第182話 報告
警視庁本部の留置場。
朝早く、アイシャを訪ねる男の姿があった。
「これはこれは、また珍しいお客さんが来たものだ」
椅子に腰かけ、腕を組むアイシャ。アクリル板の向こうにいたのは、日本ダンジョン協会の八杉だ。
オーダーメードのスーツを着込んだ洒脱な学者は、蔑むようにアイシャを見下ろしていた。
「落ちぶれた元同僚を哀れに思ってね。会議の前に立ち寄ったんだよ」
八杉は面会室のパイプ椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。
「お忙しいのにご苦労なことだ。役に立たない会議ばかりで大変だろう?」
アイシャの軽口に、八杉はふふと笑って首を振る。
「聞いたよ。三鷹悠真が【黒の王】を倒したと吹聴してるらしいじゃないか。こんな非常事態の真っただ中じゃ、惑わされる人間もいるんだ。勘弁してほしいね」
「そのことか。ただ事実を言っただけだが……ああ、君は事実が嫌いだったね。私を組織から追い出した時も、ありもしないことを
八杉の眉尻がピクリと動く。
「なにを言っているか分からんが、君に好かれてないことは分かっているよ。もっとも、私も君が嫌いだがね」
「それは気が合うな。初めてじゃないか? 意見が一致したのは」
フフフと笑みを見せるアイシャに、八杉は不快そうに顔を歪める。
「それにしても、まさかそんなことを言いにきた訳じゃないだろ? 一体、なにしに来たんだい」
アイシャに問われ、八杉はあごを上げる。
「そうそう、君は外の状況は聞いているかな?」
「外? いいや。あいにく、テレビもスマホも無い環境なんでね。外でなにが起きているかは知らないよ」
アイシャは肩をすくめて両手を上げる。それを見て八杉は薄く笑った。
「そうかい。実は【赤の王】が日本に向かって来てたんだが、進路を変えてね。日本を迂回して南米に向かったよ」
「……なに?」
今度はアイシャが顔をしかめた。
赤の王が進路を変えた? 日本にある『赤のダンジョン』を無視して?
アイシャの頭の中にいくつもの疑問が浮かぶ。
「残念だったな、アイシャ。【赤の王】が日本に来ていれば"黒鎧"を引っ張り出そうという声があったが……今ではほとんど消えたよ」
八杉は嘲るようにアイシャを見るが、アイシャは独りぶつぶつと呟き、なにかを考え込んでいた。
昔から集中すると自分の世界に入り込んでしまう。
そんな癖を、元同僚である八杉は思い出した。
「まあいい。とにかく三鷹悠真の処分は決まったようなものだ。私はね、アイシャ。"黒鎧"は君が作り出した存在だと思っている。ずっと『黒のダンジョン』の有用性を説いていた君のことだ。
八杉は立ち上がり、侮蔑した表情でアイシャを見下ろす。
「しかし、君の危険すぎる
「……縄張り」
「なに?」
アイシャが呟いた言葉に、八杉は眉を寄せる。
「そうか……色の違うダンジョンの魔物は縄張り意識があるのか。だからヘル・ガルムは何度も悠真くんを狙って……」
「おい! なにを言っている?」
八杉の怒鳴り声で、アイシャは我に返った。
「ああ、まだいたんだね。失敬、失敬」
「さっきからなにをブツブツ言ってるんだ?」
当惑する八杉の顔を見て、アイシャは「やれやれ」と首を振る。
「分からないのかい? 【赤の王】が進路を変えた理由だよ。魔物には縄張り意識があって、色の違う『ダンジョン』の魔物同士は戦いになってしまう。だから王たちは別の王に近づかないようにしてるんだ。余計な争いを避け、自分たちの生息圏を作るためにね」
「仮にそうだとしても、日本を避ける理由にはならんだろう!」
八杉は苛立った様子で答える。
「いいや、何度も言っているだろう。三鷹悠真こそ【黒の王】を倒し、その力を有する者。【赤の王】が避けようとしてもおかしくはない」
「バカバカしい!」
狭い面会室に怒声が響く。
「まだそんなことを言っているのか! そんなに自分の実験体を守りたいのか!? お前のせいで、どれだけ社会に混乱を与えたのか分かってないようだな」
八杉は
「思った以上に無駄な時間だった。失礼するよ」
「悠真くんを大切に扱うんだな、八杉。この先、長く生きていたいなら」
