第一章 『 宮地颯太 』
―― 1 ――
side颯太
「――んっ」
宮地颯太の朝は時々早い。
一週間の内に、二、三くらい、陽が昇る前に起きる日がある。
今日は設定されたアラームより二時間前に目を覚まして、颯太は布団からもぞもぞと起きた。
「――今日は、海でつりするかぁ」
寝起きの一声。それが、颯太が目覚しより早く起きる理由だ。
普段は自転車で十五分ほどの漁港で釣りをするのだが、今朝はその倍の時間は掛かる海に行きたい気分だった。
ふあぁ、と欠伸をかいて颯太は布団から離れる。足取りはそのまま部屋を出て階段へ。トタトタと木板を踏む音を鳴らしながら、颯太は玄関を通り越した。
渡り廊下から見える庭を、寝ぼけた顔で覗くと、雀が二羽、雑草を突いて戯れていた。
なぜか足が止まって、颯太はそれを眺める。しばらく観察していると、雀は視線に気づいたのか、颯太に振り向いた。小刻みに顔を振わせて、その場でステップを刻む雀。やがて、興味を失ったかのように羽ばたいて二羽とも去ってしまった。
「そろそろ庭の手入れ時かな」
あちこちに生えた雑草を睥睨して、颯太はまた歩きだした。
夏。といっても明け方の空気は涼しい。住んでいる地域の特徴でもあるが、完全に覚醒する前の体がすんなり動けるのはこの気温のおかげだ。
そんな清涼な空気を満遍なく体に浴びせながら着いたのは、この家の最奥に位置するトイレだった。
「不便だよなぁ。いつも思うけど」
もう何十年も住んでいる家。だが、この感想はいつまで経っても変わらなかった。
はぁ、と深い溜息を吐きつつ、颯太はドアノブを捻る。
しっかり尿意も消化したところで、今度はすぐ隣の洗面所の戸に手を掛けた。ガララッ、と戸は建付けの悪い音を立てる。体よりも前に腕が先に部屋に入って、パチン、と電気を点けた。
正面に四歩歩けば眼前の大きな鏡に自分が映った。寝ぼけた顔を洗うべく、勢いよく流れる水を手で掬う。両手に水を溜まった水を顔面で二、三回弾くと、意識は完全に覚醒した。
立てかけられたフェイスタオルを引っこ抜き、乱暴に顔を拭う。ぷはっ、顔を拭き終えると、タオルを洗濯機へシュート。入る様を見届ける事なく、颯太は歯を磨き始めた。
トイレに行って、顔を洗い歯を磨く。自堕落な生活が何カ月も続く中で、颯太はこの日課だけは欠かすことはしない。それをちゃんとやれと、祖父に口うるさく言われたからだ。
日課の一工程が約五分ほどで終了。次に颯太はリビングに向かう。
異様に静かなリビングは、以前はもう少しだけ明るかった。現在はもぬけの殻のような雰囲気だ。それは、人一人が住んでいるにも関わらず、にだ。
このリビングで過ごす時間も今は滅法減って、颯太がここを使うのはご飯を食べる時くらいしかない。それに、ご飯は台所で食べるようになったしまった。
台所の小さな灯り。それだけで十分だと、颯太はこの数カ月で学んでしまった。
食器棚からコップを、冷蔵庫からは牛乳を取り出す。トポポ、と牛乳を半分くらいまで注いで、牛乳を元の場所にしまう。
片手に持ったコップを調理台に置いて、颯太は昨日買っておいたアンパンの袋を開けた。
「――――」
がぶっ、とパンにかぶりついて、きちんと噛んで呑み込む。そしてまた齧りつく。時々牛乳を飲んでと、パンが胃に収まるまでその動作は続いた。
指に付いたあんこをぺろりと舐めて、少し残った牛乳を一気に飲み干す。
「――――」
朝食を終えてすぐ、颯太は冷蔵庫を再び開ける。そこから木箱を取り出すと、足早にリビングを出て行く。
それから数分後。ラフな格好に着替えた颯太は、ポケットに財布とスマホだけを突っ込んで靴を履いた。つま先でタイルを何度か蹴って履き心地を確認すれば、颯太は玄関に置いてある釣り道具一式を抱えて外に出た。
玄関の真横に置いてある自転車のカゴに、荷物を詰めるだけ詰んだ。
「よしっ」
ふっ、と息を吐き、颯太はちらっと空を見た。
天候は良好。スマホで天気予報を見れば、今日は一日、快晴だそうだ。
今日は熱くなるな、とぼそりと呟いて、颯太はいよいよ自転車のスタンドを上げた。
「それじゃ、行きますかっ」
久々の海釣りで、気分が高揚し出す。
それに、今日は大漁な気がする。
そんな期待を胸に、颯太はペダルを勢いよく漕ぎ出した。
「お前には失望したぞ」
針先に揺れるイソメを忌々し気に見つめ、颯太はがっくりと肩を落とした。
釣りを初めて早二時間が経過。が、釣果は乏しいどころか当たりすらない。バケツに汲まれた海水には波紋の一つすら立たず、虚しいかな雲の切れ端だけが映る。それを覗くたびに、颯太のため息がまた一つ増えていった。
「そろそろ、新しいやつに替えるかー」
鮮度が命のイソメの消耗は激しい。鮮やかだったこげ茶の体も、いまでは濁った茶色まで廃色している。自分を魚に例えるなら、こんなご飯には飛びつかない。
「よい、ほい……っと」
針先のイソメを取ると、颯太は新しいイソメに交換するべく木箱の蓋を開けた。蓋の影が消えると、途端、イソメはうねうねと活発に動きを再開させる。
客観的に見れば、中々にグロテスクな絵面だ。木くずから何匹ものイソメがお互いの体を擦り合わせながらもぞもぞと動いているのだから。
「お前にするか」
しかし、颯太はまるでお菓子を抓むかのように、ひょいっとイソメを掴んだ。捕まえられたイソメは必死に抵抗するが、颯太はお構いなくその胴体をハサミで切った。
餌として適度な大きさに合わせるのも、魚に掛かってもらうために必要なことなのだ。
もごもごと動くイソメの口に針を食わせ、針先を隠すのがポイント。針を隠せる上にイソメの動きにも似ているおかげで、魚が違和感なく食べるのだ。……釣れるか釣れないかは結局のところ魚任せだが。
「今度こそ、ちゃんと食われてくるんだぞー」
イソメに願掛けして、颯太は竿を持ち上げた。
振り子が揺れるような動きから、腕を一気に振り下ろす。ヒュンッ、と糸が風を斬る音を鳴らして、イソメは数十メートル先まで飛んでいく。緩やかに弧を描くイソメは、次第に見えなくなり、やがて海面へと消えた。暫く時間を置くと、颯太は垂れ下がった糸を調整する。ピンと張った糸の状態にすれば、あとは魚が餌を食べてくれることを願いながら待つだけだ。
「ふぅ」
一息吐いて、颯太はゆっくりと腰を下ろした。
魚が掛かるまでの時間。颯太にとってその間は波の音を聞くのがルーティンだ。
待ち時間は自由みたいなものだ。竿をひたすらに見つめ真向から向き合う釣り人もいれば、新聞を読んだり寝たりご飯を食べる人もいる。
そんな数ある待ち時間の中でも、颯太は比較的珍しい部類に入るだろう。ボー、とただ流れる雲を眺める時間。そこに余計な思考は入らない。
スマホで検索すれば、海の音なんてものはどこにでも転がっている。颯太も暇つぶしに何回か聞いたが、すぐにむず痒くなってやめてしまう。だって、此処に来るたびに思うから。この音は生で感じて初めて意味のあるものなのだと。
言葉では言い表せることが出来ない自然の時間が生み出す音を、颯太は全身を通して初めて共有できるものだと思っている。
だから颯太は三十分以上かけて自転車を漕ぐし、手に匂い残るイソメにも触る。
町の景色が変わっても、海は変わらず広大であり続ける。姿は変わっていないのに、でも海は驚きと楽しさを颯太にくれる。
だから、颯太は海が好きだった。
そんな好きを見つけさせてくれた人も、海が好きだったから。
「――――」
遠くから地面を擦る足音が聞こえてくる。
それは段々と颯太の方に近づいて来るが、本人は意識が海に向いているせいで気付かない。
足音が颯太の真後ろで止まった。
くすくす、と笑い声が聞こえたのはにわかに認識できたが、その時にはもう手遅れだった。
突然。視界が暗闇に覆われて、颯太はようやく意識が戻る。ビクッと咄嗟に肩が震える様子に、声音は心底愉快そうに訊ねた。
「だーれだ」
少なくとも男性の声ではない。颯太は沈黙のまま、次の問いかけを待った。
「ヒント1。ソウちゃんを昔からよーく知ってる人です」
「…………」
「ヒント2。この町一番の美女で~」
「それは誇張し過ぎだよ」
「うるさい」
「すいません」
つい反論してしまって、質問者が圧の籠った声で抑圧してきた。反射的に謝ると、質問者は咳払いして続けた。
「ヒント3。世話焼き上手で家事万能な頼れるおねーさん」
「ヒント4~。あららー。最近、お腹にお肉が付いた気がするわねー。あーもう、ダイエットしなきゃ! 歳はとりたくないなー……ってイタイタイッ⁉ 目に指が食い込んでる⁉」
どうやら質問者の琴線に触れたらしく、叩いた軽口に釣り合わない激痛が颯太を襲った。
堪らず悲鳴を上げる颯太はすかさず白旗を上げる。すると、力の入った指先は耳元から聞こえる溜息と同時に離れていく。
「いってー」
目尻に一杯の涙を溜めた目が景色を取り戻してくと、颯太は唇を尖らせながら振り返る。
見上げる先。眩しい青空を背に、その人は頬を膨らませていた。明らかにご立腹といった態度で、腰に手を置いて颯太を見下していた。
颯太はやれやれと肩を落とすと、よっ、と立ち上がった。
「ソウちゃん、て呼んでる時点でバレバレだよ――みつ姉」
苦笑交じりに彼女の名前を呼ぶと、ふんっ、と鼻を鳴らして言われた。
「だったら早く答えなさい。分かり切っている答えをいつまでも先延ばしにするのは、男として減点よ。ソウちゃん」
そう言って彼女――みつ姉は颯太にデコピンした。
優良三津奈。それが彼女の本名であり、颯太がみつ姉と慕う女性だ。
シャンプーの良好な香りがする黒髪は背中に掛かるくらい長く、顔立ちは自他ともに認めるほどに整っている。長いまつ毛に漆黒の瞳。筋の入った鼻から下の艶やかな唇。
顔立ちだけでなく、体つきも相当だ。メリハリの際立つボディラインは、今日も薄手のシャツのみで隠れているがまったく隠れていない。いつか、颯太はみつ姉に注意したことがあったが、『お姉ちゃんに欲情するなんてソウちゃんのエッチ~』と馬鹿にされて以来忠告を止めてしまっている。本人が気にしないというのであればそれまでだし、颯太もみつ姉のラフな格好を見慣れてしまったせいで妙な意識はしなくなった。それでも、時々意識はしてしまうが。
そんなみつ姉と颯太の関係は姉弟ではなく幼馴染だ。家も近所で、小さい頃から面倒を見てもらった結果、いつしか三津奈をみつ姉と呼ぶようになった。今ではすっかりその呼び方が定着して、仲も本当の姉弟のように良好な関係だ。
そんなみつ姉だが、彼女は普通に成人しているし社会人だし今日は平日だ。スマホを確認すると時刻は八時半ごろ。普段なら職場にいるはずの時間帯にこんな場所にいるのは珍しかった。
「ねえ、みつ姉。なんでこんな所にいるのさ? 仕事は?」
「ん? あぁ、今日は休日出勤の代休なのよ。だから晴彦くんにお弁当を作ってあげたんだけどね。晴彦くん、肝心のその弁当を忘れちゃったみたいなのよ」
「なるほど、晴彦さんに弁当を届ける為に来たわけだ」
「そういうこと」
確かにそれなら、みつ姉がこの海外沿いに来るのも不思議ではなかった。
ちなみに、晴彦とはみつ姉の婚約者だ。
「それならこんな場所で油うってないで早く届けてあげればいいのに」
「なに、嫉妬?」
「ハッ」
「ちょっと、なんで鼻で笑うのよ」
「いや、みつ姉がまたアホなこと言い出したな、って」
「アホとは何よ」
「今更、二人に嫉妬なんてするわけないだろ。それに今日休みなら、どうせ家に来るんでしょ?」
「うん。おかず持っていくから」
「別にいいのに。というか、晴彦さんは何も言わないの?」
「何も、って何を?」
首を傾げるみつ姉に、颯太はこめかみを抑えた。
「晴彦さんもだいぶ抜けてるからなー」
晴彦から信頼されているのはわかっているが、それでも婚約者を他の男と平気に二人きりにさせるものか。みつ姉と颯太の関係性を理解しているからか、それとも、颯太に置かれている現状を危惧しているからか――いずれにせよ、二人の思惑がどうであれ、颯太にみつ姉を傷つける気は毛頭ないが。
「みつ姉、前にも言ったけどさ、本当に気にしなくていいから。俺だってもう十七になるんだし、自分の面倒くらい自分で……」
「駄目。私が行かなかったら、ろくな食事取らないでしょ」
「そんなことない」
思わずムキになると、みつ姉は「ほほーん」と睨んだ。
「それじゃあ、私がソウちゃん家に行かなかった三日の間、食べたものは何?」
