第309話 迫りくる死

 オックスフォードの役所に新しく用意された執務室。

 そこにいたのはイギリスの首相レイラだ。黒い皮張りのオフィスチェアに腰を下ろし、政務次官が持ってきた報告書に目を通す。

 被害状況や避難民に関するものがほとんどだが、魔物の襲撃が落ち着いてきたとも記述されている。

 レイラは安堵の息を吐く。

 一時はどうなるかと思ったが、やはり"水の魔物"は内陸部まで来れないようだ。

 無理に討伐しにいくなど悪手。ここで堅牢に立て籠もり、防御を固めて援軍を待つべきだ。

 レイラにはこの状況を打破できる目算があった。

 アメリカでは【黄の王】が暴れ回っていると聞くが、裏を返せば"雷の魔物"が多く出現しているということ。

 つまり【雷の魔宝石】が大量にある。

 アメリカの『魔導兵器』開発技術は、イギリスに匹敵するかそれ以上。

 そのアメリカが【黄の王】との戦いに区切りをつけ、本腰を入れて海を渡ってくれば【青の王】など恐るるに足りない。

 元々最強の探索者シーカーを有するアメリカだ。

 例え【黄の王】といえどもなんとかするだろう。我々は待っていればいい。

 無駄なことをせず、余計なことをせず、危険なことをせず。ただ待っていれば勝ちなのだ。

 レイラは報告書を机に置き、目頭を揉む。

 日本の探索者シーカーなどに頼る必要はない。そもそも日本が【赤の王】を倒したと噂が流れてきたが、本当かどうか分からなかった。

 疑う声が多かったのも事実。

 一応は応援要請を出したものの、あまり期待していなかっというのが本音だ。

 まして来たのはたったの二人。その内一人は問題があるなど、話にもならない。

 レイラがそんなことを考えていた時、執務室の外からドタドタと走る音が聞こえてきた。

 なんなの? と眉根を寄せていると、部屋のドアが乱暴に開け放たれる。


「しゅ、首相! た、大変です!!」


 飛び込んで来たのはオックスフォードの特別市長、ニック・ダウデンだ。

 血相を変え、息を切らしている。


「どうしたんです? そんなに慌てて」

「と、とにかく……外を……外を見て下さい!!」

「外?」


 レイラは怪訝な顔をする。ニックがなにを言っているのか分からなかったが、その焦り方は尋常ではない。

 レイラは腰を上げ、窓際に足を運ぶ。

 ヒモを引いてブラインドを一気に上げると、光と共に青々とした光景が広がった。


「なに……これ……」


 レイラは唖然として言葉を失う。

 目に飛び込んできたのは水没した街だった。パッと見ただけだが、地上一メートルほどの高さまで浸水している。

 近くに川もないのに、どうしてこんなことに?

 レイラが窓から目を離せないでいると、後ろからニックが声をかけてくる。


「と、突然こんな状況になったんです。軍の報告によれば、水が溢れてきていると」

「氷の門の外から!?」


 レイラは信じられず、思わず聞き返した。門は五メートル、塀は四メートル以上の高さがある。

 そこを超えてきたというの? また津波? いや、まさか……。


「なにか情報はないの!? どうしてこうなったのか?」


 レイラが詰め寄ると、ニックはしどろもどろになり、


「しょ、詳細は分かりませんが、バーミンガムも同じように浸水しているそうです」

「バーミンガム!?」


 バーミンガムはオックスフォードより内陸にある街だ。そこが浸水しているというのなら、イギリス全土が同じような状況にあるということ。

 レイラは眩暈めまいがする思いだった。

 これは単なる津波などではない。

 そんなことが可能なの!? イギリス全土を海に沈めるなど、神にしかできるはずがない。一体どうやって……。

 その時、レイラはハッとする。


 ――これが……これが【青の王】の力!!


 ◇◇◇


 氷の門を守っていた軍人の中に、アンドリューの姿があった。

 アンドリューは目の前の出来事が信じられず、思わず息を飲む。海水が塀から溢れ出し、街の中に流れ込んでいる。

 津波かと思ったが、そんなレベルの話ではない。

 この門の向こうは。氷の門はギシギシと悲鳴のような音を鳴らし、今にも壊れそうだ。


「ここはもうたない! 撤退するぞ!!」


 アンドリューの号令で部隊は引き始めた。数分も経たない内に門や塀は破壊され、海水が雪崩れ込んで来る。

 街の水位は五メートルを超え、さらに上がっていく。

 市民は軍隊や探索者シーカーの誘導でビルやマンションの上階に移動したが、突然のことで避難できない者も多かった。

 海水はどんどん街を沈めていく。なにより最悪だったのは、水の魔物が自由に街に入ってくることだ。

 魚人にサメ、ワニや蛇のような魔物が、我がもの顔で泳いでいる。

 もはや安全な場所などどこにもない。海面水位が十メートルを超え始めた頃、役所の屋上に移動したレイラは、周囲を見渡して絶句した。

 街がすっぽりと海に沈んでいる。

 道路に停まっている車や、二階建ての一軒家などが完全に水没していた。


「これは……どこまで水位が上がっていくの?」


 レイラは屋上のふちに立ち、足を震わせながら街を見下ろす。そんなレイラに対し、隣にいたニックが話しかける。

 

「水位はもの凄い早さで上昇しています。このままだと……最悪ここも水に沈むかもしれません」


 レイラは愕然がくぜんとした。今いるこの庁舎は八階建て、三十メートルはあるだろう。

 それが水没するとなれば、もはや生き残れる人間はいない。どうしてこんなことになった? どうして……?

 その後も水位は上がり続け、十五メートル、二十メートルと水嵩みずかさを増していく。

 背の低いビルは水に飲み込まれ、屋上に避難していた住民たちは、なんとか泳いで別のビルに向かおうとする。

 だが、途中で魔物に襲われてしまう。

 魚人に海に引きずり込まれ、別の者はサメに一飲みにされる。人々は悲鳴を上げながら必死に逃げようとした。

 大きな音が鳴り、血が流れるほど、たくさんの魔物が集まってくる。

 周囲はまさに地獄絵図。人々が体を食いちぎられていくところを、レイラは庁舎の屋上から眺めることしかできなかった。


「あ……ああ……」


 レイラは手で顔を覆い、その場で膝をつく。なぜこうなった? なにを間違った?  最善を尽くしたはずだ。なのに……なのに……。

 己の無力さを痛感していた時、ニックの叫び声が耳に入ってきた。


「しゅ、首相! あれを、あれを見て下さい!!」


 レイラは顔を上げ、かなた方を見る。そこには海面から顔を出す巨大な蛇がいた。


「あれは大海蛇シーサーペント……なにをして……」


 次の瞬間――大海蛇シーサーペントは首を大きく引き、反動を利用して"水の吐息ブレス"を吐き出した。

 吐息ブレスはビルの屋上に設置された物に直撃する。あれは――


「"青の飛竜ブルードラゴン"用の地対空魔導兵器! それを狙って破壊しているの? そんなバカなことが……」


 魔物が意図的に施設を攻撃するなど考えられない。

 しかし、別の地対空魔導兵器も水の魔物によって破壊されていた。

 レイラは戦慄する。知能などほとんどないと思っていた魔物の狡猾さに。やがて上空に集まり出したのは、空を飛ぶ青い死神。

 青の飛竜ブルードラゴンが群れをなしてやってきた。

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