を置いて、陸人は両手いっぱい振って答えた。それが何だか可笑しくなって、颯太は小さく笑った。そして、陸人はいつになく真剣な口調で言った。
「俺は、中学からずっとお前ら二人を見てきた。……いや、正確には朋絵の方を見てたかな。だからさ、報われて欲しかったんだよ、朋絵には。結果や形がどうであれ、中学から抱き続けてきた恋心が、中途半端に終わって欲しくなかったから」
語る陸人の顔に、颯太は咄嗟に朋絵があの日見せた表情を似重ねてしまった。
中学から朋絵を見続けて、彼女の恋心を応援する、その姿勢は、朋絵が颯太に告げたものと同じで。
五年を経てようやく、颯太は陸人のそれに気づいた。――否、気付けた。
「そうか。お前、朋絵のことを……」
「あぁ。好きだよ」
躊躇なく、陸人は堂々と言い切った。
陸人がいつから朋絵に恋心を抱いていたのかは分からなかった。中学、高校、それだけの付き合いなのに、気付いたのは今になってようやくで、颯太はいかに周りを見てこなかったか思い知らされる。
「陸人、その、わるか……」
「おぉっと、謝るのは無しだぜ。颯太くんよ」
頭を下げようとする颯太を制止したのは、他ならない陸人だった。
「どうせ、自分のせいで俺が朋絵に告白チャンスがなかったとか思ってんだろ」
「うっ」
図星だった。口ごもる颯太に、陸人は「ふざけんな」と頭を軽く叩いた。
「さっき言ったろ。俺は、朋絵の気持ちを応援してたんだ。朋絵がお前に告白するまでは、俺も朋絵に告白しないって決めてた。これは自分勝手に決めてたこと。だから、お前が謝る筋合いはない」
「――――」
陸人は言った。チャンスはいくらでもあったと。颯太が不登校になってから、落ち込んでいた朋絵に寄り添って、そのまま告白することができた。それでもしなかったのは、朋絵の恋路を邪魔したくなかったからと、朋絵に告白する勇気がなかったからだと。
「それも今日までだ。こうやってお前と釣りをしてるのは、朋絵がお前と向き合ったように、お前が朋絵に向き合ってくれたように――俺も、向き合わなきゃならないものを確かめる為だったんだから」
「向き合う……何にだよ」
問いかけると、陸人はニカッと笑った。
「そんなもん、俺が朋絵に告白することに決まってんじゃん!」
「――――」
「残りの高校生活で、俺は全力で朋絵にアプローチする! 今年の夏に告白することは無理かもしんないけど、けど、俺は高校卒業までに絶対、朋絵に告白するからな!」
無邪気に笑ってVサインを見せる陸人に、颯太は呟いた。
「そっか。頑張れ」
「…………」
「? なんだよ」
目を瞬かせる陸人に、颯太は訝し気な顔をした。
「お前が誰かを応援するようになったとか信じられないわ。何か悪いものでも食ったか?」
「なんだムカつく心配は。俺だって普通に誰かを応援したりするわ」
「嘘つけー。前の颯太だったらそんなことぜぇったいにしないね」
「言い切るなよ」
ぽこっと、陸人の頭を殴って、陸人はわざとらしく「いてっ」と言った。
「はー。やっぱ、颯太色々変わったわ。マジで不登校中に何があったん?」
「特に何もない。強いていえば、アリシアの面倒を見てたくらいだよ」
「なるほど。つまり、颯太を変えたのはアリシアちゃんか」
「――そうかもな」
素直に肯定する颯太に、陸人は面食らった顔で「ホント何があった?」と呟いていた。
思い当たる節がいくつもありすぎて、颯太はそれが何故か嬉しかった。
どんな出会い方であれ、アリシアと出会わなければ、颯太は今、こうして陸人と話してすらいなかったと思う。朋絵の告白も、きっと受け止めることができなかっただろう。
「ま、諸々含めて、颯太が元気そうでよかったわ。最後にお前見た時、死んでたからな」
「言い過ぎだろ」
「いや、これはマジよ。死体が歩いてる感じだった」
「普通に怖いだろ、それ」
陸人がお化けの真似をしながら冗談交じりに言う。それを、颯太は笑って受け流した。
こんなくだらないことで笑えるようになった。昔の自分だったら、たぶん笑っていないだろうと、今の自分と比較して気付く。
辛いことを乗り越えられた訳ではない。まだ、胸には大きなしこりが残ったまま。それでも、笑えるくらいには、確かに元気になった。
これが誰のおかげかは、もう分かっているから――。
「颯太」
「なんだよ」
不意に名前を呼ばれて、颯太は陸人に顔を向けた。
呆けた顔をする颯太の胸に、トン、と陸人の拳が当たった。