「ぐっ……」
指摘されて、颯太は苦虫を噛んだ形相で呻いた。
「あんぱん……」
「それはいつ?」
「今日の朝です」
「……朝はまぁ、そのくらいでもいいとしましょう。で、昨日の夜は?」
「……カップ麺」
「じゃあ、お昼は?」
「……カップ麺」
「どうしよう、だんだん聞くのが怖くなってきちゃった」
暴いていく颯太の私生活に、みつ姉が己の肘を抱えて震えた。
「もう聞くのが怖いから聞かないわね。はぁ、ソウちゃん。前に「健康には気を付けるから」って私に言ったじゃない。なのに、そんな食事続きじゃ、本当、いつ体壊すかわからないよ?」
本気で心配してる時の声音だ。颯太は内心申し訳なく思いつつも、
「一応、野菜は取ってるよ……ジュースだけど」
「駄目よ。ちゃんとした野菜も食べなきゃ」
「でもほら、みつ姉と一緒にご飯食べる時は食べてるじゃん」
「それ以外は?」
「…………」
口ごもる颯太に、みつ姉は何度目か分からない深い溜息を溢した。
「ちゃんと栄養摂らないと、もしもの時に体動かせないよ?」
「大丈夫。そんな日はきっと来ないから!」
「言い切らない。もうっ」
ほとほと呆れた風に吐息して、みつ姉は「とにかく」と前置き、
「今日はソウちゃん家でお昼一緒に食べるから、それまでに帰って来てよね」
「へいへい」
颯太は適当に相槌を打つと体を海に向けた。竿先に反応はない。
「それで、今日は何か釣れたの?」
言いながらバケツを覗き込むみつ姉。それに颯太は口を尖らせて言った。
「なぜバケツ覗きながら聞くの?」
地味に心に刺さる嫌がらせだ。颯太はしかめっ面になった。
「あらあら。どうしてでしょうねぇ」
意地悪そうに笑みを浮かべるみつ姉に、颯太は彼女の意趣返しだと気付く。
「……まだ始めたばっかりだから、釣れないのは当たり前だ」
「はいはい。そういう体にしてあげるわ」
露骨な嘘にみつ姉は微笑する。
「せっかくだし、ソウちゃんが釣るところ見たいな」
「それは俺じゃなくイソメに言って。あいつが頑張らないと俺も頑張れないから」
「じゃあソウちゃんとイソメ、どっちを応援しようかしら」
「別にどっちでも。というか、釣りに応援なんかなくない?」
「あら、そんなことないわよ。漁師だって誰かに応援された方が力が出る、って漁港の人たちも言ってたもの」
「あの人たちはそれが仕事だからでしょ。俺はただの暇つぶしだもん」
「いいのよ別に。誰かに応援された方が、なんにでも頑張りがいがあるってものでしょ?」
「……そうかな」
「そうよ」
みつ姉の言葉を肯定できず、颯太は視線を落とした。
「まぁ、爺ちゃんに褒められた時は、ちょっとは嬉しかったかも」
「でしょ」
「あと、みつ姉も」
「ついでみたいに言わない」
「いたいいたい」
みつ姉が頬を抓った。でも、力は入ってない。
その光景は本当に姉弟のようだった。他愛もない毎日の一瞬を切り取ったように、
指が颯太の頬からゆっくりと離れると、みつ姉は遥か先を見つめながら、問いかけた。
「――一人には、もう慣れた?」
そんな問いに、颯太は素っ気なく答える。
「まぁ、ぼちぼち」
「そっか……それなら、少しは安心かな」
「今更だけど、別に、みつ姉たちがそこまで気に掛けることはないよ。そりゃ、爺ちゃんが死んでから、俺のこと心配してくれることに感謝はしてる。でもさ、もう俺、十七になるんだし、一通りの家事もこなせる。生活でだって困ってないから……」
だから気にしなくて平気、そう言いかけて振り向いた瞬間だった。みつ姉の表情に、寂寥が募っていることに気付く。
彼女は、胸裏の激情を押し殺すような声音で呟いた。
「そういう事じゃないのよ」
「――――」
颯太は何も答えることができない。そんな颯太に、みつ姉は水平線を見つめながら続けた。
「ソウちゃんが一人でも困ってないのは知ってる。何十年も見てきてるから。でもね、もっと周りを頼っていいのよ。どれだけ一人でいることに慣れても、ソウちゃんはまだ子供だもの。子供は、もっと大人を頼っていいの」
「十分、頼ってる気がするけど」
「本当に?」
「…………」
「ほらね」
みつ姉の追及に、颯太は視線を合わせられなかった。
「だから私はソウちゃんをほっとけないのよ」
「ならさ、みつ姉はなんで俺の今の状況になんも口出さないわけ? ――学校に行け、って言えばいいじゃん」
優しい目に、無力な自分が映る。
五月の下旬ごろだったか。祖父が他界して二カ月を過ぎた頃、颯太は学校に行かなくなった。様々な理由が重なった結果だが、それをみつ姉はおろか周囲の誰も原因を聞こうとはせず、そして、咎めることもなかった。
何故、誰も言及してこいないのか。最初は疑問だったが、時間が経って今はもうどうでもよくなっていた。……ただ二人だけ、颯太が不登校になってから家にプリントを届けてくれた同級生がいたが。
颯太はみつ姉の返事を待った。一秒。二秒。数秒の沈黙の後、口を開くみつ姉は、颯太に微笑んで、
「学校に行く行かないは、ソウちゃんの自由だもの。何かしらの理由があるだろうし。無理に聞くのもいいけど、それじゃあ、根本的な解決にはならない。ソウちゃんが話してもいいかな、って思ったら、その時に聞くつもりではいるけどね」
「別に俺は話しても……」
いい、そう言い終える間もなく、颯太の唇はみつ姉の一指し指に塞がれた。
「そんな顔で言わないで。ソウちゃんにそんな顔させながら、私は話なんて聞きたくはないの」
「……どんな顔してんの、俺」
「辛そう。すごく、苦しそうに見える」
自分ではそうは思わない。けど、口を開ける度に、胸の奥が悲鳴を上げるような感覚は、あった。
「もっとマシな顔になったら、その時にちゃんと聞くわよ。だから、ゆっくりでいいわ。学校にも、行きたくなったらでいいよ」
「……甘やかしすぎだよ。それで出席足りなくて退学になったら、元も子もないじゃん」
「その時はその時よ。大丈夫。晴彦くんもよく学校サボって補習受けてたから」
「晴彦さんと比べられても、スケールが全然違うんだよなぁ」
晴彦の場合は自由過ぎるが故だ。学校を抜け出して颯太の授業参観に来たことは今でも思い出深い。
「とにかく、ソウちゃんのことを放って置けないけど、私含め皆、必要以上に触れる気はないのよ。ソウちゃんが抱えてる問題は、ソウちゃん自身で解決するべきだと思ってるから。勿論、ソウちゃんが何か悩みを聞いて欲しいって言えば、私は喜んで相談相手になるわ」
豊満な胸を叩いて、みつ姉は鼻を鳴らした。そんな頼もしい姉に、颯太は乾いた笑いをした後、
「それじゃあ、そん時はみつ姉を真っ先に頼るわ」
「うん。期待して待ってます」
向かい合って誓った。いつか、この約束を果たせればいいなのと、颯太は心の底から思った。
そして、みつ姉の手がゆっくりと伸びて、颯太の黒髪を撫でた。
「まぁ、何も言わないのも、子どもを見守る大人の立場としては駄目な気がするから、ちょっとアドバイスするわね」
「アドバイス?」
疑問符を浮かべる颯太に、みつ姉は「うん」と頷きながら黒髪を優しく撫でて、
「気長に生きて、そして、気長に成長すればいいんじゃないかな。それが人生だよ」
「――――」
「人生は山あり谷ありだけど、どんな風に昇ったり下ったりするのかは、その人次第。ソウちゃんはソウちゃんのペースで生きなさい」
「山があるのは確定なんだね」
「当たり前よ。生きてれば苦しいことなんてたっくさんあるんだから」
「みつ姉にもあったの?」
「あったわよ。二十四年間生きて、もう数えきれないくらいあったわ。それに、この先も沢山あると思う」
「そっか。なら、そん時は俺も手伝うよ」
「あはは。子供のくせに、生意気だなー」
「いはいいはい……」
撫でていた手が頬を引っ張る。みつ姉は悪戯な笑みを見せた。
やがて手が離れると、みつ姉はふっと息を吐いて、
「とにかく、ソウちゃんはソウちゃんの人生を楽しみなさい。私と晴彦くんは、それをお酒の肴にでもするから」
「なんだそれ、めっちゃハズい」
「ふふふ。それが、弟の宿命なんだぞ~」
「マジか」
今から多少なりとも黒歴史を減らすことを本気で見当しつつ、
「ま、人生うんぬんはまだよく分かってないけど、今は釣りを楽しむことにするよ」
「そうそう。学校サボって釣り。いかにもろくでなしの所行だけど、いいと思うよ」
「ろくでなしなのは否定しないんだ……」
突然の暴言に驚愕していると、みつ姉は「それじゃあ」と切り出した。
「そろそろ行こうかな」
「ん。気を付けてね」
「ソウちゃんこそ。何かあっても海に飛び込まないようにね」
「流石にそんな馬鹿な真似しないって。芸人じゃないんだから」
颯太はみつ姉の可笑しな想像を鼻で笑い飛ばした。海に飛び込みたいと思う気持ちは分からなくはないが、飛び込む理由がない。
本人も冗談で言っただけに「だよね」と直後に笑い飛ばした。
「あ、さっきも言ったけど、お昼に行くのは本当だから、それまでにはちゃんと帰ってきてね」
「はいはい。一時頃でしょ」
「それくらいが丁度いいかも」
「了解」
「じゃあ、また後でね、ソウちゃん」
「ん、また後で」
手を振るみつ姉が、徐々に遠くなっていく。やがて完全に見えなくなると、代わりに彼女の愛車が動き出した。それすらも見えなくなると、颯太は再び釣り竿に視線を落とした。
無言で座り込み。未だに反応のない釣り竿から視線はみつ姉を送った左手に映る。
昔は、この両手で掴みたいものがあった。確かに、あったはずだ。
みつ姉の言葉が、何度も脳内で再生される。
その度に生まれるのは、虚無感と己に対する失望だった。
それなのに、今は空虚でしかなくて――。
「何やってんだ、俺」
ぽつりと零れ落ちた言葉は、潮風に運ばれて大海に消えた。
―― 2 ――
side颯太
その後。みつ姉と分かれたあとも暫く釣りを続けていたが、結局、当たりはなかった。
「うわっ。もうこんな時間か……そろそろ帰るかな」
スマホを見れば、時刻は十時半を回ろうとしていた。六時頃から開始しているから、ざっと四時間は釣りをしていることになる。
魚が掛かることも一向にない。それに、粘っても釣れる気配は感じられなかった。
「こんなに釣れないのは久しぶりだなー。今日は大漁な気がしたのに」
落胆する颯太は、唇を尖らせながらリールを巻き始めた。往生際悪くゆっくりと糸を回収していると、その時だった。
「……羽?」
颯太の顔の前に、揺蕩いながら落ちてくるもの。それは一枚の綺麗な羽だった。純白で、それこそ穢れ一つない羽だ。
「――――」
なぜか無性に気になって、颯太は地面に落ちる直前に器用に片手でキャッチする。
「……鳥の羽、にしては綺麗過ぎる気がするな」
これほどまでに綺麗な羽根は珍しいなと、颯太はつい凝視する。
空にかざせば蒼白が見えるほど羽毛は細い。けれど、何故かこの一本の羽根には力強さというか、生命力を感じた。
「この羽根、どっから落ちてきたんだろ」
たかが羽根一枚に執着するほどでもないとは思いつつも、颯太は快晴の空を見上げた。
――あぁ。あのカモメのか。
見上げた先の空に、白い何かを捉えた。颯太はそれをカモメだと解釈して、胸に生じた違和感を晴らす――
「ん? あれ鳥か?」
視線を手元に戻す直前。颯太は首を傾げた。それは違和感を払拭し切れず、胸に生じる奇妙な感覚がより強くなったからだ。
颯太は再び視線をあの物体へ戻した。
「鳥……じゃないな、あれ」
空を落ちる物体。それと手にしている羽根を交互に見やる。どうみても、あれは鳥にしては大きすぎるし、羽もない。
「なんだあれ?」
ならばあの正体は一体なんなのかと、颯太は眼を凝らした。
落下を続けるそれは、雲でも飛行機でもなかった。色は白く、大きさはざっと一メートルくらいか。形で一番似ているのは、颯太だった。
それと海までの距離が五十メートルほどで、颯太は何かに気付く。
形が自分に近い。さらに目を凝らしてみれば、何となくだが腕と足がある気がする。パタパタと靡いているのが服だとすれば、不思議と違和感が消えた。
「……人?」
声に出して、思考する――刹那、背中に悪寒が、脳が警鐘を鳴らした。
息が乱れた。
それと海までの距離が縮むごとに、颯太の心臓は早鐘を打つ。
声に出してしまったあの瞬間から、颯太はもうそれを『人』としか認識できなくなっていた。
「やっばい⁉」
背筋にゾッと怖気が奔る。
