その3
「たぶん、煮干しだと思います」
少しして皐月さんが返事をした。ご名答。
「あの、言っていいですか? 私、この伸一さんのスープを飲んだとき、最初は鰹節の香りとオイスターソースの味付けに驚いたんです。ただ、そのあと、冷静になって味に集中してみると、それだけじゃなくて、煮干しの味がしなくて、代わりに豚骨、鶏ガラ出汁も強くなっていることに気づきました。だから、このスープは、豚骨、鶏ガラ出汁だけを使っていて、煮干しと鰹節の和風出汁は使っていないんじゃないかって思って」
さすがはプロだな。ちゃんと分析している。感心して話を聞く俺に、皐月さんが話をつづけた。
「つまり、私のスープは、豚骨、鶏ガラ出汁、煮干し、鰹節の和風出汁、昆布で味付けした醤油ダレってことになります。それに対して、伸一さんのスープは、豚骨、鶏ガラ出汁、昆布で味付けした醤油ダレ、鰹節の香味油、オイスターソース。だから、私のスープには煮干しが入っていて、オイスターソースが入っていません。新一さんのスープは、その反対で、煮干しが入っていないで、オイスターソースが入っていることになります」
「大正解です」
正直に言って俺は驚いた。鰹節の香味油とオイスターソースのインパクトだけに目が行くと思っていたんだが、そこまで見抜いたか。皐月さんは想像以上に腕も味覚も悪くないぞ。あとは方向性の問題だけだったらしい。
「では、俺が何を言いたいかもわかりますか?」
つづけて質問したら、同じく皐月さんがうなずいた。
「もし、伸一さんの、この鰹節の香味油とオイスターソースを使ったスープを私が店でだすことにした場合、煮干しはいらない。それからダブルスープにもする必要はない。――違いますか?」
「違いません、その通りです」
俺は素直に認めた。
「最初に皐月さんは言ってましたよね。自分は魚介のなかでも、特に鰹節が好きだって。で、レシピを見たら、煮干しと鰹節で和風出汁をとってました。その時点で、俺はおかしいと思ってたんですよ。旨み成分で言うと、煮干しも鰹節も主成分はイノシン酸です。グルタミン酸とイノシン酸の組み合わせのような、旨み成分の相乗効果はありません。それに、揮発性の高い鰹節の香りに比べて、煮干しの香りは強いですからね。下手すると鰹節の香りを邪魔しちゃいます。単純に考えれば、煮干しは使わずに、鰹節を倍の量使ったほうが、はるかに皐月さんの好みにあった出汁になったはずなんです。まあ、揮発性が高いから、それでも長くは持たないんですけれども」
俺は皐月さんを見据えた。
「ただ、そのあと、かけうどん出汁のとり方を参考にしてるって説明を聞いて俺も納得しました。確かに、かけうどんの出汁なら、煮干しは絶対に必要です。それで皐月さんもそうしちゃったんでしょうね。ただ、ラーメンで鰹節の香りを強くだしたかったら、香味油をつくってスープに浮かばせたほうが効率はいいですよ」
「はい、わかりました」
皐月さんが素直にうなずいた。
「先週の、チラシ作戦でも驚いたんですけど、今回もです。まさか、こんな方法があるなんて思ってませんでした。しかも、ダブルスープよりシングルスープのほうが、豚骨、鶏ガラ出汁が強くでていて、おいしく感じるなんて想像してませんでしたし。こんなこともあるんですね」
「中華そばの青葉だって、創業当時はダブルスープでしたけど、品質を安定させるって名目で、途中から路線変更してますからね。ダブルスープでもシングルスープでも、うまければいいんですよ」
「それはわかりました」
皐月さんが素直にうなずいた。
「ただ、あの、そうするとですね」
つづけて、少し困ったような顔をしながら皐月さんが立ちあがった。厨房の奥を指さす。俺が振りむくと、業務用の大型冷蔵庫があった。
「そこに、まだ煮干しが結構入ってるんです。一括で買うと安くなるんで。それ、使わないで捨てるのはもったいないんですけど、どうしたらいいでしょうか」
「だったら、フードプロセッサーで煮干しを粉末にして、適当なビンに『煮干し魚粉』って書いて、スプーンを入れてカウンターとテーブルの上に置いておけばいいんです。で、メニューにも書いておきます。『煮干し魚粉は味変に最適。最初は鰹節の繊細な香りをお楽しみください。途中から煮干し魚粉を投入すると、心温まる優しい味のラーメンスープに生まれ変わります。よろしければ、ご飯のふりかけにもどうぞ』。これで煮干しはお客さんの胃袋に消えていきますから」
「あ、そうか。その手がありましたね」
「それに、この店は無料で魚粉が味わえる、サービスのいい店だっていう無言のアピールにもなるかもしれませんし。あと、念のために言っておきますけど、これからも追い鰹形式で、鰹節はラーメンスープに浮かばせておいてください。味をリニューアルするって言っておいて、いままで乗っていた鰹節がなくなったら、前のラーメンを知っているお客さんはケチったって判断をしますから」
「あ、わかりました。それも、そうします」
「あとは、何か言うことあったかな」
俺は少し考えた。
「あ、そうそう。このスープ、ラーメンの形でつくるときなんですけど、普通は、ラーメンって、丼にタレを入れて、出汁を入れて、麺を入れて、チャーシューやメンマを乗せてつくりますよね? で、そのあと、最後の最後に鰹節の香味油を浮かばせて欲しいんです。こういう順序でラーメンをつくったほうが、香味油の香りは立ちますから」
「あ、そこまで変わるものなんだ?」
ここで意外そうに言ったのは弥生さんだった。
「そんなの、どんな順番で入れても同じだと思ってた。水じゃなくて油なんだから、どうせ上に浮いてくるんだろうし」
「それが、実際には、なかなかそうは行かないんだよ」
弥生さんに返事をし、それから俺は皐月さんのほうを見た。
「まあ、とりあえず、醤油ラーメンの、スープのプラスαとしては、こんなもんです。これから先は皐月さんが実際に、店の休憩時間にまかないでいろいろ割り合いを調節してつくって、それで試行錯誤してレシピを完成させてください」
「わかりました」
「で、レシピを完成させてくださいって言っておきながら、申し訳ないんですけど」
俺は話をつづけた。横で聞いていた弥生さんが意外そうな顔をする。
「まだあるんだ?」
「もちろん。このあとは、プラスαの要素じゃなくて、既存の出汁と醤油ダレの改良案をだしていくから」
言って、俺は皐月さんに目をむけた。
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