「お前の中の悩みとかが全部解決したらでいいからさ、そしたらまた学校来いよな。俺たちはいつでも、お前を待ってるから」
「――――」
胸に当たる拳の熱が伝わる。
陸人たちは、本気で宮地颯太の帰りを待ってくれているのだ。
その想いに、颯太は応える。
「そうだな。気が向いたら、行くよ」
「おう。待ってる」
にしし、と陸人は屈託なく笑った。
それから、二人はまた釣りを楽しんだ。
結局、その日は魚が釣れることはなかったが、颯太は清々しい気持ちだった――。
―― 6 ――
sideアリシア
ここ二日間。アリシアは妙に落ち着きがなかった。
『アリシア。明日の事なんだけど……』
『へ⁉ 明日、ですか。ごめんなさい。明日は少し外に行く用事がありまして……』
『そっか。その用事って?』
『あの、べつに大したことではないんですよ。ただ少しだけ調べものがあるといいますかないといいますか。私としてはどーしても知りたいことがあってですね……とにかく! 明日は用事があるのでお出かけします! ちゃんと、夕方には帰りますから!』
『お、おぅ……』
と、絶対に思惑がありそうながらも、何かを必死に隠そうとする健気なアリシアに颯太も深く追求することができなかった。
それから、アリシアは日中は一人で何処かへ出かけてしまい、夕飯の時間もちらちらと颯太を窺っては露骨に目を逸らすようになった。そのどこか避けているような態度に、颯太も妙にぎこちなくなってしまった。
「アリシア。今日は何やってんだろ」
夕暮れ時の渡り廊下にて。颯太は一人で呆けながら考えていた。
今日も、隣にアリシアの姿はなかった。長く一緒にいると、いないだけで違和感があった。とはいっても、そろそろ帰ってくる頃だろう。が、今日もまたぎこちない時間が訪れるのかと思うと少し不安が過った。
その胸に生じた僅かな感傷に、颯太は服の胸を握り締める。
昔は、一人で居ても寂しいとは感じなかったはずだ。ただ、祖父が他界した時、また一人になるのかと、あの時にほんの一瞬だけ、今と似たような感傷はあった気がした。
「前より元気になった、か」
刹那。脳裏に過る祖父との思い出に颯太は目を細めながら、ぽつりと呟いた。
みつ姉や朋絵、陸人――皆から、以前に比べて颯太が明るくなったと言われるようになった。颯太本人からすれば別段、以前と変わった感じはなかったが、皆が口を揃えて言うのだから否応なく説得力があった。流石にみつ姉の『魚が死んで二日経った目』は失礼だと思うが。
「爺ちゃん。俺、どんくらい変わったかな」
もうこの世にはいない、颯太を救ってくれた敬愛する人へ問いかけても、当然のように答えは返ってこない。野太く、快活な声を聞くことはもうできないのだ。
その代わりに――銀鈴の涼音のような声音が返って来た。
「私もご一緒していいですか、ソウタさん」
聞き慣れた声音に、ソウタは振り返る直前に思わず口角が上がってしまった。
歩み寄ろうとするその小さな足音に、ソウタは先程まで抱えていた不安が一気に吹っ飛ぶのを感じた。
そして、ソウタは微笑み、
「おかえり。アリシア」
颯太の隣に座るアリシアは、眼前の庭を真っ直ぐに見つめたまま、足をパタパタさせていた。
互いに無言のまま、話すきっかけを上手く作れず時間だけが過ぎていた。けれど、不思議なことにこの時間を嫌と感じる自分はいなかった。
次に二人が話したのは、何気ない瞬間だった。
「ごめんなさい、ソウタさん」
「ん?」
唐突に謝るアリシアに、ソウタははてと小首を傾げた。
「最近は私の用事で、こうして一緒にいられる時間が減ってしまったじゃないですか」
「あー……まぁ、アリシアにも秘密ごとが出来たってことで、俺は気にしてなかったけど」
本当は少しだけ不安だった気持ちを見事に隠しきりながら、颯太は続けた。
「もしかしたら、これから二人で一緒にいる時間が減るかもしれないし、その為の予行練習だと思えば全然平気」
「ソウタさんは平気なんですね。私は、やはり一緒にいられないのは寂しいです」
「……何それズル」
平常心を装った態度の颯太に、アリシアはしゅんと項垂れて言う。そんなアリシアの言葉に颯太は内心を搔き乱されながら、
「俺も、そりゃ少しは寂しいよ」
「そうですか。えへへ。嬉しいです」
屈託なく笑うアリシアに、颯太は平常心を必死に保つ。
照れを隠すように咳ばらいして、