颯太は竿とポケットから取り出したスマホを地面に投げ捨てて海に飛び込んだ。
青い波紋を立てて着水。すぐに浮上して、颯太は落下する人の姿を目で追う。その距離はざっと、五十メートルほどか。
「間に合うか……いや、間に合わせなきゃ⁉」
弱音も海に吐き捨てて、颯太はとにかく懸命に泳ぎ出した。しかし、進路を波が阻む。
陸地から距離が離れるほど、海は荒れだす。波は右往左往にうねりを上げ、颯太は抵抗するのが精一杯だった。
「クッソ! 進まねぇ!」
必死になって颯太は突き進む。けれど、自然は容赦なく少年に牙をむく。
手足にいくら力を入れても、波は推進力を根こそぎ奪う。人力で自然に挑むことがいかに無謀か理解する。
「はぁ……はぁ……」
肺が苦しい。息を継ぐのもやっとで、手足に力も徐々に入らなくなってくる。
「なんで、こんなことしてんだ」
思考も鈍くなって、颯太は弱音を吐いた。
今思えば、自力で助けに行く以外の選択肢があったはずだった。投げたスマホで警察でも近隣の漁師にでも連絡できたはずだった。自分の手を使わずともこの状況を解決できる手段はいくらでもあった。なのに、何故、よりにもよって自分が助けに行く選択肢を選んでしまったのか。自分の馬鹿さ加減に呆れた。
「ほんと、なにやってんだ」
歯を食いしばる。腕に、足に、投げやりに力を入れた。
弱音を吐いて尚、それでも助ける為に前に進む理由。それは、颯太自身の答えが出ていたからだ。
「海が好きなら、海で困ってる人は助けなきゃ、だもんな。爺ちゃん」
祖父が遺してくれた言葉の一つ。それを言葉に出して、颯太は危険を冒すのを続行した。
小学五年生の頃だったか。ある日、海で泣いている子がいて、颯太は気にすることなく通り過ぎようとしていた。どうせろくな理由じゃない。そう勝手に決めつけて、去ろうとした。そして通り過ぎようとした時、それまで隣にいた祖父が足を止めてその子で立ち止まったのだ。身長をその子供に合わせて、そして祖父は柔和な声音で問いかけた。「どうしたんだ」と。
最初は知らない人に声を掛けられてビックリした少年も、すぐ何かを察したらしい。子供は泣きじゃくりながら、サンダルが波に持っていかれて、それを追いかけたら貝殻の破片が足に刺さったのだと祖父に伝えた。
それを聞いて祖父は「そっか、それは痛かったよな」と子供の頭を撫でると、ポケットからハンカチを包帯の代わりに少年の足に巻いた。
それは祖父にとって大事なハンカチだったはずだった。祖母との馴れ初めのハンカチだと、颯太は聞いていた。そんな大事なハンカチが血で汚れることを、祖父は躊躇う仕草すら見せなかった。
暫くして子供の親が探しに来た。少年と両親は祖父に感謝を伝えたあと、夕日の歩道を仲睦まじく帰っていった。
その光景をぼんやりと眺めている颯太に、祖父は頭を撫でながら、
『いいか、颯太。どんなつまらない理由でもな、海で困ってる人は放って置いちゃいけないだぞ。海が好きなら尚更だ。いいかぁ、颯太。海くらい広い心を持て。そうすれば、お前が困った時には海はお前の味方してくれっからな』
ガハハッと祖父は豪快に笑いながらそう言った。
それから、颯太は海で困ってる人がいれば、例えどんな理由であれ放って置くことはしなくなった。海が好き以上に、尊敬する祖父の教えだから。
「やっぱり、爺ちゃんはすげぇや」
苦しいのは変わらない。なのに、自然と笑みが零れた。
颯太の進行を阻んでいた波。それが途端穏やかになって、颯太の体を運ぶように流れを変えたのだ。
「はぁッ――はぁッ!」
進め、進めと体を前進全霊で前へ進ませる。
距離が近づく。人影はしっかり目で捉えられる距離だ。もう数十メートルもない。
しかし、人影が大きく見えたのは、決して颯太が全霊を尽くして前に進んだ結果だけではなかった。
どれだけ海が味方をしてくれようが、時間の流れは変わらない。
それに気づいた時、颯太は泳ぐのを止めていてその場に立ち尽くしていた。
バッシャーン‼
ほんの数メートル先。その先で、巨大な水飛沫が上がった。
雷が落ちたのかと錯覚するほどの轟音が鳴り響いて、その衝撃は大きな波紋を生んで颯太の元にまで届く。
降り注いでいた水飛沫はやがて海に還り、波紋は波に呑まれていく。残った颯太は荒い息遣いを繰り返して、
「まだ、まだだ……ッ!」
雑念を振り払い、颯太はロスした時間を取り戻そうと再び泳ぎだす。
数メートル先で落ちたのなら、まだ間に合うはずだと、颯太はその希望を捨てなかった。
「たぶん、この辺りのはず……」
痕跡は完全に消えている。けれど、距離的に間違いはないはずだった。颯太は核心半ばのまま、肺に限界まで酸素を溜める。入りきらない酸素も口内に閉じ込めて、リスの頬をした颯太は眼を抉じ開けて海中へ潜って行った。
『どこだ……何処にいる⁉』
深い蒼の世界で、颯太は血眼になって落ちた人を探した。漂う藻屑を払いのけ、辺りを見渡す。いない。ならば下かと顔を下げれば――
『見つけた!』
自分のほぼ真下、そこに、明らかに魚影ではない黒い影を捉えた。
喜びで酸素を吐きそうになるもグッと堪え、颯太は海中で鮮やかに身を翻す。
海中を蹴って深く潜り出していく。最低限、且つ無駄のない泳ぎで、颯太は人影を追いかけた。
段々と息も限界が近づいて、死にそうなるくらい苦しくなる。
それでも、颯太は今まで一番の安堵に満たれた。
『捕まえた』
伸ばした手は、確かにその影の腕を掴む。
そ腕を引き寄せ、自分の方へ抱くように近づける。温もりがあった。華奢で、今にも消えてしまいそうだった。その体を決して離さぬよう、颯太は浮上していく。
海面の光が近づいてく。
酸素が限界ギリギリの寸前で海面に顔を突き出し、颯太は貪るように空気を吸った。
「うっまー⁉ 空気ってこんなに美味かったっけ!」
当然、空気に味はないが、この時だけは味がしたような気がして颯太は大声を上げた。きっと、これが生きた心地というやつのだと、颯太はその感覚に少しだけ浸った。
しっかりと呼吸を整え、颯太はすぐさま現実と向き合う為に腹を括る。
ここまで来た道のりを、颯太は再び戻らなければならなかった。しかも、状況はさらに厳しくなっている。
体力は尽きかけ、その上、一人抱えて戻らなければならないのだ。
当然だが抱えている人に力はない。声を掛けてみたが返事もない。やはり、意識がなかった。あの落下の衝撃だ。気絶するのも納得がいった。そして、最悪のケースも。
「大丈夫。絶対に帰ってやる」
根拠ない自信を掲げ、颯太は力の無い腕を肩に回し、いよいよ泳ぎ出した。
泳ぎにくさは半端なかった。片腕の状態で前に進む力などほとんどなく、かといって足を速く漕ごうとすれば抱える人の足と絡んでしまって、とてもではないが満足に泳げなかった。
さらに体力は奪われていく一方だった。
それでも懸命に、颯太は陸地を目指して進む。ただ前だけを向いて。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
ようやく、自分が元いた防波堤が見えてきた。そこまでくれば波も穏やかになっていて、力を振り絞れば前に進んでいる実感が確かにあった。
腕も足も、もう力はない。筋繊維はいつ千切れてもおかしくはない状態だった。
全身を倦怠感に襲われながら、颯太は足先に僅かに触れた砂の感触に歯を食いしばった。
視界がぼやける。何度も眩暈がして、一瞬でも気を抜けば意識が飛ぶような気がした。
「あと、ちょっと……」
水中を蹴っていた足が、やっと砂底に触れた。
足先から五指、踵までその感触が広がっていく。鉛のように重い足を引きずるように動かして、颯太の体はついに生還を果たした。
「戻って、これたぁ!」
足がさざ波を蹴って、熱を帯びた砂に颯太の足跡が刻まれていく。
さざ波も届かない距離まで歩いて、颯太は陸地に戻ってこれた感動とともに倒れ込んだ。
「もう無理。マジ限界。一歩も動けん」
視界がちかちかと明滅を繰り返し、息は肩でする。戻ってきた感動の余韻よりも、疲労が勝った。
五分。十分ほど地面に転がり続けて、ようやく息が落ち着く。体力ももはや残っていないが起き上がるくらいには回復した。倦怠感は凄まじく、体を起こす瞬間に強く眩暈が起こる。まだ休みたい気持ちはあったが、そういう訳にもいかなかった。
自分が繋ぐ手。その先に延びる白い肌を追っていく。
「――さてと、この子をどうするかだな」
颯太が助けた人物。
その子は、この世の存在とは思えないほどに可憐な――少女だった。
―― 3 ――
side颯太
――本当に、これでよかったのだろうか。
未だ、眠りから醒めることのない少女の顔を見つめながら、颯太は自問自答を繰り返していた。
あの救出劇のその後、颯太は逡巡の果てに少女の身の安全を自宅で確保することに決めたのだった。
理由はいくつかあるが、最大の理由は少女の『経緯』だった。
『空から少女が降って来たこと』自体が颯太にとってはまさに青天の霹靂なのだが、さらに驚くべきことは。
「財布ひとつどころか、何も持ってないって……どうやって生きてたんだ、この子」
少女は何も所持していなかったのだ。
少女が着ている――厳密にいえば着ていたワンピースだが、ポケットは着いていなかった。ならばリュックはどうかと探れば、そもそも颯太が海中で少女を救いあげた時には既に背負っていなかったはずだ。落下した時点で海に沈んだ可能性があるが、最初から何も所持していなかった可能性も大いにあり得た。
故に、颯太は少女の名前は勿論だが、身元や住所、彼女の知り合いに繋がるような手掛かり――要するに少女にまつわる情報を一切得られない状況という訳だ。
何か一つでも情報を得られれば、防波堤に投げ捨てたスマホを回収した時点で救急車を呼ぶことができた。そして、警察に事情を説明すれば全て綺麗に解決しただろう。
当然。意識のない人を医者が放って置くはずはない。ただ、砂浜に上がった時には,少女に息はあったし、脈も正常に働いていた。ならば、目を覚ますまで安全な場所に少女を確保してあげればいいと思ったのだ。
それから少女が目を覚ませば、警察に引き渡せばいい。そうすれば、少女は元いた場所へ帰れるはずだった。
そう判断した結論が今に至るわけだが、
「ぜんっぜん、起きる気配がないんだけど」
小さな寝息だけが聞こえて、颯太は焦りと後悔が混じったため息を吐いた。
少し考えれば、息はあっただけで少女が覚醒する保証は最初からなかったのだ。もしかしたら、このまま目覚めないかもしれない。もし、一カ月、二カ月――それ以上の期間、少女が目を覚まさなかったら? そんな思考が過った途端、背中に怖気が奔った。
「やめよ。考えたら頭痛くなってきた」
頭を振りかぶり、脳裏に過る畏怖の念を無理矢理に払った。本当に面倒なことになってしまったなと、この選択を取った自分を殴ってやりたくなった。
「……お茶でも飲むか」
とりあえずスマホの電源を点ければ、時刻が十二時を回ったことに気付く。ちなみに、あの時咄嗟に投げ捨てたスマホだが、回収時にフレームはひどく欠けていた。不幸中の幸いだったのは、画面に大きな罅割れがなかったことだ。
まぁ、起動するし動作も正常なら問題はないな、と颯太は画面をタップしながら呟く。そういえば何か大事な予定があった気がするな。と思いつつも、今は喉がカラカラだった。体が早急に水分を欲している。
よし、とリビングに向かう為に立ち上がろうとした時だった。
「イテテ……明日は全身、筋肉痛だな」
立ち眩み、さらに筋肉が軋む痛みに襲われる。
ここ数カ月、全く運動なんてしていなかったツケが思わぬ形で返ってきた。全身、満遍なく襲い掛かる鈍痛に辟易としながらも、颯太はゆっくりと立ち上がった。そして、今日の夜は入念なストレッチをしようと内心で呟く。
部屋から出る直前も、颯太は少女の寝顔を確認する。けれど、掛け布団は呼吸に合し小さく揺れていて、やはり起きる気配はなかった。
なるべく音を立てぬよう静かに扉を閉め、颯太はリビングへと向かった。その間にも頭には少女の存在が離れず、呆けた意識は見事に階段を踏み外した。
「あっぶな」
ガクン、と体が宙に浮く感覚を一瞬味わうも、寸前でどうにか態勢を立て直して惨事は逃れた。鼓動が早鐘を打つのを落ち着かせながら、颯太は慎重に足取りを進めた。
まだ少し震える足でリビングへ着くと、そのまま一直線に冷蔵庫に向かった。