「フン」
八杉は軽く鼻を鳴らし、面会室を後にした。
留置場を出た八杉は黒塗りのリムジンに乗り、首相官邸へと移動する。
――あの女の顔を見ることは二度とあるまい。
ほんの数分で官邸に到着し、正面玄関前に車を止めた。運転手がドアを開け、八杉は車外に降りて襟を正す。
ガラスの自動ドアをくぐって職員に挨拶し、長い廊下を進む。
今や自分は政府からも認められる地位を手に入れた。
確かにアイシャ如月と主任研究員の席を争った時、奴に不利な情報をでっち上げ、それをバラ巻いたこともある。
そのおかげで一時は昇進に有利だと言われていたアイシャを蹴落とすことができたのだ。しかし今の状況を見れば、自分が主任研究員になったことがいかに正しいかが分かる。
――政府の専門家会議で結果を出し続けてきた私と、留置場に入るまで落ちぶれた学者。どちらが社会的に認められるべきかは明らかだろう。
今の自分に満足しつつ、八杉は官邸の中を歩き、大型スクリーンのある大会議室に入って自分の席に着いた。
居並ぶ各大臣や総理に目をやりつつ、小さく息を吐く。
――社会に必要とされているのはお前ではなく、私なのだよアイシャ。
◇◇◇
朝の会議が始まる前、防衛大臣の高倉は席に着き、静かに指を組んでいた。
そんな高倉の後ろから、審議官の芹沢が耳打ちしてくる。
「大臣、朝霞駐屯地にいる研究員から連絡がありました。三鷹悠真の毒殺に成功したそうです」
「そうか」
「ただ、一つ問題がありまして……」
「なんだ?」
「警備についていた自衛官が反旗を
「なに!? どういうことだ?」
高倉はなるべく周りに気づかれないよう声を押さえ、芹沢に問いただす。
「詳しいことは分かりません。その後、自衛隊は三鷹悠真の遺体を施設外へ持ち出したようなのですが……」
「幕僚長の御子柴はなんと言っている?」
「それが、御子柴幕僚長とも連絡が取れなくなっております。一体、なにが起きているのか分からず、情報が錯綜しています」
高倉は口に手を当て考え込む。末端の自衛官が裏切ったということか? それとももっと上の命令……まさか御子柴が!?
嫌な想像が頭を駆け巡るが、現状の情報では分かるはずがない。
「とにかく! 黒鎧が死んだことは総理に伝える。自衛隊の件は内々に調べて報告しろ。御子柴を探し出して連れてくるんだ」
「分かりました」
芹沢は一礼し、会議室を出ていった。高倉は席を立ち、秘書官と話をしている総理の元へと歩み寄る。
「総理、よろしいでしょうか」
「どうした? 高倉」
総理の岩城が手を上げると、秘書官はコクリと頷き、その場を離れる。
「今、朝霞駐屯地から報告がありました。三鷹悠真の死亡が確認されたそうです」
「そうか! それは朗報だ」
岩城は立ち上がり、ザワザワと雑談する出席者に対して「よろしいですか」と声をかけた。議場は静まり、岩城に視線が集まる。
「みなさん、残念なお知らせがあります。自衛隊の施設で保護していた"黒鎧"こと、三鷹悠真ですが未明に体調が急変し、亡くなったそうです」
会場がざわつく。黒鎧を殺すことに反対だった者たちからは「そんな!?」「本当なのか?」と嘆きの声が聞こえ、排除に賛成だった者たちは「これで一安心だな」や「もっと早く処分すべきだった」などの声が漏れた。
様々な声が交錯する中、岩城は満足そうに腰を下ろす。
反対派の連中も、自然に死んだと言い張れば文句は言えまい。これで不安な要素は全て取り除かれた。
自分の治世を阻むものは、もうなにもない。
岩城がそう思っていると、会議室に一人の官僚が飛び込んで来た。
「た、大変です!」
「なんだ? 騒々しい」
岩城が怪訝な顔をする。慌てて入ってきた官僚は息を整え、会場に集まった人間を見渡す。
「南米に向かっていた竜の群れが……引き返して、日本に向かっています!!」
その場にいた人々は言葉を失った。なにを言っているのか分からず、叫んだ官僚を見つめることしかできない。
岩城に至っては、ただ呆然と立ち上がるだけだった。
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