「俺はそもそも、アリシアがこの世界でやりたいことをサポートする目的で一緒にいるからね。アリシアが一人で出来るようになれば、俺の役目も終わりだよ」
「そんなことありませんよ。私は一人で出来るようになっても、つい暴走してしまうことがあるので、ソウタさんの目が必要不可欠です」
「暴走て……まぁ、あれは暴走といっていいかな」
興味あることに見境なく飛び込むあれは確かに、暴走と呼べるかもしれない。
「なら、俺はこれからもアリシアの傍にいなくちゃいけないかな」
「はい。私の傍に居て欲しいです」
「――ん」
冗談のつもりで言った颯太に対し、アリシアは純然とした声音で告げた。いつもとは何かが違うアリシアの雰囲気に、颯太に戸惑いが生じた。
普段の陽気なアリシアとは違う、物静かな雰囲気。真逆なアリシアの態度に、颯太はどう言葉を交わすべきか躊躇ってしまう。普段なら無言の時が無いと言っていいほど話しているのに、今日は沈黙の時間が長い。アリシアが口を開かないのはおそらく意図的で、まるで、颯太から話すことを待っているかのようだった。
アリシアの思惑に釣られるように、颯太は口を開いた。
「……俺さ、この間、陸人に会って来たよ」
「そうですか」
確かめるように呟いた言葉に、アリシアは短く相槌を打つ。やはり、アリシアは自分から話題に触れてくることはない。颯太が話を続けるのを、ただ待っていた。
「あいつ、相変わらず騒々しかったよ。中学の頃みたく、肩組んで来てさ。こっちが嫌な顔してんのにお構いなしだ。あまりに五月蠅いから、魚も逃げちゃった」
「ふふ。それは残念ですね」
アリシアは小さく笑った。
「あと……色々話したよ。今まで何やってたかとか……それとアリシアのことも。一緒に暮らしてること散々弄られてムカついたけどね。……陸人とは中学からの付き合いだったのに、あんな風にくだらない話で笑い合うことなんてなかったよ」
陸人の話を、颯太はいつもぶっきらぼうな態度で聞いていた。単純に、颯太は歩み寄ろうとする陸人と距離を作っていたからだ。
友達なんて必要ない。それが、以前までの颯太だった。
「俺は、誰にも心を許せてなかったんだと思う。これ以外は必要ないって勝手に決めつけて、壁作って、何も見ようとしてこなかった」
颯太は自分の手を見つめながら続けた。
「陸人が言ったんだ。俺は前よりも元気になった、って。どれくらいかって聞いたらさ、死人がミイラになったくらい元気になったらしい」
「それは果たして、元気になったのでしょうか?」
「どうだろう。俺もよく分かんない」
隣で苦笑するアリシアに、颯太も曖昧な笑みを浮かべた。
そして、颯太は真っ直ぐ見つめながら、
「向き合うことって、こんなに大変だったんだな」
「――そうですね。自分と向き合うって、すごく難しいと思います」
颯太の言葉にアリシアも同調して、思わず目を瞬く。
「意外だな。アリシアもそんな風に感じることあるんだ」
「どういう意味ですか、それ」
むっと頬を膨らませるアリシア。そんな彼女に、颯太は「だって」と置き、
「俺が見るアリシアはいつも自分に正直な気がしたからさ。何をするにも全力で、これって決まったら迷いなく突き進むって感じ」
「うっ、ソウタさんにそう言われると恥ずかしいですね。確かに欲求に正直なことは認めますけど……でも、私だって悩むことくらいありますよ」
「そっか」
紅くなった頬を両手で隠すアリシア。彼女の悩みが何なのか気になる所だが、深く追求するのはやめておいた。あまり強引に聞こうとしてアリシアに嫌われては元も子もない。
そして、颯太は逸れつつあった話題を修正する。
「俺はずっと、自分に、周りから逃げてたんだって自覚したよ。前を向いてるつもりで、全然前なんか見てなかった。目を閉じて、耳を塞いで、見たくないものからずっと背けてた」
向き合い、自覚し、灰色だった世界をまた色づかせてくれたのはアリシアだった。その色づく世界で、颯太は周囲の想いに気付けた。
「俺はずっと、誰かに支えてもらってたんだ。みつ姉だけじゃない。朋絵も陸人も、皆、
俺を心配してくれた」
「嬉しいですか」
「どうだろ、皆に心配させたから」
「そこは素直に、嬉しいでいいと思いますよ」
「はは。なら、嬉しい、で」
アリシアに言いくるめられ、颯太は胸中にしまい込んでいた感情を吐露する。アリシアといると不思議と自分の気持ちが素直になってしまう。それが同時にかなり恥ずかしく、頬が熱さを隠しきれない。