「ようやく、一息吐けそうだ」
開けた冷蔵庫から漏れる冷気を浴びて、颯太はため息交じりに麦茶の容器を取り出した。
昨日仕込んでおいた麦茶だが、一日置いたかいがあって鮮やかな小麦色を出していた。外気に触れて結露を垂らす容器を片手に、颯太はもう片方の手で食器棚からコップを取り出す。
コポポ、と小気味よい音を奏でながら麦茶がコップにたっぷりと注がれ、颯太は思わず生唾を飲んだ。
「ぷっはぁ、うまぁ」
喉が液体を通す音が自分の耳に響く。それだけ体が水分を欲していたし、颯太も枯渇していた胃袋が潤される実感にたまらず笑みがこぼれてしまった。普段何気なく飲んでいたものが、これほどまでに美味しいと感じた事はなかった。それこそ、あの死地を体感しなければ得られなかった事実だ。
「これからは感謝して飲まなければ、麦茶様……いや、麦茶神か……ま何でもいいや」
数十秒前は容器に詰まった小麦色の液体がオアシスに見えたが、乾きが満たされた今はただの麦茶だった。感謝もほどほどに、颯太は二杯目を汲んでいく。
コクコク、と麦茶を飲み進めながら、颯太はぼんやりと今後の事を思案していた。
少女の身の安全を優先にした結果、自転車と釣り竿は今、防波堤に置きざりにしてある。そして、残念なことに自転車の鍵は海の中だ。今頃、海中深く沈んでいる頃だろう。一応、スペアの鍵は玄関にあるからいいとしても、問題は竿の方だ。使っていたのがそれなりに高級な竿だったので、その所在だけは不安だ。盗られてないかは神に祈るしかなかった。
「バケツはいいとしても、イソメはもう駄目だろうなー」
木箱に入ったイソメも、今頃は直射日光を浴び続けて死んでいるはずだろう。もしくは、木箱から脱出して海にダイブしているか。ならせめて、後者であってほしいと思った。
――とりあえず、あの子が起きるまでは何も手をつけられそうにないな。
諸々の不安は尽きないが、結局のところ、少女が覚醒するまでは何も手を付けられないのが現状だ。もし、颯太が荷物を取り戻しに行った際中に少女が目を覚ませば、きっと少女は自身の現状に混乱してしまうだろうから。
その時、傍にいて何かできるのは、自分しかいない。
「戻るか」
グッ、と残った麦茶を喉に押し込んで、颯太は再び自部屋へと戻っていく。
十分に休息がとれたおかげか、体は先よりもだいぶ楽になった。ふらつきはするが、それもマシになった方だ。
足取りも確かに、階段を踏み外すことはなくなった。足が木板を軽快に踏み鳴らし、そして扉の前でピタリと止まった。
「…………」
妙な緊張感が手に伝わって、ドアノブを捻る手が慎重になる。たっぷり数秒かけて五指で掴み、ゆっくりとドアノブを捻った。
静かに開ける扉から、きぃぃ、と目障りな音が鳴ってしまう。その音に思わず颯太の方が心拍数が上がってしまって、部屋の奥を覗くのに時間がかかってしまった。
「――やっぱり、起きてないか」
部屋の中が目線に入った瞬間から何となく察してはいたが、やはり、少女は未だ布団から起きてはいなかった。
肩を落としながら颯太は部屋に入り、少女の目の前に胡坐をかいた。
「――――」
窓から差し込む風が、颯太の胸に沸き立つ不安を僅かながらだが和らげる。それでも、泥のようにへばりついた嫌な感情が、自分の首を絞めつける。
その畏怖に少しでも目を逸らしたくて――少女に早く目覚めて欲しくて――颯太は無意識に指先を少女の頬へと伸ばした。
恐怖と祈りが混じり合った指先が、少女に触れようとした、その時だった。
「――ん」
少女が息を吐いた。
どちらの想いが強くて引き起こされた結果なのかは分からないけれど、それは確かに颯太の耳朶に響いた。
それを聞いた瞬間、颯太の意識が現実に返る。瞬きを三、四回繰り返して、少女の顔を凝視した。
「お――」
おい、と肩を揺さぶろうとしたが、寸前でその衝動を抑える――否、体が動かなかった。
どうしてなのかは、颯太自身、すぐに理解した。
それは、少女が目覚める一瞬の出来事。その刹那の時間に、颯太は見惚れたからだ。
――窓から差し込む光に、その瞼が一度、ギュッ、と強く閉じられる。そして、今度はゆっくりと、まるで、世界の色に初めて触れるように、金色の瞳は開かれる。
燦然と輝く瞳は、ぱちり、ぱちりと瞬きを繰り返す。世界の色を吸収していく金色の瞳は、取り込んで尚、燦然と輝き続けていた。
この世に無二とない瞳に心奪われていると、その瞳がぱちりと瞬いて、颯太を捉えた。
「――ココ、ハ……」
まだ意識が完全には覚醒していないように、少女の声は弱々しかった。
初めて聞いた少女の声。それにハッと我に返ると、颯太はぎこちなく答えた。
「あ、あぁ。ここは、俺の部屋だよ。安心して、何も変なことはしてないし、安全な場所だから」
少女の容体を最大限に気遣い、颯太は自身に警戒心を向かせぬよう両手を上げた。
「えっと……」
「――――」
少女は朧げな目で颯太を見つめていた。じっと、まるで何かを探るように。その目に捉えられて、颯太は思うように動けない。
――気まずい!
少女が次に話してくれるのを待つのか、それとも自分から話すべきかで揺れて、颯太は目を泳がせる。
目覚めたばかりの少女にあれこれ話をしても理解できないだろうし、かといって状況を上手く飲み込めていないはずだ。もう少し様子を見て、それから説明しても遅くはないはずだ。
とりあえずは少女の回復を優先に順序を組み立てていると、
「あっ、まだ無理しない方がいい……」
少女が突然体を起こそうとして、颯太は慌てて制止させようとする。
「く……うぅ……」
「おっとと、ほら、安静にしてなきゃ」
起き上がろうとして、少女は途中で頭に激痛が走ったように呻き声を上げる。苦しむ少女の肩に手を掛け、颯太は再び寝かせようとする。が、
「……ドウシテ……ココハ……?」
少女は頭を抑えながらも颯太の制止を無視して起き上がろうとするから、颯太はつい口調が強まった。
「おいっ、まだ安静にしてなきゃ駄目だって言ってるだろ」
「――――」
ぐっと力を込めて、颯太は少女を半ば無理矢理布団に戻した。自分の行動を邪魔されたのか不服だったのか、少女はムッと頬を膨らませた。
「やっぱり、病院に連れて行った方がよかったかも」
「――――?」
後悔するように呟くと、少女は困惑した風に眉根を寄せた。
まるで何を言っているのか分からない。そんな表情をしていて、颯太はふとある予感に目を細めた。
「……ねぇ、キミ、俺の言葉、判る?」
「?」
「あー。そういうことか」
容姿からして日本人ではないだろうなと思っていたが、少女の反応で確定した。
「つまり、この子は外国人……じゃあ、日本語は通じないってことだよな」
それなら、と颯太は久々に頭を回転させた。
「ええと……グッモーニン?」
「?」
「なら、ハロー? マイネイム、イズ、ソウタ・ミヤヂ」
「???」
「あれ、これも通じない?」
てっきり英語なら通じると思ったが、少女はより困惑するだけだった。
「じゃあ、なんの言語なら通じるんだよ。スペイン語かそれともロシア語?」
少女の容姿とスマホを交互に見ながら、颯太は少女に通じそうな言語を探す。
「わっかんねーな。ていうか、仮にその言語が通じても、話せなきゃ意味なくないか? ……ってうお! だから起きちゃ駄目だって言ったじゃん」
気がつけば画面に夢中になっていて、颯太は上半身を起こしていた少女に肩を掴まれた。
「アノ……ココハ、ドコデショウカ?」
「へ? 日本語、喋るの?」
随分と片言ではあるが、意味ははっきりと通じた。拍子抜け感が否めないが、颯太は気を取り直して少女の質問に答えようとした。
「まぁ、色々言いたいことは一旦置いておいて……ここが何処か、だったよね。そういえばさっきも聞いてきたな。まぁいいか。ここは俺の部屋だよ」
「アノ、ココは、どこでしょうか?」
「あれ、おかしいな。通じなかったか?」
質問には答えたはずだが、少女は微妙な反応をしてまた同じ質問を繰り返した。
「いや、だからここは俺の部屋、だけど」
「あの、ココはドコですか」
「はぁ、さっきから何なんだよ。ていうか、なんか発音よくなってない? 気のせい?」
そんな颯太の疑念を、少女は長い髪をブンブンと振り乱して掻き消した。
「そんなコトはどうでもヨクテ!」
「うわっ、急に大声ださないで。びっくりするわ」
「ご、ゴメンナサイ!」
「お、俺もなんかごめん」
肩をびくりとさせた颯太に、少女は慌ててぺこりと頭を下げた。先程までのやり取りが嘘だったかのように反応を返す少女に、颯太は違和感を募らせる。
颯太は怪訝そうに少女を見つめるも、当の本人は気にした様子もなく「はて?」と小首を傾げている。
颯太はやれやれとため息を吐くと、今一度、少女の求める答えを考えた。
おそらくは外国人であろう少女。一つ目の質問が否定されたということは、限定的な場所ではないということだろう。
「うーん。たぶんなんだけど……キミが聞きたいことって、ココが日本か外国か、ってことでいい?」
「! ハイ!」
颯太の自信のない問いかけに、しかし少女は目を見開いて頷いた。
なら、と颯太はぎこちなく答えた。
「此処は、潮風町っていう町。日本て国の、千葉県の端っこだよ」
「シオカゼ……二ホン……チバケン」
「大丈夫? 理解、できてる?」
颯太の言葉を、少女は難しそうな顔で復唱する。少女が望む回答が出来たかは不安だったが、それは颯太の杞憂だった。
それは颯太の言葉を復唱した少女の顔が、段々と驚愕に変わっていくのを見たからだ。
「……それじゃあ、ココは、ワクセイ・チキュウ?」
そんな大規模で答えたつもりはなかったが、少女の壮絶な表情のまま硬直した。どうしたのか、そう訊ねようと顔を覗き込もうとした瞬間、途端に鬼気迫る表情となった少女に肩を掴まれた。
「ホントに、ホントにそうナンですねッ。ココは――チキュウなんですね⁉」
「そ、そうだけど。それがどうしたんだよ」
訳が分からず、ただ問い掛けられる質問に相槌を打つ颯太。ここまで動揺する理由が理解できずいる颯太に、少女の震える声音が届く。
「そんな。……どうして? 私、天界から堕ちて、そのまま消えたはずじゃ……」
消えた、となにやら気になるフレーズが聞き取れたが、颯太が反応したのはそこではなかった。
「へぇ。驚いた。空から落ちてきたこと、覚えてるんだ」
まさか少女が落下している時の記憶を持っているとは思いもよらず、颯太はならば説明することに手間はなさそうだと安堵したが、少女はそうではなかったらしい。
「っ! あなたは、ワタシがソラからオちたのシってるんですか⁉ ナラ、そのトキのことクワしくキかせてクダサイ!」
「いや、知ってるもなにも、あそこにいたの俺だけだったし、それに、キミを助けたのは俺だからね」
言い方に恩着せがましさがあったが、少女を助けた事実は変わらない。
それにそろそろ、この一方的な質疑応答にも嫌気がさしてきた。
「あのさ。キミが聞きたい事。俺が知ってる事全部話すから。まずは落ち着こう。話はそれから、いい?」
「ご、ごめんなさい」
颯太の疲弊した表情から少女も何かを察したのだろう。しゅん、と叱られた子供のようにしおらしくなってしまう。
「と、その前にこれだけは聞いておかないと」
「な、ナンでしょうか?」
知りたいこと、聞きたいこと、山ほどある中で、颯太は少女が目を覚ましたらまず初めに聞こうと思っていたことをようやく言葉にした。
「キミ、どっから来たの?」
その問いかけに、少女は目を伏せた。窓から生温かな風が滑り込み、二人の間をすり抜ける。
少女の吐息が風に運ばれると、金色の瞳はゆっくりと開いていく。
やがて、金色の瞳は黒瞳と見つめ合うと、少女は凛然とした顔で告げた。
「私は、アリシア。天界から来た――天使です」
告げられた言葉に、颯太は声も出せず瞠目した。
それは、颯太の人生観をひっくり返した瞬間だった。
―― 4 ――
side颯太
空から降って来た少女――アリシア。その正体はなんと、神が創造した世界『聖域』 から来た天使だった――
「うん。嘘吐くならもう少しマシな嘘にしようか」
「嘘じゃありませんけど⁉」
当然、そんな話を信じるはずもなく、颯太は容赦なくアリシアの発言を否定した。
「ホントなんです! 私はほんとうに天使なんですよ!」
涙目で抗議するアリシア。だが、颯太は「いやいやぁ」と失笑しながら、
