第312話 非常事態

 レイラはビルの屋上でしゃがみ込み、小刻みに震えていた。

 多くの軍人が周りを囲んでいたが、安心感などまるでない。ふと顔を上げ、屋上から街を見る。

 完全に水没したオックスフォードの街。

 この状況が変わることはないだろう。レイラは絶望的な気持ちになった。

 いずれここも海に沈む。いや、その前に魔物に殺されるだろうか? 空を飛ぶ竜、あるいは魚人や蛇が海から襲いかかってくるだろうか?

 レイラは両腕を抱え、うつむいて目を閉じる。

 ここには軍人しかいない。魔物を倒す探索者シーカーがいないのだ。

 今、襲われれば一溜ひとたまりもない。レイラの瞳から希望の光が失われていく。その時、悲鳴のような大声が辺りに響いた。


「つ、津波だ! 津波が来てるぞ!!」


 レイラは顔を上げ、辺りを見る。叫んでいたのは特別市長のニックだ。

 街の南側を見つめておののいている。レイラは震える足に力を込め、なんとか立ち上がって彼方かなたを見やった。

 海に沈んだ街をさらに飲み込むように、大きな津波が向かってくる。


「ああ……あああああ」


 レイラは手で顔を覆う。あの津波が到達すれば、イギリスは完全に終わる。

 もう打つ手はないのだ。


「しゅ、首相! あれを!!」


 ニックが震える声でレイラを呼ぶ。もはやなにをしても取り返しはつかないのに、これ以上なにを見ろというのか。

 レイラは力なくニックが指差す方向を見る。

 そこには。レイラはゴクリと唾を飲み、そのクジラを睨んだ。


「【青の王】……自分の手で止めを刺しに来たのね」


 全身が震える。食物連鎖の頂点に君臨する絶対の支配者。【青の王】を前にして、自分たちは蛇に睨まれたカエルも同然。

 そう思ったレイラだが、どうも様子がおかしい。

 辺りがザワつき始め、ニックはオロオロして後ずさった。レイラは改めて迫りくる津波を見る。

 すぐに不自然なことに気づいた。


「なにが起きているの!?」


 原因はまったく分からなかったが、周りにいる人たちが空を見上げていた。レイラも釣られて空を見る。

 そこにはがいた。悠々と羽をはばたかせる緑の蛾。

 見たこともない魔物。ここからかなり距離はあるが、途轍もない大きさであることは分かる。

 全身が毒々しい色をしており、二本の長い尾っぽを持つ。 


「あれは……なに?」


 レイラは口を開け、空虚に見つめることしかできない。巨大な蛾と【青の王】は、まるで睨み合うように動かなくなる。

 先に仕掛けたのは緑の蛾だ。

 羽を何度も扇ぎ、風の揺らぎを生み出している。蛾の正面に生み出された"風"が、衝撃波と共に飛んでいく。

 向かったのは津波の上にいる【青の王】。

 どうなるのか? と思ったレイラだったが、次に起こった変化に息を飲む。

 。地平線を覆い尽くすほどの津波が白く凍っていく。そして海そのものも凍り出した。

 水没した街が、銀色の世界へと変わっていく。

 【青の王】は氷の中へと姿を消す。蛾の撃ち出した風が氷の津波に襲いかかるが、一部を破壊したに過ぎず、【青の王】には当たらない。

 緑の蛾は空に舞い上がり、上空から風の攻撃を繰り返す。しかし、分厚い氷を割れないようだ。


 ――いえ、例え破壊したとしても、氷はすぐ元に戻ってしまう。あれでは巨大な蛾の攻撃が届かない!


 レイラは現状、なにがどうなっているのか理解できなかった。しかし【青の王】が危険なことだけは確かだ。

 これが魔物同士のぶつかり合いだとしても、できれば緑の蛾に【青の王】を殺してほしい。

 レイラは祈りながら空を見た。


「なんでもいいわ! お願い……あの化物を……【青の王】を倒して!!」


 ◇◇◇


 悠真は上空から凍り付いた海を見下ろす。


 ――やっぱり"風の攻撃"じゃあ、氷の中にいるを倒せない! 【赤の王】になって炎を使うしか……。


 だが一度変身を解けば、もう【緑の王】になることはできない。

 次に【青の王】が氷を解除して"水魔法"を使ってくれば、相性の悪い"火魔法"は抑え込まれてしまう。

 どうすれば――

 悠真が必死に思考を巡らせていると、ふいに体の力が抜ける。

 巨大な蛾は態勢を維持できず、落下しそうになった。悠真は慌てて風魔法を使い、【緑の王】の体を支える。


 ――あっぶねえ! なんだ? 今の?


 少し前から感じるようになった体の違和感。それがここに来て悪化しているように思えた。

 体調が悪いのか? それとも……。

 悠真がそんなことを考えている間にも【青の王】は氷の中を移動し、攻撃を仕掛けてくる。

 海の一部がボコリと隆起し、"氷の龍"となって襲いかかってきた。


 ――考えてる場合じゃない! やらなきゃこっちがやられる!!


 悠真は意識を集中して、キマイラの宝玉に魔力を込める。赤く染まった宝玉が解放され、魔力が爆発する。

 巨大な蛾は空中で変化し始めた。

 体表が赤く輝き、蛾の羽が爬虫類の羽へと変わっていく。二本の尾っぽが引っ込み、竜の尻尾が生えてきた。

 その変化は、遠巻きに見ていたレイラたちの目にも入る。


「なに? なんなの? あの魔物は!?」


 隣にいたニックも「魔物が……別の魔物に変化してます」と目の前の光景が信じられない様子だ。

 周囲にいた人々も、ただただ唖然とするしかなかった。

 完全に変身の終えた悠真は、真下をギロリと見下ろす。全身は赤い鱗に覆われ、炎を漏らす口からは凶悪な牙を覗かせる。


 ――【赤の王】アウルス・ヴェノム!!


 全てを焼き尽くす爆炎の支配者は、迫りくる"氷の龍"を熱気だけで粉砕。すぐに方向を変え、逃げようとする【青の王】を視界に捉える。


 ――逃がしはしない!!


 悠真はその凶悪なあぎとに炎を集める。鎌首を持ち上げ、火球を一気に吐き出した。

 空気を切り裂き、火球は氷原に着弾する。瞬間――熱線は周囲の氷を蒸発させた。氷の防御壁は瓦解し、【青の王】はき出しの体を晒す。


 ――もう一撃だ!

 

 再び火球を放つ。海に向かっていく最強の炎だが、それを迎え撃つように海がうねり出す。荒れ狂う波から無数の"水の龍"が生まれ、火球に襲いかかった。

 水に捕らわれた火球は徐々に力を失い、水の中で消滅する。


 ――くそっ! やっぱりダメか!!


 悠真は羽ばたきながら海を睨む。二つの王の力を使っても、こいつに致命的なダメージを与えることはできない。

 やっぱりアメリカにいる【黄の王】を倒す必要があったんだ。

 黄の王が使う"雷撃"なら、"水"も"氷"も突破できたはず。ここに来る前にアメリカに行くべきだったか。悠真がギリッと歯噛みした時、また体に変化が起きた。

 力が抜けていく。なにが起きたのか分からなかったが、羽や尻尾が縮んでいくのが見えた。【赤の王】の変身が解けているのだ。


 ――なんでだ!? まだ三十分経ってないはずなのに?


 悠真は浮力を失い、海に向かって落下した。

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