そのまま数十秒間。体の熱を冷ますように、夕風に浸った。
「ソウタさん」
「ん、なに?」
不意に名前を呼ばれて、颯太は振り向く。アリシアは流麗な面持ちで膝を叩いていた。
「何してんの?」
「見て分かりませんか?」
「いや、アリシアが膝を叩いてるのは分かるけど……それが?」
「なら、来てください」
何かを誘っているアリシア。アリシアがやろうとしていることに何となく予想がついて、颯太はいやいやと首を横に振った。
「えーと、アリシアさん。まさかとは思うけど、そこに頭を置けってことじゃないよね?」
「流石はソウタさん。その通りですよ」
つまり、アリシアがやろうとしてることは〝膝枕〟だ。
「いやいや、流石にそれは勘弁してくれ」
「どうしてですか?」
「普通に恥ずかしいからだよ」
「? 誰も見てませんよ」
慌てふためく颯太に、アリシアは小首を傾げる。そもそも、どうして急に膝枕をしようと提案したのが分からなかった。
アリシアの真意も掴めぬまま、女の子の膝に頭を置くことは颯太には出来なかった。
「もう、ソウタさんの意地っ張り」
「そんな言葉どこで覚えたの……うおっ」
どうにか言い訳を探そうとしていると、アリシアは痺れを切らしたのか徐に距離を縮めた。鼻と鼻が付きそうな距離まで顔を近づけると、華奢な両手が頭を掴んだ。
そのまま勢いに流されて、颯太の頭はアリシアのひざ元へ。途端、柔らかな感触が頭を包み込んだ。
「あはは。ソウタさんの頭、ちょっとチクチクしてくすぐったい」
「笑うなよ。だからしてほしくなかったのに」
口を尖らせる颯太に、アリシアはでもそれが良いんだと微笑む。
「この重みやチクチクが、ソウタさんが居るという証ですから」
「はぁ……はいはい。もう、アリシアが気が済むまでやればいいよ」
観念したように吐息して、颯太はそっぽを向く。ただ、向いた先に白い肌が見えて、目のやり場に困ってしまう。心臓の音もバクバクと五月蠅い。
「……どうして急に、膝枕なんかやろうと思ったのさ」
投げやりの問いかけに、アリシアの朗らかな気配が伝わってきた。
「みつ姉さんに教えてもらったんです。男の子は膝枕をすれば疲れが吹き飛ぶって」
「それ嘘だから。あと、教えたのやっぱりみつ姉か」
何を企んでいるのか見当もつかない姉の所行に颯太は口を尖らせた。まぁ、疲れが吹き飛ぶかは定かではないが、居心地の良さは確かだった。
「それと、今こうしているのは純粋に、ソウタさんの顔を見たくなかったからです」
「俺の顔? てどんな顔?」
怪訝に眉を寄せる颯太に、アリシアは言った。
「嬉しさの中に、ちょっとだけ寂しそうな顔です」
「……アリシアにはそう見えたんだ」
そう語るアリシアに、颯太は素っ気なく返す。
当然だが、自分の顔は自分では見えない。けれど、いつも颯太を見ているアリシアが言うのだから、そんな表情をしていたのだろう。
実際、颯太の胸裏にはその感情があった。
自分が周囲に心配されていたことを気付いた嬉しさの反対に、それでも拭えない過去の喪失感というものが。
それすらも、天使は見透かすらしい。
アリシアにそれを打ち解けられないことに歯噛みしようとした時、今度は頭に手が置かれた。
「今日はホントにどうしたのさ」
優しく頭を撫でるアリシアに、颯太は終始戸惑いっぱなしだった。
「気にしないでください。これも、私がやりたいだけですから」
「やられてる方はずっと恥ずかしいんだけど」
「いいですから。ソウタさんはそのままにしていてください」
これは何を言っても止める気はないと悟り、颯太はこれ以上の抵抗を諦めた。
退いては寄せる波のように、頭に伝わる温もりが伝わる。その熱が心底心地よくて、次第に羞恥心も忘れていく。ただ流れる時は穏やかに、颯太に安寧を与えた。
夕暮れが一層紅く染まり、眺める先の庭も紅く色づいていく。意識も段々と薄れていくような気がして、颯太はその微睡に瞼をギュッと瞑った。
このまま寝てしまえば、本当に子どもではないか。あやされて眠るのが、十七歳になる男がすることではない。そう頭では意地を張っていても、意識はもう途切れる寸前だった。
このまま深い眠りにつく――寸前、アリシアの声音が耳朶を震わせた。
「今まで、辛かったんですよね」
「ッ⁉」
その言葉に意識が呼び覚まされ、颯太はアリシアに顔を見せないまま驚愕した。
「アリシア、何言って……」
瞬間。颯太は察した。記憶が全て繋がり、一つの回答を声にした。