「普通、信じないから。作り話ならもっとうまく作ったほうがいいよ。スケールがデカすぎて、凡人には理解できないから」
「ぼす、すけーる?」
聞き慣れない単語に首を捻るアリシア。それに颯太は肩を竦めた。
やはり、落下した影響で脳にダメージがあったようだ。起きてから間もないが、現時点で意識ははっきりしているようだと安堵したものの、まさか、起き抜けにこんな出鱈目話を切り込んで来るとは想像もしていなかった。少し見た目が可愛いからといって、自分を天使と名乗るには流石に無理がある。
「あぁ、そういうことか。つまりキミは、自分が天使ぐらい可愛いって言いたい訳か」
「突然なにを言い出すんですか……違います。私は本物の天使デス」
ぱちん、と指を鳴らして答えた颯太に、アリシアはきっぱりと否定する。
「やっぱ、病院に連れて行った方がよかったか」
「そのビョウイン、というものが何なのかはわかりませんが、でも何故でしょう。まったくいい気がしません」
本気で後悔している颯太に、アリシアはムッと頬を膨らませた。
颯太は疲労で淀んだ瞳でアリシアを見つめた。
「な、なんデスカ……」
「いや特になにも……」
どうしたものか、と颯太は乱暴に頭を掻きながら苦悶した。
アリシアが嘘を虚言しているのなら、不審な挙動があってよかった。が、現状アリシアにそれがないのだ。まるで本当に自身が天使であると疑ってすらないかのように。
だからこそ、颯太の疑心は尽きなかった。
それが嘘か真か。本音を言えば、正直どうでもよかった。
問題なのは、その発言が、脳の機能に障害を及ぼした影響によるものなのか否かだ。
颯太が危惧はまさにそこであり、そして恐怖だった。
彼女の発言が日常的によるものならばなんら問題は――あるがここは意図的に切り離す――ない。が、今の状態があの落下による脳の異常、つまり、記憶が一時的に混乱しているならば状況は大きく変わる。今すぐに少女を病院に連れて行き、検査を受けさせねばならない。
その為の判断材料が曖昧なせいで、話が思うように前に進まないのだ。
アリシアの発言は明らかに出鱈目だ。けれど、その顔は、嘘偽りなどついていないと断言しているようにも見えた。
一向に解決の糸口が見つからず、颯太は眉間に皺を寄せた。
颯太は渋々ながらも、一つアリシアに訊ねてみる事にた。
「なら、キミが天使っていう証拠をみせてくれ」
「ショウコ……ですか」
「そう。それが、俺がキミの話を信じるのに一番手っ取り早いから」
アリシアは颯太の言葉に戸惑いを浮かべた。
この提案は、アリシアが虚言を吐いているなら明らかに不利な誘導尋問だ。颯太は無い物を見せてみろ、と言っているのと等しいのだから。
――さぁ、どうする?
案の定。アリシアは困った風に顎に手を置いて考え込んでいた。
しかし数秒の沈黙の後、アリシアは「うーん」と不安そうに呻りながらも目を開いて、
「わかりました。私が天使であるショウコをお見せすれば、信じてくれるんですね」
「あ、あぁ……そう。あれば、だけど」
意外な返答を受けて、颯太はぎこちなく頷いた。
――まさか本当に証拠を容易できるのか。
いったいどうやって証明するつもりなのか、そんな興味が少しだけ湧いた思考に突然、温もりが割って入ってきた。
「な、なにしてんのさ」
見れば、アリシアが颯太の手を握っていた。
「いいからそのまま、あそこを見てください」
「は、はぁ」
アリシアの行為に理解が追いつかぬまま、颯太は言われるがまま窓の方を向いた。
「ええと、これがキミが天使だっていう証拠にどう繋がるのかさっぱりなんだけど……」
「どうですか、視えませんか」
「視え……え?」
颯太の戸惑いの声に気にする様子もなく、アリシアはそう問いかける。
「視えるも何も……空しか見えないけど」
座っているせいで視線には限界がある。窓枠から覗く景色はせいぜい雲が一つ二つ見える程度だ。
「なら、このまま、もっとあそこへ近づきましょう」
と、アリシアは掛け布団を剥いでゆっくりと起き上がった。颯太はアリシアの命令通り、立ったアリシアの手を離さぬよう遅れて立ち上がる。
そのままアリシアに四角形の窓へ誘導されて、
「あれです」
とアリシアは窓から外の景色を一瞥した後、颯太に続くようにと顎を引いた。
まるで、外に何かがあるような言い方だ。
「いったい空に何があるのさ」
颯太は訝し気にアリシアが見ていた方向に窓から空を覗いた。
空に何があるからといって、それがアリシアが天使である証拠にはなんら関係ないはずだ。それなのになぜ、アリシアは颯太に空を見せるのか。もしかしたら、隙を伺って逃げ出すつもりなのかもしれない。けれど、アリシアは颯太の手を握ったままだった。
いったい、空に何が見えるのか。何も見えないはずだと決めつけて空を見た――その矢先だった。
あれ? と黒瞳が瞬く。
「ん?」と思わず声が漏れた。
「『視え』ましたか?」
どこか嬉し気に問いかけるアリシア。
「え、あれ? え?」
驚愕のような、困惑のような形相をした颯太の顔が、アリシアと空に挟まれて何度も行き来した。
「よかった。もしかたら視えないかもしれないと思っていたので、私も安心しました」
安堵に胸を撫で下ろすアリシア。しかし、颯太はそれどころではなかった。
ごしごし、と颯太は己の目を強く擦った。そして、空を凝視する。
――なんだ、あれ⁉
窓枠越しに、それは確かに颯太の目に映っていた。
ベールのようなものに覆われているせいなのか、正確にはその全容を捉えることはできない。が、それは人の目に届くところに確かにあって、しかし届くことはないのだと瞬時に理解した。
まず分かったのは、それが人工物があること。おそらく住居区であろう建物の羅列に、頂上にあたる部分には神殿のようなものがあった。建物の土台は巨大な岩石で、山がひっくり返ったような形をしていた。
「……空島だ」
ぽつりと、颯太の口からそんな単語が零れた。
現実にあるはずのない存在だが、漫画や映画ではよく登場する、いわば架空の島だ。
その背景の殆どが人ならざる存在――つまり神やそれに比類する存在の住処として使われるが、まさか現実にあるなどとは想像にも及ばなかった。
「あれは空島などではありませんよ」
唖然とする颯太の耳に、アリシアの否定する声が入ってきた。
その声に意識を返し、颯太は今まさに真実を告げようとする少女の顔を見つめた。
「あれが、神が創造し、天使が宿された使命を果たす場所――『天界』です」
颯太の目を真っ直ぐに見つめたまま、少女――天使・アリシアはそう告げた。
「はは……」
乾いた笑い声。その声の主は自分だった。
まさか、自分にこんな非日常が訪れるなんて思いもしなかった。
空から降って来た少女が実は天使で、天界という、およそ人間が視ることのできない存在すら視えるようになってしまって――
「とりあえず、キミが天使だってことは信じるわ」
それが今、颯太が彼女の発言を信じてこなかったことに対してできる精一杯の償いかただった。
「だから言ったじゃないですか! 私は天使だって」
階段を降りている途中、後ろでアリシアが不服そうに頬を膨らませていた。
「疑ってごめんて。言い訳のつもりはないけど、いきなり天使って言われて信じるほうが無理があるからね。ごく平凡な日常を生きてる庶民からすれば、こんな非日常イベントが起こるなんて想像できなから」
「? でも、最初は驚いていたわりに、意外とすぐ冷静になったように見えましたよ?」
「まぁ、こういうのは何事も受け入れてこそだから」
意外と慧眼なアリシアに、颯太は適当なことを言ってその場を退けた。
あの時、受け入れたというより思考を放棄した感覚に近いが、それでも颯太が瞬発的に平常心を取り戻したことに変わりはない。ただほんの少しだけ、まだ『天界』が視えたことへの驚愕の余韻が残ってはいるが。
複雑な感情を抱きながらも颯太は階段を降り切り、その後に続くアリシアに顔を向けると、
「よっ。ほっ、ほっ、はっ」
どうやら木板を踏む感覚が新鮮なのか、木造建築に慣れない天使は奇妙な声を上げながら階段を降りていた。
苦笑を交えつつアリシアが階段を降り切るのを見届けると「こっち」と指さしながらリビングへ向かう。
――なんか、変な感覚だなぁ。
後ろから続く足音に、颯太はむず痒さを覚える。
自分以外がこの木板を踏む音は久しぶりに聞いた。無論、みつ姉はこの家に何度も訪れているが、彼女の場合、何年も前から部屋に上がっているので今更足音など気にしたことがなかった。
トタ、トタ、トタ、と軽やかな足音だった。
体重は乗っていない。けれど、確かにその場にいて、自分について来る。それが判る。
「……爺ちゃんの足音は、もっと五月蠅かったな」
「? どうかされました?」
「いや、なにも」
ふと、憧憬が脳内に再生されて頬が歪んだ。けれど覗き込もうとしたアリシアに意識が割かれ、颯太は慌てて残影を振り払って前を向く。
それから数十歩歩いて、二人はリビングに着く。
「飲み物持ってくるから、キミは座って待ってて」
「はい」
颯太は四つあるテーブルの一つを引くと、そこにアリシアは腰を落とした。
そわそわと落ち着かない様子のアリシアに気を配りながら、颯太は台所のほうへ。そして冷蔵庫を通り抜け、流し台まで行くと、颯太はアリシアから隠れるように尻もちを着いた。
「なんか……どっと疲れたわ」
これまでで一番深い吐息が零れた。
頭が異常に重い。
当然だ。颯太が生を受けてからの十六年間の概念をたった数分でひっくり返す事実を聞かされたのだから。それらの情報を脳が整理しようとして仕切れずパンクを起こしている。どうやら、肉体の疲労より、精神的な疲労の方が勝っているらしい。
「あと一分だけ休もう」
そう決めて、颯太はしばらく瞳を閉じた。
休むにはとても短い一瞬で、開こうとした瞼がやけに重たい。それでもどうにか目を開くと、颯太は両手両足に力を込めて立ち上がった。
呼吸を整え、アリシアのもとへ戻る前に氷を入れたコップに麦茶を注ぐ。両手に持ったコップが、カランと氷が揺れる音を立てながら白銀の少女を映した。
「お待たせ。はい、麦茶」
「あ、ありがとうございます」
片方の手に持つコップをアリシアの前に置く、もう片方のコップを持ったまま颯太も背を椅子に預けると、流れるまま麦茶を飲んだ。
「ぷっはぁ、うま」
キンキンに冷えた麦茶をぐびっと飲むと、思わず声が漏れてしまった。その様子をアリシアはジッと見ていたが、颯太は特に気にすることなく、
「というか、本当に天使なんだ」
「は、はい。まさか、まだ疑ってるんですか?」
「違う、違う。ただ、ぱっと見、俺たち人と見た目変わんないなぁ、と思って」
「そう、ですね。私も本物の人間は初めて見ましたが、まさか、私たちと容姿がこれほど酷似しているとは思ってませんでした」
どうやら天使も人と姿形が似ていることに驚愕したのは一緒らしい。
「というか、まんま人なんだよなぁ」
そう呟いて、颯太は改めて、アリシアという天使を観察した。
人間に近い容姿。本物の天使に性別があるかは不明だが、アリシアは顔立ちや容姿からすれば間違いなく女性、いや、身長的になら女の子と区別するべきか。身長は大体150センチ前後で、高校生にはとても視えない。全体的に華奢な体躯や幼さのある顔立ちから、中学二年生くらいの印象だ。
けれど、その愛らしさとは別に、どこか超然とした何か感じた。
外見は人間と瓜二つ、だが、与えられたものが圧倒的に違う。
華奢といっても腕や脚は曲線美を描いており、肌は真珠のように白く滑らかだ。
髪の毛は腰まで届くまで長く一本一本の繊維が見えた。そしてその色は世界中で彼女のみが与えられた、燦然と輝く白銀だ。
顔立ちも幼さがあるがやはり神の使い。見紛うことなく、絶世と呼ぶに相応しかった。
黄金比という理想の位置に精緻された顔のパーツたち。細い眉。ツンと立ったまつ毛。そして白銀の髪同様、猫のように丸い瞳は彼女のみが与えられた黄金の色だ。筋の通った鼻に、淡い桜色の唇。
人間離れした美貌であることは明瞭。けれどそう思わせないのはやはり、眼前の天使の『幼さ』なのだろう。それが美貌と奇跡的に混ざり合い、神々しさを相殺しているのだ。もしアリシアの『幼さ』という印象がなかったら、颯太はあの時天使と言われた時点で肯定していたかもしれない。
