その8

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「ラーメンって、本当に奥が深いんだね」


 俺が帰りのバスに乗りこんだら、同じくバスに乗りこんだ弥生さんが声をかけてきた。


「私さ、正直に言って、ラーメンって、ただのB級グルメだって思って馬鹿にしてたんだ。それなのに、お姉ちゃん、ラーメン屋をやるなんて言いだして。だから最初は、なんであんなのやるんだろうって不思議に思っててさ。でも、それって間違ってたって気がついた」


「ふうん」


 軽い感じで返事をしながら、俺は心のなかで思った。ただのB級グルメだって思ってる時点で、まだちょっと認識が足りてないな。


「あのさ、いまって、外国でも日本のラーメン店があるんだよ。知ってるかもしれないけど」


 ちょうどいいからここで少し講釈しておこうと思い、俺は弥生さんに話しかけた。


「これは本場の中国にも、フランスにも出店してるんだけどさ。で、その辺の流れで、フランス人のシェフが日本にきたんだよ。それで、こう言ったそうだ。我々は、日本では寿司と天ぷらが食文化の主流だと思っていたけど、そうではなかった。日本人にとってはラーメンが主流だったんだな。それに儲かるとも聞くし。だから、つくり方を教えて欲しい」


「あ、そうなんだ」


 弥生さんが、わかってないって感じでうなずいた。


「いま、ラーメンって本当にグローバルなんだね、すごいじゃない」


「まあ、そこまではいいんだけど、そのあと、そのフランス人シェフがつづけてこう言ってきたんだって。どの調味料を使えばいいのか? だから、そのときに相手をしたラーメン職人がきちんと説明したんだよ。まずは出汁――というか、あなた方の国で言うところのブイヨンをとる。豚骨と鶏ガラを綺麗に水洗いして、汚れをとって、軽く下茹でをして火を通したあと、下茹での水は捨てる。それから本腰をいれて煮こみながらアクをとる。煮こみ時間は十二時間。これを聞いて、フランス人シェフが絶句したんだって」


「は?」


 俺の説明に、弥生さんがまたもや妙な声をあげた。絶句しなかっただけ、進歩したと思っておこう。


「ちょっと待って。あの――十二時間?」


「皐月さんのラーメンのレシピは八時間だったけど。まあ、だいたいそんなもんだよ」


「あ、そうなんだ。――お姉ちゃん、ラーメン屋をはじめてから、いつもいないと思ってたんだけど、朝早く起きて、ずっとお店でそんなことやってたんだ」


「だろうな。で、これも言っておくけど、十二時間煮こむことそのものは、フランスのコンソメスープのブイヨンのとり方にも存在するんだ。もっと言うと、二十四時間煮こむレシピとか、基本的なブイヨンに、さらに食材を入れて、二倍の旨みを抽出する、ダブルコンソメって手法もあったはずなんだよ」


「ふうん」


 俺のうんちくに、弥生さんが驚いた顔で返事をした。それから不思議そうに首をひねる。


「でも、待って。じゃ、どうしてフランス人のシェフは絶句したの? 自分の国でやってることと同じじゃない?」


「それは、ラーメンがB級グルメだったからじゃないかな」


 ここから先は俺も想像でものを言うことになる。断言しないように、言葉を選びながら俺は説明した。


「そもそも、普通のコンソメスープの煮こみ時間は三時間がいいところなんだよ。一般大衆の口に入るブイヨンに、そこまで手間をかける意味はないし、必要もないから。だから、二十四時間煮こむブイヨンなんていうのは、単純に考えて、王侯貴族が楽しむ宮廷料理のレシピのはずなんだ」


「あ、そうか。それはそうだよね」


「ところが、日本のラーメン職人は、それに近いレベルのことを平然とやって、しかも千円以下のB級グルメとしてお客さんの前にだしている。フランス料理界の常識から考えたらありえない話だったんだと思うよ。フランス人シェフの絶句はそれが理由だったんだと俺は思うね」


「――ふうん」


 俺の説明に、弥生さんも納得した顔でうなずいた。


「言われてみれば、そうだよね。十二時間も煮こんだスープなんて、すごいに決まってるもん。ラーメンスープって、そこまでレベルが高かったんだ」


「実はそうだったんだよ。軽く見てる人が多いけど」


 弥生さんの言葉に、俺もうなずいた。


「だから、ラーメンスープの出汁に、醤油とか味噌のような発酵調味料は入れないで、コンソメ風の味付けをして飲んでもらったら、フランスの料理評論家も気がつくんじゃないかな。――これは、とんでもなく手間をかけたスープを大衆食堂で提供してるって」


「そうなんだ」


「まあ、いまは業務用で、ほぼ同レベルのものが世のなかに出回ってるんだけどさ」


「あ、そうだったよね」


 最後の俺の言葉に、弥生さんも、さっきとは違う形で笑顔を見せてきた。


「そうか。だからB級グルメなんだ」


「その通り。ただ、異常なほどディープな世界だし、どれだけやってもやりすぎということがない。それはわかってもらえるとうれしいんだけど」


「あ、はい。それはもう」


 弥生さんが素直にうなずく。――それはいいんだが、どういうわけか、弥生さんの笑顔が、また少し、違うように見えた。


「私、尊敬する」


「それがいいよ。男女差別をする気はないけど、あんな華奢な身体つきで、毎日八時間もかけてラーメンの出汁をとってるんだから。皐月さんのことは誇りに思っていいと思う」


「え」


「それに、経営戦略とか、ラーメンの味のアレンジ的な発想力はともかく、ラーメン職人としてのベーシックな実力はかなり高いし。チラシ作戦の話を聞いたときは戸惑った顔をしてたけど、塩麹をだしたあたりから、俺が何をやろうとしているのか部分的に読みはじめたからな」


「あ、あのー」


 なんでか弥生さんが、少し困ったような顔で声をかけてきた。


「えーと、私が尊敬するっていうのは」


「あ、駅についたぞ。それじゃ、また」


 弥生さんが何か言いかけたが、それはまた今度聞けばいいだろう。俺は座席から立ちあがった。

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