「そっか。知ったんだ。俺の昔のこと」
颯太の言葉に、アリシアが頷く。
「はい。みつ姉さんから。それと、トモエさんからも」
アリシアから肯定を受け、颯太はようやく最近のアリシアの行動に納得にした。
家でのぎこちない態度は、颯太の過去を知り、どう接していいか戸惑っていたからなのだろう。
そんなアリシアが今こうして颯太を膝枕してるのはどうしてなのか、その訳を知りたかった。
「アリシアが俺の過去を知ってどう思ったのか、聞いてもいいかな」
淡泊に言ったつもりだが、それなりに覚悟を決めて聞いた。
でも、アリシアから返って来た言葉は、拍子抜けするほどあっさりだった。
「何も変わりませんよ。だって、ソウタさんはソウタさんですから。それに、私が今話しているのは過去ではなく、今のソウタさんですからね」
「それはつまり、過去の俺には興味がないってこと?」
「そういう訳じゃありません。昔のソウタさんも、今と変わらず素敵なソウタさんでしたよ」
「うーん。昔の俺も今の俺も素敵ではない気がするんだけど」
どう振り返っても、過去の自分に素敵な部分は見つからなかった。
颯太の卑屈めいた苦笑に、アリシアは優しく頭を撫で続けながら、
「走っているソウタさん。スゴく恰好良かったです。私、魅入っちゃいましたよ」
「あぁ、陸上で走ってた時のことか。ていうか、アリシア見たんだ。俺の大会」
「えぇ。トモエさんのお家で、記録されていた大会全部見ました」
「全部って……」
アリシアの発言に颯太は驚愕した。自分でも把握しきれていない大会の録画映像を全て見るとなると一日以上は掛かるはずだ。なるほど、どうりで日中出かける時間が増えるはずだ。
「はぁ。色々納得したわ。まさか俺の昔のレース全部見てたとは。……それでどうだった? お世辞にも面白いとは言えないと思うけど」
アリシアはいいえと首を振った。
「楽しかったですよ。大会に出る度に早くなっていくソウタさんを見るのは。私も一度、大会で走っているソウタさんを見たくなりました」
「はは。それは残念。俺はもう引退したよ」
アリシアが望む光景を、今の颯太は見せることは出来なかった。
例え走ることはできても、レースに出たいと思う事はなかったからだ。颯太はあの日、ユニフォームを捨てた。
「――どうして、走らなくなってしまったんですか」
やはり、アリシアは颯太の予想していた質問をしてきた。そして、実際に言葉にされるとどう答えるべきか戸惑ってしまう。
「……その理由は、みつ姉から聞いたんじゃないの?」
「全部は聞いていません。私がみつ姉さんから聞いたのは、ソウタさんが走らなくなったきっかけと、学校に行くことを止めてしまった理由だけです。あとはソウタさん自身から聞くべきだと、私がそう思って聞くのを止めました」
「もし、話したくないって言ったら……」
「話してくれるまで待ちます。何時間でも、何日でも」
アリシアは既に、確固たる意志を持っていた。それだけに声音も力強く、颯太は曖昧に誤魔化すことはできないと悟る。アリシアが望むは、他ならぬ颯太自身の言葉だ。
ありのまま話してもいいのか。そんな迷いが颯太に胸中に生じた。当然、それをアリシアが望んでいることは理解している。だが、明かしてアリシアが受け止めきれるかは分からない。話して、拒絶されたらと思うと、漠然とした恐怖が広がった。
颯太は逡巡したまま、しばらく口を開こうとしては閉じてが続いた。どうしても過去を明かす勇気が出なかった。
「俺は……」
言葉は喉に引っ掛かり、上手く声が出ない。
息が詰まりそうになるほど苦しい。そう感じた時だった。耳朶に優しい囁きが届いたのは。
「ゆっくりでいいですよ」
「――――」
その声音は慈愛に満ちていて、高まる心臓の鼓動を落ち着かせていく。
「ずっと蓋をしていた過去に、治っていない傷に触れようとすることに、怖くないはずないですよね。だから、ゆっくりでいいですよ。私はちゃんとここに居ますから」
恐怖を肯定するアリシア。その温かさに、颯太はそっと身を委ねた。
幼少の頃から現在に至るまで。刻まれた苦悩の十六年の月日を、颯太は訥々とアリシアに語り始めた。
「俺の両親さ、二人とも凄い人だったんだ。テレビに出るくらいの有名人だった」
颯太の父は、バレーボール選手だった。海外の有名チームで活躍し、日本を背負ったこともある人だった。