「あの先程からあなたから妙な気配を感じるのですが……」
とアリシアは耐えかねたように己の肘をきゅっと抱えて体を退いていた。
「失礼だな。俺はただ、天使がどういうものなのか観察してただけだよ」
「それならそれでいいんですけど……ただ視線が恐ろしかったといいますか不気味だったといいますか……」
不純な気持ちなどありもしなかったが、結果的には女の子をまじまじ見ていたことに変わりはない。どうやら、眼前の天使の好感度を下げてしまったようだ。
「まぁ、好感度は置いておくとして、一つ気になる事があるだけど、その質問、してもいいかな?」
「はい。私に応えられる範囲であれば、どうぞ聞いて下さい」
姿勢と表情を元に戻したアリシアから許可を得て、颯太は「それじゃあ」と一つ咳払いして問うた。
「俺たちの知ってる天使ってさ、背中に羽が生えてるんだよね。でもさ、キミには生えてないんだけど、もしかして、本物の天使は羽ってないの?」
教科書・伝承に神話。語り継がれていた歴史に記された天使たちにはその存在を象徴するように羽が描かれていた。
けれど、本物の天使はアリシアのように、本当は羽など生えていないのか。
見たい、という好奇心より、知りたいという純粋な欲求だった。
颯太のその質問に、アリシアは複雑な表情を作って答えてくれた。
「えぇ。あなたのおっしゃる通りです。天使には皆、この背に羽が生えています。けれど私は、この世界に落ちた間際に全て抜けて散ってしまいました」
そう告げたアリシアの顔は、寂しそうな、なのにその事実に安堵しているように見えた。
「そっか……ごめん。たぶん、聞いちゃいけないやつだったよね」
「気にしないでください。そうなるべくしてなっただけですので」
「それってどういう……」
追及しようとして、颯太はその先を呑み込んだ。それを聞く資格は自分にはないはずだ。それに、彼女の表情からして、天使にとって羽はやはり大事なものなのだろう。失ったことを知らなかったとはいえ、軽率に聞いてしまった自分をぶん殴りたくなった。
それからどう声を掛けるべきか迷ってしまって、颯太とアリシアの間に重い沈黙が続く。
数秒。数十秒の間を破ったのは、アリシアの「あっ」と何か思い出した声音だった。
「そういえば、まだ助けて下さったことに、きちんとお礼をしていませんでした」
「あぁ、別にいいよ。そんなこと。お互い、命があって何よりだ」
果たして人命救助がそんな事かどうかはさておき、今のアリシアに感謝される訳にはいかなかった。
けれど、アリシアは納得いかないと首を横に振った。
「そんな訳にはいきません。この身体を救ってくださったご恩、今の私がすぐに恩返しできることは出来ませんが、それでもせめて、気持ちだけでも受け取ってください」
彼女の真っ直ぐな瞳に訴えかけられて、颯太はたじろぐ。
「はぁ……わかった」
彼女の気持ちに折れて、颯太は頷いた。
そして、アリシアは姿勢を正すと深く頭を下げ、
「私なんかを助けてくれて、ありがとうございます」
「……。ん、どういたしまして」
アリシアの感謝の言葉に引掛りを覚えながらも、颯太は素っ気なく返した。
――まだ、言葉に慣れてないだけだよな。
そう解釈して、颯太はアリシアに顔を上げさせる。
ゆっくりと顔を上げたアリシア。するとまた「あっ」と声を上げた。
「今度はなに?」
「そういえば、まだあなたのお名前を聞いてませんでした」
アリシアに指摘されてようやく、颯太も名乗ってなかったことに気がついた。
「聞かせてください。貴方の名前を」
アリシアが金色の瞳が颯太をみつめる。じっと、ただ名前を聞く為に。
名前を言うだけ。なのに、心臓の鼓動が五月蠅い。
それを少しでも和らげようと小さく、けれど深い息を吐いて、
「俺は宮地颯太。颯太、でいいよ」
「はい。――ソウタさん」
瞬間。この空間にだけ大輪の花が咲いたのかと錯覚させるほどの笑顔に、颯太の心が沸き上がった。
――調子、狂うなぁ。
「ソウタさん? どうかしました?」
「いや、別になにもないよ」
さらりと前髪を落としながら覗き込むアリシアに、颯太はそっぽを向いた。
何かの間違いだ。自分が笑顔を向けられただけで惚れる訳がない。顔がいくら可愛いからといって、それでコロッと落ちるタマではないと自負している。それに、相手は天使だが見た目は子供だ。つまり、恋愛は対象外。
内心で続く言い訳とは裏腹に、心臓の高まりは止まない。
それを紛らわせるように、颯太は麦茶を勢いよく飲み干した。
「……どしたの?」
お替りしようか悩んでいた時、ふとアリシアがじーに見つめていることに気付き首を捻ると、アリシアは「あの」と自分の手先にある麦茶を見つめながら言った。
「先程からソウタさんが口に運んでいるそれが気になっていて。これはなんですか?」
「これって、麦茶のこと?」
「ムギチャ……」
オウム返しするアリシア。その反応に颯太は目を瞬いた。その数秒後、納得する。
「そっか。天界には麦茶はないのか……いや待て、もしかして、この世界の知識は殆ど持ってない感じ?」
アリシアは申し訳なさそうに肯定した。
「はい。お恥ずかしい限りですが」
「恥ずかしいことはないと思うけど。俺も外国語になると分からないことだらけだし。あれ、でもさ、アリシア。キミ、普通に日本語で喋れてるよね?」
知識がないのであれば当然、日本語で会話することなど不可能なはずだが、しかしアリシアは颯太とすんなり会話ができている。
そんな颯太の疑問に、アリシアは神妙な顔つきで言った。
「感覚があったんです」
「感覚?」
「えぇ。起きた時に、頭の中に何かが入ってくるような感覚がありました。おそらく、私がこの地で人と関わり合うのに必要最低限の知識を神様が与えてくれたのではないかと思います。そのおかげで、こうして今、ソウタさんとお話できているのではないかと」
「なるほど、ね。確かに起きたばかりは言葉が通じてなかったように見えたけど、すぐに日本語でココが何処か聞かれたしな」
アリシアの説明通りならば、颯太の疑問にも強引ではあるが辻褄が合った。神様、なんて存在は信じ難いが、アリシアの驚異的な言語習得の速さが根拠なら文句は言いづらい。
兎にも角にも、アリシアが日本語を理解し話せるなら僥倖だった。
「話せる言語が日本語だけかは分からないけど……今いるのが日本だし、日常生活に支障はなさそうだな……あ、でも、」
颯太はもう一つ重要なことを思い出す。会話と同じくらい大事なことを。
「アリシア、読み書きはできる?」
「ええと?」
「おっとマジか」
困った風に首を傾げるアリシアに今度こそ颯太は絶句した。反応からして、どうやらアリシアは読み書きができない。ただ、もしかしたら神様の恩恵とやらで自覚はないが書けるかもしれない。
颯太はその事実を確認するべく立ち上がると、アリシアに「ちょっと待ってて」と言い残し電話台に向かう。そこにあるメモ用紙を一枚剥がし、ペンを取って机に戻る。
「あの、何をしてるのでしょうか……」
「んー。ちょっとアリシアにテスト~」
気になって仕方がないのか、アリシアは颯太が書いているのを覗き込む。すらすらとペンを走らせ、コト、とペンを置くと、颯太はひらがなで書いた文字をみせた。
「これ、なんて書いてあるか分かる?」
「いいえ。何かの象形文字でしょうか」
「象形文字は知ってるんだ……」
意外な発見をしつつも、颯太は即座に否定したアリシアに苦笑い。そして、事態が予想より深刻だった。文字が読めないとは、つまり大問題だった。
そんな颯太の心情とは対照的に、アリシアはメモ用紙に書かれた文字を右や左に角度を変えながら眺めていた。
「それは「ひらがな」っていうだ」
「なるほど、「ひらがな」と書かれているんですね!」
「違う。「ありしあ」って書いてあるんだ。キミの名前。ひらがなでそう書くんだよ」
「ほほぉー」
まるで幼稚園生相手に勉強を教えている気分だった。目をキラキラさせてメモ用紙に書かれた自分の名前を見つめるアリシアを尻目に、颯太は何度目かも忘れた重い溜息を吐いた。
由々しき事態だ。
話せる以外の能力が殆ど皆無となれば、日常生活は困難を極めるに違いない。意志疎通が可能なだけ幸いだが、それでも、読み書きが出来なければ苦労は絶えないだろう。
アリシアの今後がいよいよ不穏になってくる。それに、少女にはあるのだろうか。
自分の名前を嬉しそうに眺めているアリシア。そんな彼女に、颯太は「もう一つだけ、確認させてほしいことがある」と前置きすると、
「アリシア、キミには行く宛てがあるのか?」
「――――」
反応から、答えはすぐにわかった。
言いたくはないであろう事実を言わせるのは酷だ。けれど、アリシアは自らの口で告げる。キュッと自分の名前を握って。
「いいえ。ありません」
アリシアの精一杯の勇気に、颯太は「そっか」と短く相槌を打った。
「天界から、こっちに来た天使とはいないかな?」
「わかりません。そもそも、天使が他の世界に存在こと事態が異例ですから」
「そうかぁ」
仮に日本や世界のどこかに天使がいたとしても、その連絡手段はないはずだと遅れて気付く。天界に電子機器はないだろうし、電話番号など必要すらないはずだ。
アリシアを追い詰めているようで気分が後ろめたいが、それでも颯太には事実を知る必要があった。
――偶然、だったであれ少女を救ったのは自分だ。なら、その責任だって自分にある。
罪悪感か責任感なのか。あるいは両方の感情に突き動かせられながら、颯太は質問を続けていく。せめて、声音だけは穏やかにと努めて。
「あのさ、ずっと思ってるんだけど、アリシアは、天界には帰れるの?」
「――――」
無言のままアリシアは首を横に振った。颯太も、これ以上聞くのは胸が苦しくなった。
「ん。教えてくれてありがと」
これで、アリシアの現状は概ね把握できた。
人間とはある程度の意思疎通は可能。会話は問題なくできるが、読み書きの文字にして伝える能力はゼロに等しい。そして、麦茶や畳などどの(おそらくは地球で生まれたものに限定される)名詞は一切分かっていない。
そして肝心の天界には帰る手段も方法も現状なく、同じ天使が地球に住んでいる可能性も無い。
アリシアの現状を絶望的と言わずして何と呼べばいいのか。少なくとも、颯太だったら既に絶望している。
「ホント、どうするか」
思案する颯太に、アリシアが元気のない表情で言った。
「あの、ソウタさん。私のことを心配してくださるのは嬉しいですが、本当に気にしないでください。これは私の問題ですから、自分でどうにかしてみせます」
「そう言うなよ。それに、これは俺の責任でもあるんだ。だから、せめて一緒に考えさせてよ。それに、日本には〝三人寄れば文殊の知恵〟っていうことわざがあるんだ。一人足りないけど、二人で考えた方が良い案が思いつくかも、でしょ?」
「ソウタさん……」
一人では難しいことも、案外二人ならすんなりと解決できるかもしれない。
否、颯太は既に、この状況を解決できる策が思い浮かんでいる。ただ、できればこの案はアリシアが本当の窮地の時に最後の手段として取っておきたい。
だから今颯太が考えるべきはこれ以外の選択肢を見つけてあげることだ。
だが、いくら知恵を絞ろうが名案は思い浮かばず時間だけが削れていく。
二人が向かい合って唸り続けること十五分。
颯太が一度トイレに行こうと立った時だった。
ピンポーン。と玄関のチャイムが鳴った。三秒の間もなく、再びチャイムが鳴らされる。
つぎは少し間を空けて、ピンポーン。と鳴った。
配達にしては連続でチャイムを押すな、と颯太は違和感を覚える。
そしてまた、チャイムが鳴る。
「あーもうっ。トイレに行きたいのに」
イライラしながら席を立ち、颯太は玄関に向かおうとした。
――何回も押すなって文句言ってやるっ。
そう決めて腕まくりする動作をした時だった。
「ソウちゃーん? もうお昼だし、帰って来てるんでしょー?」
それは聞き馴染みのある声だった。それこそ毎日聞くほどの。
「あっ」
思わず声が漏れて、さらに数時間前の記憶が蘇った。
『今日のお昼は一緒に食べるからね』
だばっ、と額から滝のように汗が流れ始める。
颯太の顔色が、段々と蒼白と化していく。
「ま、まずい⁉ みつ姉だ⁉」
颯太は勢いよくアリシアの方へ顔を振り向かせた。
――この状況を見られたら、確実に面倒くさいことになる!
