忘却姫な彼女と、僕の話
東雲 楽
短編 忘却姫な彼女と、僕の話。
「何泣いてんのさ、あたしを守るんでしょ?」
少し照れた感情をはにかむ笑顔の裏に隠し、血に濡れた華奢な腕は僕の頬を撫でる。
その腕は力なく、冷たく堕ちるまではそう時間は掛からなかった。
意識不明の重体。植物状態というやつだ。
「例え意識が戻ったとしても、彼女はもう身体を動かすことはできない。それどころか、常に業火を浴びて生きることになるだろう。」
それが、医者から僕に告げられた言葉だ。
「君を守る。だから、ずっとこの先も僕と一緒にいてくれ。」
そんな言葉を掛けた数ヶ月後。
現在は突然にやってきた。
居眠り運転のトラックが、信号待ちの僕らをめがけて魔の手を進めた。
何が、「君を守る」だ。
僕は約束も君も何ひとつ守ることはできなかった。
それでも残酷に時は進んで行く。僕に残された義務と冷たい日常だけは、進んで行く。
もう、疲れた。
現世に別れを告げようとする僕に部屋の扉が叩かれた。
「こんにちは。あなたにひとつ、ぜひ提案をしたい。」
顔を覗かせたのは医者だった。
怪しい。だが、初対面のその医者にはどうにも既視感があった。
医者は言葉を続けた。
「あなたの彼女、まだ生きる方法があるかもしれません。」
僕は藁にもすがる思いで、医者の言葉に耳を傾けた。
「いいですか、彼女の脳を電脳世界で再構築するのです。つまり、彼女をこの世界でない世界にまた生まれ変わらせるということですよ。」
そんな方法が現代技術で起こし得るとは誠に信じ難い。
「ただし、記憶はリセットされ、この世界とは完全隔離になります。つまりあなたのことは覚えていないしもう話しかけることもできません。それでもあなたは彼女を彼女と考えますか?」
それはすごく、すごく悲しい話だ。
だが、僕はそれでも彼女は彼女である。
そう思いたい。
「勘違いしないでください。提案というのはここからです。」
医者の真剣な眼は僕の瞳の奥を見つめていた。
「あなたがこの世界の全てを捨てて構わない。というならば。あなたの記憶も消去して、彼女と同じ世界に送って差し上げましょう。あなたも彼女も記憶はない。また1から他人同士の出会いになりますがね。」
僕の答えは迷う余地すらなかった。
大掛かりな機械に囲まれた、僕の頭には大きなヘッドギアが付いていた。
これを死と捉えるか、はたまた誕生と捉えるか。
僕の指は彼女の生まれる電脳世界へと旅立つ、そのボタンを押した。
湯が沸き立つ蒸気のように意識が旅立つ寸前。
医者の声が僕の耳に揺らいで届いた。
「あなたがこのボタンを押すのは、7回目ですよ。」
忘却姫な彼女と、僕の話 東雲 楽 @akatuki-yuzuhara
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