母は、女優だった。主演ドラマが何本も持つほどの大女優だった。
互いにプロとして、その業界で華々しい活躍を続けていた。その姿勢は、颯太が生まれてからも何一つ変わることはなかった。
「俺が生まれてすぐ母さんは現場に復帰して、父さんはその時海外のリーグ中だったから出産には立ち会わなかったらしい。出産に立ち会ったのは、母さんの両親と爺ちゃんだった」
そして、颯太は物心つく前から、家政婦に任せられた。物心がついた頃からも、母と父の顔を見る機会は殆どなかった。
「母さんは家に帰って来ても俺を相手にする素振りがなかったし、父さんは半年に一回帰ってくるくらいで、話した記憶もあんまりない。俺が生まれてから五年間面倒見てくれた家政婦さんも、結婚するって寿退社した」
家政婦が居なくなると告げられた時、母がついでのように言った言葉は今でも鮮明に覚えていた。
『生活に必要なものはこれで自由に買っていいわ。この家も好きに使って頂戴。その代わり、私の仕事の邪魔だけはやめて』
それだけ言って、母は颯太にクレジットカードを渡して仕事に戻っていった。
突き放されたと幼いながらに理解した颯太だった。けれど、颯太は母の言い付けに従った。
「俺が母さんの言葉に従ったのは、ちゃんと自分の意思だった」
「なんで、ソウタさんはお母さんが嫌いなんですか」
「まさか。尊敬する人だよ」
アリシアの問いかけに、颯太は違うと否定する。
「だって、テレビで見る母さんは誰よりも輝いて見えたから。その邪魔を、俺も望みはしなかった。父さんにも似たようなことを言われたけど平気だった。テレビで見る二人は、俺と一緒にいる時よりずっと格好良かったから」
「でも、その時のソウタさんはまだ子どもですよね。私が言える立場ではありませんけど、子どもは親がいるのが当たり前で、甘えたりするものではないんですか?」
「確かにそうだね。俺も、甘えたい気持ちは少しはあったよ」
アリシアの言う通りで、本来なら子どもは親に甘えたり、気を引くために悪戯する年頃だ。本当なら、颯太だってそうしたかった。でも、両親が颯太に向ける眼差しは、実子に向けれるものではなかった。愛情など欠片も感じられない、他人を見るような目だった。
そして、颯太は3LDKの大きな部屋で、たった一人で過ごすこととなった。
ご飯は三食コンビニ弁当。部屋は暗くて当たり前。洗濯機の使いなど知らないから、服は脱ぎ捨てたまま放置した。時どき、クリーニングに持っていたりはしたが。
「一人で過ごし始めてから一年くらいかな。ある日、爺ちゃんが様子見に来たんだ。それで、暗くて何も部屋を見て爺ちゃんが『なんじゃこれ⁉』って驚いたのを覚えてる」
祖父が心底呆れたような顔をしていて、颯太は初め、それがどうしてたのか理解できなかった。
その時、颯太は祖父にこう聞かれた。
『颯太ァ。お前、一人でこんなとこ住んでたのか。うん、ってお前……悟の野郎。次あったら半殺しだ。自分の子どもにこんな生活させやがって』
祖父は、颯太の為に本気で怒ってくれていた。誰かが自分の為に感情を露にしている所を、颯太は六歳にして初めて目の当たりにした。
『安心しろ、颯太。もう、お前はこんなつまらない家にいなくていい。俺の家に来い。海が綺麗で、近所にお前と歳は少し離れてるが可愛い嬢ちゃんがいる。三津奈っていってな。きっとお前と仲良くなってくれるぞ。だからもう、誰もお前を一人にはさせねぇよ』
頭に乗った手の平の温もりに、颯太はそれまでの何かが瓦解して、目尻から熱いものが流れた。無意識に流れたそれは涙で、止まる頃には祖父の服をぐっしょり濡らしていた。
「それから、俺はこの町に引っ越した。爺ちゃんの言った通り、みつ姉とも仲良くなれた」
それが、六歳の初夏だった。
「私が想像してた何倍も濃いですね、ソウタさんの人生」
「はは。だね、俺も、話してて思ったよ」
それまで相槌を打つだけだったアリシアが、区切りの良いところで驚愕しながら言った。颯太も話していて、自分の過去の壮絶さを十年越しに実感させられた。
そして、アリシアは丁度良いタイミングを見計らって、話の先を促した。
「それで、走ろうと思ったきっかけは結局、なんだったんですか?」
「走ろうと思ったのは単純でさ。両親に認めてもらいたかったからだよ」
「それだけですか?」
「うん。それだけ」
本当にそれだけだった。