青白い顔色の颯太の心情など知るはずもなく、無垢なアリシアはキョトンとした顔のまま座っている。
「あ、あの、どうかされました? ソウタさん?」
颯太は鬼気迫る形相でアリシアに詰め寄ると、その何の脈絡もなく華奢な腕を掴んだ。
「事情は後で説明するから、とにかく! 今は隠れてくれ!」
「うええっ⁉ ちょ、ちょっと待って下さい、ソウタさん⁉」
「見つかったらヤバイ人がいま玄関に居るんだ。だからバレないよう隠れて!」
「ど、どんなお方なんですか?」
「とにかくおせっかいな姉ちゃん。以上」
噛み砕いた説明にアリシアの困惑はさらに深まる。が、それを説明する暇もなかった。
が、流石は天使。颯太の表情から事情を察したのか、「わ、わかりました」とぎこちなく承諾してくれた。
あとはアリシアをどこに隠すか、だが――、
「もうっ。勝手に入っちゃうからねー。ソウちゃん」
「合鍵持ってるの忘れたぁ⁉」
動揺につぐ動揺で、みつ姉が颯太を待たなくても合鍵を使って入れることにすっかり忘れていた。
玄関に響くみつ姉の声。そして、二階に通じる道は塞がれてしまった。
「くっそ。玄関先はもう駄目だ。魔物が待ち構えている!」
「ま、マモノ……っ⁉」
後ろから素っ頓狂な声が「マモノ、マモノとはなんデスカ⁉」と聞き返してくるが構っている暇がなかった。
「あとはトイレか洗面所か風呂場……ダメだ、全部みつ姉が入ってきそう!」
隠れ場所に使える候補が瞬く間に半分消えた上に、残った選択肢も後々のことを考えればどれも有力になりえない。一つだけ、みつ姉が絶対に入らないと割り切れる場所があったが、そこにはアリシアを立ち入れさせたくなかった。
颯太は逡巡した。時として五秒ほどか。
それはみつ姉が颯太を見つけるのに十分な時間だった。というより、渡り廊下にいる時点で気付かれていた。
ドサッ、と高い位置から袋が床に落ちた音がした。
「ソウちゃん、何してる?」
「~~~~ッ!」
ビクッ、と颯太の方が震える。ギギギ、と首がそんな音を鳴らすようにゆっくりと振り向くと、
「その女の子、だーれ?」
圧の籠る声音は、狂気すら垣間見えた。
「ハ、ハハハ……」
瞬間。颯太は終わりを悟った。
―― 5 ――
side颯太
「それで? これはいったいどういう事なのか、きちんと説明してくるのよね、ソウちゃん?」
「えーとですね」
終わりを悟った颯太はどうにか難を逃れ、今は静かに怒りを露わにしているみつ姉に正座させられていた。ちなみに、アリシアも並んで正座していたが早々に足が痺れてしまい、今は体制を崩して説教を共にしている。
そして、みつ姉は頬を引き攣らせながら説教を再開させた。
「不登校ならまだしも、よりよって女の子を連れ込んでるなんて、私、正直言ってソウちゃんには幻滅しました!」
「うん。それについては完全にみつ姉の早とちりだから。それに、ちゃんと説明もするし」
「へぇ、面白いじゃない。なら、女遊びしてない証拠をみせてごらんなさい! どうせ無理でしょうけど!」
「キャラがブレブレだよ、みつ姉」
颯太が家に女子を連れ込んでいることに余程動揺しているのだろうか。いつもの余裕あるお姉さんキャラが一転、悪役令嬢みたいだ。
すっかり興奮状態のみつ姉に対し、颯太は淡々とこれまでの経緯を説明を始めた。
「まずは俺が家に女の子を連れ込んでる件についてだけど、これは完全にみつ姉の誤解だよ」
「なら目の前の光景はなんなの⁉」
確かに連れ込んではいるな。と颯太は内心で同感しつつ、
「そこは否定しない。だけど、根本が違うんだ。連れ込んだのはあくまで、緊急事態が故の事故なんだよ」
「……いったい、どうしたら事故で女の子を連れ込むことになるのよ……」
「うぐっ」
みつ姉の鋭い追及に颯太の喉が唸った。
そう、肝心なのはそこなのだ。
チラッとアリシアを見て、颯太は眉間に皺を寄せた。
――さてと、どう説明するべきか。
おそらく、このまま今までの経緯を話したところで、理解はおろか納得すらしないはずだ。だって、颯太自身もアリシアが『天使』という現実を先程まで信じていなかったのだから。
だから、アリシアの正体と空から落ちてきた件を省き、尚且つ、アリシアがこうして宮地家に居る理由をどうにか作らなければならない。のだが、
「やっぱり! 不純異性交遊してたんでしょう!」
「ちょっとは説明する準備させてくれよ⁉」
思案する時間すら与えてくれず、颯太は癇癪を起したみつ姉に向かって叫んだ。
しかもみつ姉の暴走は止まることなく、より荒れていばかりだった。
「ううっ。小さくて純粋だったソウちゃんはもういないってことなのよね。いつまで経っても女の子に対して興味がなさそうなソウちゃんだったのに、まさか私の知らない間にどこの子かもしれない女の子と付き合っていたなんてっ。お姉ちゃん、ちょっとだけ嬉しいわ。――でもやっぱり! 学校に行ってないソウちゃんがその子とお付き合いしてるなんてお姉ちゃんは反対ですっ!」
みつ姉の饒舌ぶりに、颯太はおろかアリシアも圧倒されていた。
語るのに疲れたのか、ぜぇぜぇ、と肩で息をするみつ姉。そんな彼女に、颯太は咳払いした後、真顔で返した。
「だから付き合ってないから、俺とアリシアは」
「じゃあどういう関係なのよ⁉」
鬼気迫る表情のみつ姉に、颯太は呆れたように吐息して、
「それを今から説明するから、だから一度落ち着こう、みつ姉」
「そ、そうね。なんでか疲れたわ」
「だろうね」
流石に興奮状態が続くみつ姉にも疲労が見え始めて颯太は苦笑した。
それから五分ほどのインターバルを取り、ようやく平常運転に戻りつつあったみつ姉は再び最初の質問を颯太に投げかけた。
「それで、もう一度訊くけど、ソウちゃん。この子とはどういう関係なのかしら?」
「話すけどさ、たぶん、みつ姉は信じてくれないと思うんだよね」
「そんなことないわよ。私が今までソウちゃんの話を信じないことなんてあった?」
「いやあったよ。俺がご飯ちゃんと食べてる、って言っても信じないでお惣菜持ってくるじゃん」
「それは信じてないんじゃなくて、嘘だってバレバレだからよ」
「うぐっ」
即座に論破されて颯太は目を逸らした。そして、すぐ話を逸らすように咳払いして、
「とにかく、今から話すことは事実だけど、信じるには難しいってこと」
「はいはい。いいから話してごらんなさい」
「ん。じゃあ、この子がいま俺の家にいる理由なんだけど……」
受け入れらないとは内心思いつつも、颯太はこれまでの経緯をみつ姉に語り始めていく。
みつ姉と別れてすぐ、アリシアが空から降って来たこと。そこから、どうにかアリシアを救出し、自宅まで運んできたこと…………。
――訥々と語っていく最中で颯太は思う。
たった数時間の間に、これほど濃密な体験が生きてからあったか。
答えは即座に出る。『いいえ』だと。他の同年代に比べれば、颯太の人生は意外と劇的なものだと思う。しかし、これほどまでに衝撃を与えたのはおそらく後にも先にもないだろう。それだけ、アリシアとの邂逅は摩訶不思議で鮮烈だった。
そして、なによりも驚愕だったのは、普通の少女だと思っていたアリシアが実は天界に暮らす『天使』だったということ。
それを一つずつ、みつ姉に伝えていく。ただし、アリシアが『天使』であることは伏せて。
それ以外の全てを、颯太はみつ姉に伝えた。
「それで、アリシアは俺の家で休んでるんだ」
「なるほど、ね」
事情を説明し終えて、颯太の緊張が徐々に解け始めていく。
話を最後まで聞き届けてくれたみつ姉は瞑目したまま動かない。おそらく、返答する準備をしているのだろう。
逸る心臓の鼓動を抑えながら、颯太とアリシアはみつ姉の返事を待つ。
やがて、ゆっくりとその瞼が開かれると、みつ姉は答えた。
「それをどこまで信じろと?」
「ま、普通はそうなるよね」
案の定、みつ姉は否定するように首を傾げた。
颯太もアリシアに対して同じ反応をとっただけに、難色を示すみつ姉の心情は理解できた。
「ちなみに、どこから信じてない?」
「そんなの……この子が空から落ちてくるところからに決まってるでしょ」
「それ最初からじゃん」
颯太はげんなりと肩を落とした。
やはり、アリシアの存在を明かさずに納得してもらうのは無理があった。どうやらアリシアは説明の最中に颯太が意図的にアリシアの正体を隠蔽したことに気付いたようだが、颯太はアリシアの事情を鑑みて省いたのだ。
結果。みつ姉の疑念は晴れぬまま、颯太は依然苦戦を強いられることになってしまった。
「アリシア」
ふと、颯太は少女の名前を呼んだ。
「は、はい」
「みつ姉は俺がどうにかするから、アリシアは俺の部屋で待っててくれ」
「でも……」
「いいから」
何か言いたげなアリシアの声を遮って、颯太は退出するよう促す。
元を辿れば、こうなった元凶を作ったのはアリシアを自宅で保護しようとした自己判断が招いた因果応報だ。ならば、咎められるのは一人で十分で――
「嫌です」
「は?」
アリシアが何を言ったのか分からず、颯太は脳内でその声を反芻させた。
嫌だと、アリシアは今そう言ったのか。
瞠目する颯太に、アリシアは凛然とした表情を向けて言った。
「ソウタさんに頼り切りでは、私が私を許しません。みつネエさんには私からお話します」
「するって、どうやって」
「任せてください」
「――――」
そう言って微笑を見せたアリシアに、颯太は喉に声が詰まった。そのあまりにも堂々たる姿勢に気圧されたのだ。
天使は微笑んだあと、確固たる瞳はみつ姉に振り返った。
「――っ」
みつ姉も颯太と同じように、アリシアが放つ〝人ならざる気配〟を感じ取ったのだろう。その美貌の顔が緊張で固まった。
颯太とみつ姉。二人は思わず生唾を飲んだ。
僅かな静寂の後。アリシアは口を開いた。
「改めまして、みつネエさん。私は〝アリシア〟といいます。あなた方とは違う世界――『天界』から来た、天使です」
「て、天界? 天使?」
真剣な声で自らの素性を明かしていくアリシアとは対照的に、立て続けに衝撃的な発言を受けるみつ姉は目を回していた。脳が情報を処理し切れずパンクしている様子だ。颯太も体感しているから即座に理解できた。
目で助けを求めるみつ姉を先程の仕返しだと言わんばかりに意図的に無視しつつ、颯太はアリシアの言葉に意識を注いだ。
「私が天使だ、という事実を信用できないのは既にソウタさんとやり取りをして理解できています。この世界では、私のような異形な存在を受け入れることは難しい。ソウタさんは信じてくれましたが、けれど現状、他の方に私が天使だと証明する手段はありません」
「……アリシア」
アリシアが自分の置かれた現状を語っていくその最中に颯太は見た。アリシアの拳が強く握り締められるのを。それはきっと、胸裏に激情を必死に抑え込もうとしている顕れだ。一人ではどうすることもできない無力さに打ちひしがれるのを、颯太はよく知っていた。
それでも屈さずに話していくアリシアの姿に、颯太は言い知れぬ感情を覚える。
羨ましいようで、妬ましいような。そんな人――天使に向けるべきではないドロドロとした感情を。
無意識にだが、颯太も強く拳を握っていた。
「けれど、どうか、これだけは信じてください。ソウタさんが私を救ってくれたことは本当なんです。ソウタさんがいなければ、私はまた消滅していたはずです」
「――――」
「だからどうか、お願いです、みつネエさん。ソウタさんのことを信じてください」
