その8
「あと、この店のテーブルとカウンターには醤油ダレの入ったビンを置いて欲しいんです。それで、メニューにこう書く。『当店のラーメンは、お客様の健康も考えまして、塩分は薄めにして提供させていただいております。塩分高めがお好みのお客様は、卓上に醤油ダレを設置しておりますので、ご自由にお使いください』――これをやれば、この店の塩分がどうして薄いのかの説明もできるし、物足りないって思うお客さんも、自分で味の調節ができます」
「あ、はい。わかりました」
これは皐月さんも速攻でうなずいた。は、いいのだが。
「ただ、あの、それとはべつに、普通に醤油も置いてあるんですけど」
皐月さんがテーブルに置いてある醤油ビンを指さした。
「ほら、餃子を頼んだお客さんは、醤油を使ってあたりまえだし。普通の醤油と、醤油ダレの両方を置くのって、ややこしくないですか?」
「そのへんはまかせますよ。醤油ダレってのは、要するに味付け醤油ですから。だから醤油ダレ一種類だけを置いて、それで餃子も食べてもらったって構わないし。そうじゃなくて、餃子ダレとラーメンダレの両方をおいてくれても構いません。参考までに言っておくと、ラーメン横綱って店は餃子のタレとラーメンのタレの両方を置いてます。それから――」
言い、俺は店内を見まわした。壁紙は白色。古い感じはするが、汚れは特にない。張り替える必要はなさそうだな。
「この店って、ルネキャットを使ってますか?」
俺が訊いたら、皐月さんと弥生さんが不思議そうに顔を見合わせた。すぐに皐月さんがこっちをむく。
「すみません、ルネキャットってなんですか?」
「あ、使ってないんですね。ルネキャットってのは、科学の力でつくられた消臭剤のことですよ。俺がバイトしてるラーメン屋の壁にも吹きつけられてます。で、経験から言いますけど、あれって、いい匂いはそのままで、不快な臭いだけを除去してくれますから。値段もそれほどじゃありませんし、一度使えば半永久的に持ちます。あとで検索してください」
「はあ」
「まあ、べつに、この店に変な臭いが染み付いてるってわけじゃないんですけどね。ほら、この店の外ってバス通りでしょう? 普段から車が走って排ガスを撒き散らしてますから。これは念のためです」
言って俺は立ちあがった。
「とりあえず、先週から今週にかけて、俺が考えたテコ入れ作戦は以上です。ラーメンメニューの改良は来週ってことで。今日はもう帰りますけど、いいですか?」
「え、あ、はい」
慌てたように皐月さんが立ちあがった。
「今日はどうもありがとうございました」
「はい、それじゃ」
言いながら荷物をまとめかけて、俺は顔をあげた。
「あー、言い忘れてました。あとふたつだけ。これはテコ入れとは関係ない話なんですけど」
「はい、なんでしょうか?」
「俺は今日、このお店でラーメンを食べて、金を払って、そのあと、少し雑談をしました。で、こういうことをして欲しいというお願いはしましたけど、こういうことをしろなんて命令はしてませんし、コンサルタント代も要求してません。それでいいですか?」
「あ、はい。それはもちろんですけど」
「じゃあ、もし、俺の通ってる学校の先生が、どこかで何か聞きつけて声をかけてきたら、皐月さんも弥生さんも、そういうことで話を合わせておいてください。俺は教師ににらまれるようなことなんて、何もしてませんから。あんまりうるさいようだったら、こう言ってください。そんなこと言って、鈴池伸一がこの店にこなくなったら、それだけこの店が赤字になるんですけど、責任をとってくれるんですか。――これで静かになると思います」
このへんの逃げ道は確保しておかないと、いざってときに俺がやばくなる。
「それと最後。世のなかには、本当に味で勝負している、本物のラーメン専門店が存在します。そこの店主を相手に、俺が今日、ここでしゃべったようなことを聞かせたら包丁を振りまわされますから、そう思っていてください」
俺の言ってることなんて、せいぜいがその程度である。俺はナップザックを背負った。
「じゃ、失礼します」
軽く会釈した俺に、皐月さんが深々と頭を下げた。
「伸一さん、またよろしくお願いします」
なんだかずいぶんと丁寧にあいさつされたような気もしたが、とりあえず俺は「白桃」をでた。バス停まで行って、何気なく横をむいたら弥生さんも立っている。俺と一緒に「白桃」をでてきたらしい。
「先週も言ったけどさ。私、本当に伸一くんのことを軽く見てたみたい」
俺が何か言うより早く、弥生さんが話しかけてきた。なんだか、いままでと俺を見る目がさらに違っている。
「なんて言ったらいいのか。――あんな、経営の作戦で、ものすごいことをいろいろと。タバコを吸わせないようにさせる張り紙の書き方とか、二番目に高いものが売れるとか、私、知らなくて」
「まあ、俺はただのラーメン好きってだけじゃなくて、ラーメン屋でバイトもしていて、経営の裏側も少しは知ってるからな」
俺はやってきたバスに乗りこんだ。
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