その11
「想像して欲しいんだけど、大昔は、獣肉も魚も野菜も、ほとんど保存が効かなかった。食材にした瞬間から時間に比例して腐敗していく。保存する方法は塩漬けにするか、もしくは干物にするしかなかったんだ。しかも、それさえ完璧じゃない。だから、大昔の人は、半分腐ったみたいなものを我慢して食べていたんだよ」
ここで一度、俺は言葉を切って弥生さんを見た。少しして弥生さんが口を開く。
「うげえ」
「うげえって。――まあ、気持ちはわかるけど、これは仕方がないことだったんだよ。昔はほかに食べるものがなかったから。ただ、そんなものがうまいわけがない。だから、臭み消しは料理の世界の大命題だったんだ。ほら、生クリームって、バニラエッセンスを入れるけど、あれは腐りかけた生クリームの腐敗臭をごまかすためだったんだよ。それから、ステーキにはコショウをかけまくってるのもそうだ。昔はコショウと黄金が同じ重さで取り引きされたって言うから、食事を楽しむために、みんな必死だったんだろう。フランスではソースが何種類もつくられている。あれも腐敗臭を誤魔化すためのものだったし、中国では味噌がつくられた。それが日本に伝わって、オリジナルにアレンジされた味噌や醤油が大量に開発されたんだよ。昔の料理の歴史は腐敗臭を誤魔化すための歴史だったんだ」
俺の説明を、弥生さんは驚いた顔で聞いていた。いままで知らなかったらしい。というか、知らなくて当然か。
「あと、ついでに言っておくと、味噌や醤油は発酵調味料って呼ばれてるけど、発酵と腐敗っていうのは、人間にとって都合がいいか悪いかで呼び方を変えているだけで、基本的には何も変わらない。つまり、アジアでは、不快な腐敗臭に、気持ちのいい腐敗臭をつくって対抗していたわけだな」
「――え」
弥生さんが柳眉をひそめた。
「じゃ、味噌や醤油って、腐ってたものなの?」
「そう。ついでに言うと納豆やヨーグルトもそうだから。弥生さんはヨーグルトが嫌いかな?」
俺は質問したら、弥生さんが困った顔でうつむいた。
「大好きです。砂糖をかけて食べるとおいしいし」
「そりゃよかった」
本場のブルガリアではヨーグルトに塩をかけて食べるそうだが、そこまで言う必要はないだろう。それよりも、俺が言いたいことは、味噌の持つパワーがすごすぎることだった。
「それで話を戻すけど。そういうわけで、味噌や醤油の臭み消しは、大昔は絶対に必要だったんだ。ところが、いまは冷蔵庫や冷凍庫がある。車もつくられて、流通経路も確立されている。つまり、冷凍保存された新鮮な食材が手に入るようになったわけだ。そうなると人間というのはぜいたくなもんで、今度は食材の持つ、本来の味を楽しみたいって言ってくるようになってくる」
「あー、それは私もわかるわね」
弥生さんが返事をしてきた。
「私も小学生のときは、紅茶にガムシロップとクリームを無茶苦茶入れまくってたけど、いまは少なめにしてるし。そうしないと、紅茶の香りがわからなくなるってわかってきたから。そういうことでしょ?」
「――まあ、簡単に言うと、そういうことだな。それは正解だよ」
俺は弥生さんの言葉にうなずいた。半分はあきれながらだが。小学生のときはガムシロップを入れまくってたのか。
「で、さっきの話なんだけど。食材の持つ、本来の味を楽しもうとした場合、醤油はともかく、味噌は問題だったんだよ。なんでかって言うと、発酵調味料の臭み消しの力が強すぎたからだ。それが腐敗臭を消してくれたけど、同時に素材本来の風味も消してしまうんだよ。だからラーメンスープの場合、煮干しで出汁をとろうが昆布で出汁をとろうが、味噌を入れたら味噌の味っていう事態になってしまう。つまり、調味料の味がうまいだけで、出汁の風味がわからなくなっちゃうんだ。要するに、料理として考えた場合、ものすごくバランスが悪いんだよ」
俺の説明に、弥生さんも、やっと納得したって顔をしてくれた。
「そういうことか。言われてみれば、そんな気もするわね」
で、弥生さんが、そのまま、少し考えるような顔をした。何か頭のなかでシミュレートしてるらしい。
それから、ちょっとして顔をあげた。
「本当だ。いま、思いだしてみたけど、そうやって想像してみると、味噌ラーメンを食べて、出汁がおいしいなんて考えたことなかったわね」
ひとりで、勝手にうんうんとうなずく弥生さんだった。
それから顔をあげた
「それでどうするの?」
「やり方は、俺が知るだけで四つある」
このへんの講釈は特に長くなる。ちゃんと聞いてくれるかな、と思いながらも俺は説明した。
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