その2
「想像してもらえればわかる話ですけど、ラーメンのスープには油が浮いてます。だから、お客さんがスープを飲むときは、必ず最初に油を味わってるんですよ。だったら、その油に鰹節の香りを染みこませておけばいいんです。そうすれば、一発目から強烈に鰹節の香りを楽しめますから。まあ、これは新宿の麺屋武蔵がやっていた、エビ油と同じ方法なんですけど」
「あ、前例があるんですね」
「もちろんです。もっとも、麺屋武蔵はサンマの煮干しを味わってほしいのに、客はエビ油を目当てにくるって言って、当時の店主は悩んでいたみたいですけど、皐月さんも場合は鰹節を味わってほしいって言うんだから、そういうズレもないでしょうし。ついでに言っておくと、そもそも、鰹節の香りは揮発性が高いんですよ。だから鰹節で出汁をとっても、すぐに香りは消えてしまうわけで。昔の人はそれを経験的に知っていましたから、鰹節はお客さんの顔を見てからかけ、なんて言ってました。そして追い鰹出汁。ただ、そんなことをしなくても、これみたいに油に溶かしておけば、油でコーティングされてそれ以上は揮発しません。あとは入れる量を調節すれば、鰹節の香りは簡単に強くできます」
なるべくわかりやすく説明をしたつもりだったんだが、皐月さんは眉をひそめていた。
「あれ、なんか不愉快でしたか?」
俺が訊いたら、皐月さんが慌てて手を左右に振った。
「不愉快とかじゃなくて、悔しかったんです。私、中華料理屋で仕事をしていて、オイスターソースなんて普通に見ていたのに、どうして考えつかなかったのかって」
「ああ、普段から目にしているものは、返って気づかなかったりしますからね。だいたい、中華料理でオイスターソースって言ったら、炒め物の隠し味に使うのが基本ですし。魚介スープの調味料として、前面に押しだすような使い方はしませんから。それで考えつかなかったんでしょう」
フォローするように言ってから、ついでに俺はこれも言っておこうと考えた。
「それから、ラーメンスープにオイスターソースを使うのと、鰹節の香味油は、ちょっとググれば、クックパッドでもなんでも山ほどでてきますから。見ておけば、味を調節する際の参考になると思います」
「は?」
俺の言葉に皐月さんが意外そうに声をあげた。
「これ、ネット検索するとでてくるんですか?」
「もちろんです。俺が考える程度のことなんて、とっくの昔に誰かが考えついて、レシピを制作してますよ。特にオイスターソースなんて、素人が家でラーメンスープを自作するときに使うなんて基本中の基本だし、カップ麺のチョイ足しにも使われるし。まあ、本職のラーメン屋が使うのは珍しいことかもしれませんけど」
俺は真顔で言っておいた。皐月さんは知らなかったらしい。たぶん、ラーメンの味の試行錯誤と経営がやばいことであたふたして、ネットで調べる余裕がなかったんだろう。考える俺の前で、皐月さんが難しい顔をした。
「ネット検索で簡単にでてくるなんて。私、ずいぶんと不勉強だったんですね」
「そんなに難しく思うことはないですよ。人間、誰かに言われるまで考えつかないことなんて、いくらでもあるし。たとえばインスタントの味付け油揚げ麺ですけど、あれだって、油で揚げればその時点で火は通るし水分も飛ぶから長期保存も軽量化も簡単なのに、海老の天ぷらの衣を見て考えつくまで、ずいぶんかかったって聞いてますし」
「はあ」
「まあ、クックパッドは、ほとんどが素人さんのレシピだから、皐月さんみたいなプロの料理人が見て学ぶっていうのは、少しおかしな話なんですけどね。それでも、過去に試行錯誤した人間の経験が、そっくりそのまま自分の知識になるってのは便利ですよ。そんなの利用したほうが効率がいいに決まってますから」
「あの、ちょっといい?」
ここで弥生さんが声をかけてきた。
「話はわかったんだけど。最初、私とお姉ちゃんに、十分くらい、外にでていてほしいって言ったの、あれは?」
「あ、あれは、皐月さんが嗅覚疲労を起こしてるかもしれないから、リセットしてもらおうと思ったんだよ」
べつに大したことじゃない。俺は普通に説明した。
「ほら、皐月さんは、開店してから休憩時間まで、ずっとこの店にいたわけだから。特に追い鰹出汁なんてやってたし。それで鼻が慣れちゃうと、鰹節の香りがわからなくなるんじゃないかって思って。それで、十分くらい外にでてもらって正常な状態に戻ってもらったんだ」
「なるほどね。そういうことだったんだ」
「それともうひとつ」
あらためて、俺は皐月さんに目をむけた。
「気がつきませんか? 普段、皐月さんがつくっているスープには入っていて、俺のつくったスープには入っていないものがあります。よかったらあててみてください」
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