「走り始めたのはこっちに住む前。家に一人でいるのも退屈で、何か暇潰しがないか外をふらついてた時に偶然、河川敷で走ってる人たちを見かけたんだ。咄嗟にこれだ、と思ったんだよ」
皮肉だが、当時幼いながら既に颯太は実績を上げれば注目されるのを知っていた。何でもいい、雑誌や新聞、注目されれば大勢の人が颯太を見る。ならば、
「そんな、何かに注目される自分なら、母さんと父さんは俺をちゃんと見てくれるかもしれないって思ったんだ。その方法が、走ることで、陸上選手になるきかっかけだった」
家に帰っても誰もいないから、怒られる心配もない。颯太はがむしゃらに走り続けた。街灯が照らし出してからもずっと。全ては両親に認めてもらう、その為だけに。
「俺、小学校に上がってすぐ陸上のスポーツクラブに入ったんだけど、暫くして地域新聞に載ったんだ。地域で開催された小さな大会で優勝して。爺ちゃんは『すげえぞ颯太ァ!』って褒めてくれて、それで、調子に乗ったんだろうね、母さんに、久しぶりに電話したんだ」
「それで、どうだったんですか」
促すアリシアの声音が緊張しているのが伝わった。颯太はフッと鼻で笑いながら、
「『そんなつまらないこと報告しないで』そう言われた」
「――ッ」
アリシアが息を呑む。頭を撫でている手もいつからか止まっていたが、颯太は構わず続けた。
「俺も馬鹿だった。爺ちゃんに褒められて、周りに持ち上げられて、調子に乗った。それで見事に叩き落とされた。同時に思い知らされたよ。これくらいじゃ、母さんは振り向いてくれない」
母を振り向かせたいなら、母と同じ舞台の上まで上がらなければならなかったのだ。母は格下を相手にしない。その時、母の厳格さに気付いた。
「そっからはもう、とにかく努力し続けたよ」
誰よりも速く走る努力をした。何者にも負けない為に、ただ只管に。
結果はしっかりと付いてきた。
「小六の時から少しずつ町で話題に上げられることがあったけど、中学に上がってからそれが増えた。でも、興味がなかった」
周囲は颯太を潮風町のホープだと持ち上げた。けれど、当の本人はそれに陶酔することも、優悦感に浸ることはなかった。そんな暇などなかった。
「中学の二年で全国に出て、三年生でインターハイで優勝した」
男子個人全国優勝。たった一人だけが手にできる栄光を、颯太はついに手にしたのだ。誉高い称号を手に入れたはず。なのに、颯太は表彰式で喜びを感じなかった。優勝トロフィーを両手に掲げ、大勢の拍手を貰ったのに、そこに感動などなかった。
――それはまるで、勝つことが当たり前のように。
「その時はまだ気づかなかっけど、気付いた時のショックは大きかったな」
「理由、聞いてもいいですか」
「だって、俺は両親と同じことをしてたんだから」
「ソウタさんのご両親と、同じこと?」
「俺は母さんと父さんを尊敬してるって言ったけど、唯一嫌いな部分があった。それは名誉を前に、感情を出さない所。自分よりそれを優先したはずなのに、喜びもせず淡々としてるところが俺は嫌いだった」
けれど、
「いつの間にか俺も、そんな風に、勝つことに喜びもしない、勝って当たり前の世界にいたんだよ」
周囲から勝利を期待されても、それに応えることは簡単なことではない。努力を積み重ねても、コンディションが一ミリ狂っただけで結果は変わる。それに万全だとしても、必ず勝てるという確証はどこにもないのだ。
「でも、昔の俺はそんなのどうでもよかった。周囲がどれだけ俺に期待しようが、関係ないって思ってたから。俺はただ、母さんと父さんに認められたくて走ってたんだ」
その姿勢は、高校生になってからも変わらなかった。
「去年、俺は高校のインターハイに出た。当然、雑誌にも載ったよ」
「それ、私も視ましたよ。みつ姉さんもトモエさんも、自慢げに見せてくれました」
「うわ。あれ見られたんだ。なんか、うん、恥ずかしいな」
当時記者にインタビューされたが、流石にどんなことを話したかは覚えてはいなかった。せめて恥ずかしいことは言っていないことを願いつつも、颯太は続けた。
「高校のインターハイ。ここで、結果を残せたら、今度こそ、母さんと父さんは俺をちゃんと見てくれるかもしれないって思った。……それなのに」
今でも、どうしてという思いは拭えなかった。
「一番、俺のことを見て欲しかった母さんと父さんは――当日、事故で死んだ」
その報せを受けたのは、レース本番三十分前だった。スマホに、母のマネージャから電話が掛かってきて、颯太は両親が事故に遭ったことを耳越しに伝えられた。
