その9
「その件なんですけど、ちょっと質問をします」
俺は真顔で皐月さんを見つめた。
「皐月さんは、高校生のときに食べたっていう、駅前のラーメン屋以外のお店でラーメンを食べたことはありますか?」
俺の意図が読めないらしく、皐月さんが不思議そうな顔をした。
「もちろん、何度もありますけど。それで、どういう味があるのかって、私も自分で研究しましたから」
「そういうお店は宣伝をしてましたか? してませんでしたか?」
ここで皐月さんが口をつぐんだ。
「はっきり言いますけど、皐月さんは、去年の四月にラーメン屋をはじめたんですから、ラーメン屋一年生です。だったら先輩たちのやっていることは見習うのが筋だと思うんですよ。その先輩たちが宣伝をしてるんですから、もちろん皐月さんもやるべきです」
「それは――そうかもしれませんけど」
「あと、これは歴史の話になるんですけど。江戸時代、夏場にうなぎ屋の売れ行きが悪くて、困った店主が平賀源内っていう、当時の発明王に相談したんです」
急に話を変えた俺に、皐月さんと弥生さんが、なんだ? という顔をした。
「それで考えた平賀源内が、うなぎ屋の前に『本日、土用の丑の日』という看板をだすように言ったそうです。そうしたら店は大繁盛。これが日本の、最初の宣伝だと言われています。それ以降、俺たちは夏場になるとうなぎの蒲焼を食べてるんですよ。うなぎの旬って冬なのに」
俺が言ったら弥生さんが目を丸くした。
「うなぎって冬が旬なの?」
「正確には秋から冬だね。寒くなるとうなぎって冬眠するから、その前に食いだめをしてブクブク太るんだって。それがうまいそうだ。ただ、そういうことを知っていても、俺たちは夏にうなぎを食べてしまう。それほど宣伝には力があるんだよ」
俺は皐月さんと弥生さんを交互に見た。
「それに、わかったと思いますけど、宣伝というのは江戸時代からはじまった、非常に伝統的な経営戦略なんです。だから飲食業をやる以上、宣伝は基本中の基本だと思っておくべきですね。さっき、皐月さんは宣伝することはあざといと言いました。確かにその通り、あざとい方法なのかもしれません。ただ、それをやらないのは、愚かしい方法でもあるんですよ」
俺の言葉に、皐月さんがうつむいた。まだ悩んでますって感じである。もう少しかな。
「さらに言います、想像してください。皐月さんが高校生のときに食べたっていう駅前のラーメン屋なんですけど、それを俺が、なんとかして探しだしたとします。で、こういうことを言ったとしましょう。――昔、あなたの店でラーメンを食べた女子高校生が非常に感動して、自分もラーメン屋をやろうと思ったんです。進路の問題で迷っていたんですけど、やりたいことができたって言ってましたって」
ここまで言い、俺は皐月さんを見た。まだ顔をあげてこない。
「たぶん、こんな話を聞いたら、そのラーメン屋の店主はとても喜ぶでしょうね。ただ、つづけて俺がこう言ったとします。でも、その女性のラーメン屋はうまくいかなくて潰れました。その女性は行くところがなくなり、ホームレスになっちゃいましたよ。――ここまで聞いたら、そのラーメン屋の店主は悲しみますよ」
ここで皐月さんが顔をあげた。いままで考えてませんでしたって感じの、驚きの表情である。あと一歩だな。
「それから、このお店は、元が中華料理屋だったそうですが、そのお店を皐月さんに譲った前の店主はどうなります? 念願のお店が手に入ったのに、皐月さんは大失敗をして店を潰してしまった。――こんな話を聞いたら、どんな顔をするでしょうか? 恩を仇で返すってのはこういうことを言うんですよ」
「それは――」
「俺は、この店をなんとかして欲しいと弥生さんに頼まれてきました」
なるべく真剣な顔をしながら、俺は皐月さんを見つめた。
「ただ、この件に関してだけは、皐月さんのためだけに言っているわけじゃないんです。皐月さんの高校時代の進路を決めるきっかけになった駅前のラーメン屋、それから、この店を譲ってくれた前の店主、そのおふたりに、笑顔で喜んでもらえるためにも、このお店は何がなんでも繁盛させなければならないんです。それが恩返しってもんでしょ?」
少しきつめに俺は言い切った。
「そのためには宣伝をする。チラシ作戦が一番のカンフル剤だと思うんです。もっと言っちゃうと必勝法です。だから皐月さんにお願いします。前に言っていた、思いこみで食べて欲しくない。きちんと味わって欲しいという考えは素晴らしいですけど、ここは特別に折れて路線変更。心機一転して、味だけで勝負ではなく、味で勝負&宣伝でも勝負の二刀流で行って欲しいんです。ご理解していただけませんか?」
思いつく限りのことを言い、俺は返事を待った。
「――そうですね」
一分ほどしてから皐月さんが返事をした。さっきまでとは表情が違う。よく言えば決意した顔。悪く言えば目が据わっていた。
「私、目が覚めました。その通りですよね。私は、駅前にあった、あのラーメン屋さんにも、それから、ここの前の店長にも恩返しをしなくちゃならないんです。そのためにはなんだってします。もちろんチラシ作戦はありがたく使わせていただきますので」
「わかってくれて俺もうれしいです」
笑顔で返事をしながら、俺の胸のなかでほっとした。うまく行ったか。――そもそも、宣伝しないで味だけで勝負するなんていう、おかしな具合に志の高い人間ってのは説得が難しい。宣伝すれば効果があるってわかってるのに、渋い顔をして
「それは自分のポリシーに反しますので。何かほかに方法はありませんか?」
こんなことを言ってくる。実際、「とんこつラーメン ひずめの足跡」でも、朱美さんがごねて、少し面倒になったことがあるからな。まあ、今回は、恩返しというキーワードがうまいこと働いてくれたようだ。これも言葉のマジックなんだが。
「それでですね」
「ちょ、ちょっと待って。いい?」
俺が話をつづけようとしたら、ここで弥生さんが声をかけてきた。
「あの、それはいいんだけど、この通りにするとさ」
弥生さんがチラシを指さした。
「要するに、一〇〇円値下げするってことじゃない? だったらお客さんがたくさんきても、結局は大赤字になるんじゃないの?」
「そうならないように、このチラシを配った日から、ラーメン関係は全部一〇〇円値あげして欲しいんだ」
「は?」
「この店は、醤油ラーメンと塩ラーメンが七五〇円、味噌ラーメンが八五〇円でしたけど、それを八五〇円と九五〇円にしてもらいたいんです。ギリ、千円でお釣りがくる値段ですから、住宅街にあるラーメン屋の値段設定としては許容範囲内に収まると思いますし」
驚く弥生さんと、一緒に驚いている皐月さんに俺は言った。少しして、あきれたように弥生さんが口を開く。
「じゃ、これ、結局のところ、何も値下げしてないってことじゃない」
「もちろん」
俺はうなずいた。ここから先は、種明かしの時間だった。
「さっき言ったでしょう、言葉のマジックを使うって。きちんとした説明を聞きたいですか?」
「はい」
「うん」
皐月さんと弥生さんが同時にうなずいた。
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