処暑

@kagi-kakko

処暑

 大物政治家が路上で腹を刺されて病院に搬送された。傷は浅く、命はあった。


 土曜日の昼時、私は妻が作ってくれた冷やし中華の麺をすすった。たっぷりのからしが鼻にツンとくる。塩っぱすぎるタレにも眉をしかめた。

 先のお盆に孫を連れて帰省してくれた息子が、久方振りに妻の味噌汁を口にして、まるで海水を飲んでいるようだと言って水で薄めた。

 妻の料理は濃口という域を越えている。いつだって調味料過多であった。私たちもいい加減年なのだから少しは控えないかと、それとなく言ったことがある。しかし、妻は自身が東北出身であることを理由に曲げない頑固さであった。毎日私のために料理を作ってくれることは有難いが、私の死期は早まるだろう。きっと死因は、妻の愛情と塩分たっぷりの料理による高血圧だ。


 つけっぱなしにしていたテレビがニュース速報を流し、事件を知った。アナウンサーが刺した男の名を読み上げる。そして、男はその場で自ら首を切って死んだと言った。

 キッチンから妻が顔を出し、スイカが冷えてるけど? と訊ねた。ああ、切ってくれ、と私は頼んだ。




 私には三つ年上の幼馴染がいた。彼には年齢以上のものを感じていた。私の目には、周りの大人たちより彼のほうが大人に見えた。よく遊んでもらっていたが、彼が中学生になってからはそれも無くなった。

 私が小学三年生のときだった。夏休みに一緒に虫捕りに行った。たしか、彼のほうから行かないかと誘っただろうか。

 手先がそこそこ器用だった私は、竹でこさえた自作の虫かごを小脇に抱え、虫取り網を持って行くと、彼はそんなものは要らないよ、素手で捕れるからと言った。そう言う彼は手ぶらであった。


 近所の森でカブトムシのオスを二匹捕まえた。いずれも彼が、お食事中のところを無理に木の幹から引き剥がした。私はそれを宝物のように虫かごに入れた。竹の虫かごをガラス細工を扱うみたいに持ち、彼の家へ行った。


 昆虫採集を趣味としていた彼の部屋は、いっぱいの標本で壁を飾っていた。しかし私は書棚に並んでいた薬品のボトルのほうが気になって、それは何をするものかと彼に訊ねた。彼はそれらを一つ一つ手に取って教えてくれ、こうやって虫を殺すこともあると言い、机の引き出しを開けて注射器を取り出した。彼は注射器のカバーを外し、その鋭い針先に光を当てると、危ないから見るだけ、触らないようにと言った。


 彼の母親が、錐形にカットしたスイカを持って部屋に入って来た。彼は慌てる様子もなく注射器を元に戻すと、静かに引き出しを閉めた。

 彼の母親は、どういう訳か私に、彼と遊んであげてねと言った。それを聞き、彼は早く出て行ってくれないかと母親を部屋から追い出し、さあ食べようとスイカを私に促した。

 私と彼がスイカにかぶりつく横には、注射器が入った机の上で、虫かごの格子に爪を立てる二匹のカブトムシがいた。


 彼が、どれか一つ標本をあげると言った。私はさして欲しくはなかったが断れず、セミの標本を選んで家に持ち帰った。すると母親はひどく気味悪がった。

 私は標本を母親の目に触れないよう、書棚に横にして立てかけ、ごくたまに見るくらいに止めた。それもいつしか邪魔になり、ついには庭の物置に移していた。

 育て方が悪かったのだろうか、カブトムシは短命であった。二匹とも夏休みの終わりを待たずして死んでしまい、亡骸を庭に埋めた。彼に話すと、そんなこともあるさと素っ気なかった。感情のない言い方に、私はカブトムシを気の毒に思った。


 彼は中学を卒業する前に街から去っていった。親の都合だとしか聞いていない。私は埃をかぶって虫が湧いたセミの標本を捨てた。ついでに竹の虫かごも、虫取り網も捨てた。少しばかりの捨てきれない何かを残して捨てた。




 妻がスイカを大皿に盛ってやって来た。そして無造作に食卓塩を振りかけて、もう少しで無くなりそうねと言った。我が家の食卓塩の減り方は砂時計のそれに近い気がする。

 私は、食べ終わったら食卓塩を買ってくると言い、ついでに何か買ってこようかと訊いた。それならば、ケチャップをお願いねと妻が言った。これで夕飯のメニューはかなり絞られた。


 私が買い物に出ようと玄関でサンダルを履いていると、ちゃんとマイバッグを持っていってねと妻が言った。食卓塩とケチャップだけなのに大袈裟だろうと私がぼやくと、レジ袋も溜まるとけっこうなゴミになるのだと妻は言い、さらに余計なものは買ってこないでねと釘を刺された。私は言い返そうとしたが、ぐっと堪えて言葉を呑んだ。この我慢強さで、これまで妻と長くやってこれたという自負がある。今夜の食卓がどんなに赤かろうと、私は黙って平らげるのだ。


 玄関を出ると、野球帽をかぶった近所の男の子が目の前を通りかかった。男の子は私を見てこんにちはと挨拶した。私もこんにちはと会釈し、ずいぶん日焼けしたね、車に気を付けてねと言い、空っぽの虫かごを斜め掛けした男の子の背中を見送った。


 路上に、仰向けになったセミが足をバタバタと動かしているのが見えた。先ほどの男の子は気付かなかったのか、それとも単に関心がないのか素通りした。

 私は傍に落ちていた小枝を拾って、これに掴まるようセミに差し伸べると、思いのほかセミはしっかりと小枝にしがみついた。車に轢かれるよりはましであろう。どのみち虫食まれてしまうのならば、せめて街路樹のたもとにと移した。


 私は思い出したかのように踵を返し、玄関ドアを開けて妻を呼ぶ。何か忘れ物ですかと、部屋の奥から妻の声だけが聞こえた。

 私は言った。明日の新聞、捨てないでくれと。それが私に残された、少しばかりの何かであった。

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