どうやら、母と父は祖父の説得で颯太のレースを観に来てくれるそうだった。二人、多忙の中スケジュールを調整して時間を作ってくれたらしい。当日、二人は羽田空港に落ち合い、父たちは友人の車で千葉県総合スポーツセンターに向かっている最中、トラックに衝突された。車は原形が留まっておらず、炎が燃え盛っていたそうで、三人は即死だったそうだ。それは緊急速報で取り上げられるほどの悲惨な事件だった。後に警察の調べによれば、事故の原因がトラック運転手の居眠り運転だった。
そして、両親の死の報せは、颯太の十五年の人生を瞬く間に瓦解させた。
「それが、あのレース」
「見たんだ。やっぱ」
颯太が辿り着いた、両親に認められるかもしれなかったレース。結果として、颯太はあのレースで走る意味を失った。
「あのレースで走らなかった理由は、誰も知らない。皆知らないからね、俺が、宮地悟と春日井凛子の子ってことは。皆が知ってるのは、二人がその日事故で亡くなったってことだけ」
周囲は未だ、あのレースで颯太が走らなかったことを不調だと思っている。
「この事実を知ってるのは、爺ちゃんとみつ姉。あと、みつ姉の家族くらい」
そして、アリシアも加わった。
「走る意味が無くなってからは、毎日がどうでもよくなったよ」
鬱屈とした日々。色褪せた日常。何もかもが灰色に見えた。綺麗に見えていた海でさえも。
「でもさ、爺ちゃんが言ってくれたんだ」
灰色の世界に、祖父が終止符を打ってくれた。
その会話は、昨日ように思い出せた。
『生きる理由を失くしたら、また見つけりゃいいんだ。簡単じゃないかもしれねぇけどよ、でも、見つけろ、颯太。そんでもって叫んでやれ、この馬鹿親ども、俺の新しい夢、見つけたぞって。そうすりゃ、地獄であいつらはお前を見てくれてるかもしれねぇだろ』
『地獄にいるんだ、母さんと父さん』
『当たり前だろ。こんな大事な息子の晴れ舞台を観る前に死にやがって。ろくに愛情注がずにくたばったクソ野郎だ。あんな奴ら、天国に行っても神様が許しちゃくれねぇよ』
『俺は、天国でも地獄でもどっちでもいいかな』
『優しいな、お前は』
『だって、もう居ないし、会うことはないから』
『颯太、お前厳しいな⁉』
あの時交わした会話が、颯太を生かしてくれた。
「爺ちゃんは、俺にまた生き理由をくれた」
思い出せる。敬愛する祖父のことを。
居場所をくれた、生きる理由を作ってくれた。それなのに――
「なのに、なのに……っ」
それまで堪えていたものが溢れてしまいそうで、颯太は必死に奥歯を噛み締めた。
視界が滲み出す。
「なんで……死んじゃったんだよ……ッ……もっと、一緒にいたかったのに……ッ」
色んな感情がごちゃ混ぜになって、勝手に閉じ込めた想いがあふれ出していく。止まれと願っても、もう歯止めが効かなかった。
「母さんもッ……父さんもッ……爺ちゃんもッ……俺の大事な人たちが……ッ……みんな、いなくなった‼」
どうして、皆、自分を置いていった。
「認めてほしかったのに……やりたいことッ……まだ見つかってないのに……ッ……なんで、死んだよッ……ばか、バカ野郎ッ……」
震える声が、悲痛の叫びを上げる。感情を抑えきれない。
アリシアの前で、みっともない姿は見せたくなかった。
そんな颯太の虚勢を、アリシアは――
「泣いていいですよ」
「――ッ」
優しく、そっと抱きしめた。
「今まで独りで我慢してたこと、もう、我慢しなくていいです」
「――――」
「一人は、辛かったですよね。苦しかったですよね。その悲しみを、どうか、私にも分けてください」
アリシアの声音は穏やかに、颯太の悲しみにそっと寄り添おうとする。その温もりが、颯太の涙を肯定してくれた。
「ソウタさんはもう、一人じゃありませんよ。私がいます。私が、ソウタさんの傍にいますから。だからどうか、一人で抱え込まないでください」
「あぁ……うぁぁ……」
アリシアの言葉に、颯太は声にもならない声で頷く。
――あぁ、泣いていいんだ。
アリシアの温もりに縋るまま、颯太は泣き叫んだ。
「あぁ……うあああああああああ!」
声と涙が枯れるまで、颯太は泣き叫び続けた。
頭を撫でる、手の平の温もりは、いつまでも颯太に寄り添い続けてくれていて――。
―― Fin ――
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