そう言って、アリシアは床に頭を擦りつけた。いったい、何故そこまでアリシアがするのだろうか。颯太は理解できなかったが、けれどアリシアの真摯な姿は胸を打ち付けるのには十分過ぎた。
それはどうやら、アリシアに対面する女性も同じらしい。
「なんて……」
涙声が聞こえた気がして、颯太はアリシアから視線を外す。そして、顔を向けた先には、その瞳に大粒の雫を溜めたみつ姉がいた。
「なんていい子なの!」
「みつネエさん……わっぷ!」
おずおずと顔を上げたアリシアを感動に打ち震えながらみつ姉は抱きしめた。
「いいわよ、アリシアちゃん! 信じてあげる! ソウちゃんの出鱈目話もあなたが天使だってことも全部信じてあげる」
「ほ、本当ですか!」
「えぇホントよ、ホント。潮風の女、三津奈に二言はないわ!」
「あ、ありがとうございます、みつネエさん!」
「んなあっさりと……」
アリシアの真摯な訴えが実を結んだ結果だが、颯太はどうにも釈然としなかった。
慄然とする颯太を尻目にみつ姉は感極まった感情を一旦しまうと顎に指し指を当てて、
「でも、そうなると困ったわね。今の話が本当なら、アリシアちゃんは天界ってところから来たんでしょ? そこには帰れるの?」
「順応早すぎない? まぁ早くて助かるけどさ。……みつ姉、その件だけど、どうやらアリシア、天界に帰れる方法がないみたいなんだ」
颯太の言葉を肯定させるようにアリシアが黙って頷く。
「それで考えたんだけど、みつ姉の家にしばらくの間アリシアを泊めてあげられないかな?」
颯太の提案に、みつ姉は苦渋の表情で首を横に振った。
「一日、二日とかなら……でも、ずっとは無理ね。私も仕事があるし」
「だよなー。他に宛てになりそうなところは?」
「それは厳しんじゃないかな。親戚を泊めるとは訳が違うし、全くの赤の他人の家に居候させて、そこにもアリシアちゃんの負担にもなるわよ」
「それもそっか」
確かに、全く知らない赤の他人が急に数カ月単位で厄介になるのは嫌だな、と颯太は苦笑した。
「不動屋さんでお部屋を借りるのはもっと無理でしょ」
「だろうね。アリシア……歳がいくつなのかは知らないけど、まず住民票とかないから」
「だよねー」
互いに頭を抱え、活路が見えない状況にため息を吐く。
二人の苦悩する姿にアリシアはおろおろとしていたが、
「あっ」
と突然みつ姉が声を上げた。
「なんかいい案思いついた?」
「えぇ。とっておきのが。一つだけ、アリシアちゃんを何カ月も泊めてあげられるお家があったわよ」
「本当ですか⁉」
「マジか。ちなみに、それってどこ?」
流石はみつ姉だ。頼れる姉は伊達ではなかった。
感嘆する颯太は期待を込めてその先を促した。
そんな子ども二人の期待に応えるように、みつ姉はウィンクして指を一つ立てた。
「……なにしてんの」
「見ればわかるでしょ。アリシアちゃんにその物件を紹介してるのよ」
颯太は周囲を見渡す。そんな物件、いったいどこにあったか。あるとすれば、
「その指、気のせいじゃななければこの地点指してるよね?」
「うん。だって私が紹介してる物件、此処だから」
「へぇ……」
しばらく呆けていると、颯太はカッと目を見開いた。
「いや俺ん家じゃん⁉」
「ね。最高の物件でしょ?」
「何処が⁉」
声を荒げる颯太に、みつ姉は淡々と言った。
「どうもこうも、普通に考えて住む分には申し分ない広さでしょ。二階建ての部屋付、リビングにトイレとお風呂場も別々で完備。家具家電は揃ってる……わね。よし、パーフェクト!」
「だろうね⁉ だって一軒家なんだから!」
「あら、素敵。動産屋さーん、このお家に決めます」
「もう人が住んでるんだよっ」
「なによケチ。いいじゃない、今更。人が一人増えるくらい。この家、無駄に大きいんだから」
「人の家を無駄って言うな。爺ちゃんが怒るぞ」
「それは後で謝っておくから。それで、人一人住める分の部屋は余ってるの?」
「そりゃあ、あるけど……」
「はい決定! アリシアちゃんはどうかしら?」
それまで二人の会話についていけず呆然としていたアリシアはビクッと肩を震わせた。
「ふえぇ⁉ 何でしょうか急に⁉」
それまで蚊帳の外だったアリシアが急に決定権を与えられて困惑する。これで三人、万遍なくこの急展開に衝撃を味わったこととなった。
そして、未だ戸惑いを浮かべるアリシアに、みつ姉は柔和な声音で聞いた。
「行く宛てがないなら、しばらくこのお家で住まない? って提案。ね、いい案だと思わない? 勿論、アリシアちゃんが嫌じゃなければだけど」
「俺に決定権はないのか」
「ソウちゃん。五月蠅い」
「~~~~ッ」
みつ姉に睨まれ、颯太は躾けられた犬のように黙った。一応、顔で反対を訴えておく。
「私はどこだろうと構いません。けど……」
ちらり、とアリシアは颯太の方を向いた。その金色の瞳が雨に濡れた子犬のような目をしていて、颯太の胸がずきりと痛む。
そんな目で訴えられて、拒否するほうが無理だった。
「はぁ」
と颯太は吐息すると、観念したようにアリシアへ言った。
「いいよ。アリシアが住みたいなら、帰れる方法が見つかるまでしばらくこの家で住めば」
その言葉を聞き届けた瞬間。アリシアの顔が快晴のように晴れた。
「ありがとうございます! ソウタさん!」
「決まりね」
破顔する天使の顔をみれば、今後のことなどどうでも良く思えてしまって不思議だった。そして、それを感じた自分がいることにも驚きだった。
颯太の内心は読み取られないまま、みつ姉が注目を集めるように手を叩いた。
「それじゃあ、アリシアちゃん。これから住むお家をちょっと探検しておいで」
「分かりました、それでは、行ってきます!」
「ん、いってらー」
トタトタと子供のように目を輝かせながら走っていくアリシアの背中を見届けると、みつ姉は「ちょっと」と颯太の肩を叩いた。
「真面目な話。あの子に行く宛てが見つからなかったら、ソウちゃん、自分からこの家に居候させるつもりだったんじゃないの」
「まー。最終手段として候補にはしてたけど」
やはり気付かれていたか、と颯太は苦笑した。
「あの子の話がホントなら、その、この世界の知識とかって……」
みつ姉が抱く懸念に、颯太は頷いて応えた。
「みつ姉の思う通りだよ。言葉はなんでか理解できるし話せるみたいだけど、それ以外は何も分からないみたい」
「それは大変ね」
みつ姉は顎に手を置いてしばらく黙考していた。
「なら、こっちのこと、ソウちゃんが勉強させてあげなさい。どうせ学校に行ってないんだから暇でしょ」
「まぁ、それくらいは別に構わないけど。でもみつ姉はそれでいいの? 俺が学校に行く可能性がまた遠ざかるだけだよ」
「さぁ、それはどうかしらね」
そう答えた颯太に、みつ姉は意味深な笑みを浮かべた。
「前にも言ったけど、私は学校には行って欲しいと思うけど無理に行く必要はないと思ってるから。それに、あの子と関われば、ソウちゃんも少しは自覚が出てくるんじゃない?」
「なんの?」
「それを考えるのが、今のソウちゃんがやるべきことです」
ふふふ、と笑いながら、みつ姉は颯太の眉間に指し指を置いた。
アリシアに今後の課題があるように、どうやら颯太にも課題ができたらしい。
「それじゃあ、私はアリシアちゃんが着られる洋服がないか、一度家に戻るわね」
「ん、助かるよ」
「なーに。面倒がみれる子が増えて、お姉ちゃんは嬉しいだけよ」
その言葉はきっとみつ姉の本心だろうが、颯太にとっては面倒な子と思われていることが不服だった。
そして、笑みを浮かべるみつ姉は上機嫌に自宅へ戻ろうとする。が、突然踵を返すと、今度はその表情が悪戯顔になって、
「そうだ。いい? ソウちゃん。いくら可愛い女の子一つ屋根の下になったからって、手を出しちゃ駄目だからね?」
「当たり前だ!」
にしし、と笑う彼女は今度こそ自宅へ戻っていく。
まるで台風に遭遇したみたいで、とにかく颯太は疲れた。
「何か……一日で世界が変わったみたいだ」
止まっていた時間が動き出して、一気に加速する感覚だ。
そんな時間が動き出す感覚とともに、
颯太とアリシアの同棲生活が幕を上げた。
―― 6 ――
side颯太
――天界から来た少女――ではなく、天使・アリシアとの同棲生活が早くも三日が過ぎようとしていた、その就寝前。
「づっかれた~~」
一歩も動けないといわんばかりに颯太は布団にダイブ。柔らかい感触に全身が包まれ、溜まりに貯まった疲労がどっと抜けていく。
「まだアリシアが住み始めて三日なのに、すげぇ大変だ」
至福の一時を堪能しながら、颯太は仰向けになってこれまでの出来事を振り返った。
端的にいえば、地球の文化に触れるアリシアの好奇心は凄絶だった。
家の中でもほぼ全ての物に説明を求められ、そして一度外に出れば好奇心に惹かれるままに駆けだしていく。中でも、台所のガスコンロの火と自動車といいた乗り物には一段と興味が注がれていた。
乗り物に家具家電、近代の建物と、この世の全てが未知な天使。その知識に対する飢えはまだ収まっていない。きっと、明日も質問攻めだろう。
疑問に思うことに対し、アリシアは迷うことなく颯太に質問する。その勤勉な姿勢を好ましく思いながらも、颯太はある時アリシアに問いかけた。
『どうしてそんなに何かを知ろうとするの?』
現代っ子の颯太は全方向に好奇心を向けるアリシアの気持ちが理解できなかった。知らないことを無理に知る必要はないと思っているからだ。それに、興味が湧けば片手で調べられる時代だ。それを知識として呼べるかは微妙だが。
アリシアはおそらく、人から聞たこと、そして実際に体験したことを知識としているように見えた。颯太のような現代の子どもとは違う。いってしまえば、昔の、それこそ昭和の時代の子どものような在り方だ。
そんなやり方では効率が悪いと思っている颯太だから出た純粋な疑問だった。そんな問いかけに、アリシアは照れもなくこう答えた。
『知らない事を知れるようになるのは、スゴく楽しいんです。一つ、何か知る度に新しい世界が広がっていく。世界が広がれば、新しい道が開ける。沢山の道が開けば、たくさんの希望と巡り合えますから』
それを聞いた時は、颯太は「そっか」と答えるしかできなかった。
「一つ、何か知るたびに世界が広がる。か」
アリシアのその言葉が、颯太の胸裏に残り続ける。
「いまさら、俺が何かを始めることなんてないか」
ふ、と自嘲して、颯太は思考を放棄した。吐いた言葉通り、自分が何かを始めることは二度とないと決めつけたからだ。
「はぁ……とにかく疲れた。今日も頑張ったし、明日に備えて寝よ」
きっと、明日も質問攻めだ。だから、それに応えるために英気を養わなければ。
まだ頭の片隅に泥のようなものがへばりついている。だけど電気を消して、目を閉じた。そしてすぐに襲ってきた睡魔に意識を預ける。そうすれば、楽になるから。
考えることに。答えを出そうとすることに。
意識が途切れる寸前、颯太はふと思った。
もし、この世界の残酷さに気付いた時、果たしてあの子はどうするのだろうか。
受け入れるのか。それとも希望を求めて抗うのか。――それとも、受け入れて尚、抗わんとするのか。
颯太はとっくに諦めてしまったけれど、あの子はどんな選択を取るのだろう。少しだけ、興味があった。
けれど、そんな思考は深い微睡に呑まれて消えてしまった。
アリシアとの同棲生活はまだ始まったばかりだ。
―― Fin ――
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