第32話 『幕間 其の壱』
——今朝は、やけに騒がしいな。
誰かが、どたどたと廊下を行き来する音。炊事場からは、ことことと
——それに、やけに朝日が眩しい。
昨晩は、確かに庭の障子を閉めて床に着いたと思ったのだが、開け放したままだったろうか。
——待てよ、昨晩とは、いったい
夢の世から、この世へと少しずつ意識が戻り始めた男は、遂にうっすらと瞼を開く。
見覚えはあるものの、住まう城下の屋敷とは違う天井。いつもと同じようで、どこかしら違っている朝。
男は掛けられていた寝具を払い、ゆっくりとその半身を起こすと、座敷に差し込む朝日に眩し気に手を翳した。
「おお、シンジュウロウ。目を覚ましたか」
聞き覚えのある声に、思わずそちらを振り向けば、懐かしい顔が、何故か雑巾を手にして近付いてくる。
その後ろからは見慣れぬ派手な風体の少女が、ひょっこりと顔を出し、やはり雑巾を片手に付き従っていた。
「シンジュウロウ様、お目覚めになられましたか」
程なく炊事場の戸が開かれ、みそ汁の良い香りを漂わせた許嫁のナルが、前掛けを外しながら座敷に上がってきた。
「
シンジュウロウは起き抜けのはっきりとしない、しかし長い夢からようやく目覚めたような面持ちで、三人の顔を順番に見渡すのだった。
○ ● ○ ● ○
時は少しばかり遡る。
一夜明けた
皆、悪い夢でも見ていたかのように顔色が悪かったが、ナルに熱い茶を振る舞われ、血色を取り戻した。
落ち着いた頃、いつの間にか魂とも言える刀を失くし、丸腰になっていたことに青ざめる臣下の武士たち。
別邸のあちこちを使用人たちと見回っていたナルも、包丁他刃物の類いがなくなっていることに気が付く。
「それだったら、心あたりがあるよ。多分アソコじゃないかな」
そう言うミトの手引きで、竹林の小径に隠されていた刀や包丁を拾いに行くことになり、その件も無事に解決した。
ジュウベエから、昨夜の出来事のあらましを聞いた武士たちは、捕縛された横恋慕男を引っ立てて城に戻っていく。
使用人たちも、城下の屋敷が気掛かりとなっているらしく、やはり揃って町へと戻っていった。
残された三人は、シンジュウロウの枕許へと集い、朝日に照らされた彼の顔を心配そうに見遣る。
それまで仰向けのまま、ぴくりともしなかった彼が、何回か大きく息を吸い、そして吐き出した。
「朝ご飯の支度をいたしましょう」
安心したようにナルも息をつき、立ち上がると炊事場へと向かう。
「じゃあ、ワタシも手伝うよ」
同じように立ち上がり掛けたミトを、ジュウベエが引き止めた。
「君は、わたしと一緒に雑巾掛けだ」
○ ● ○ ● ○
しばしのち、目を覚まして起き上がろうとするシンジュウロウ。
皆が口を揃えて、彼にもう少し横になっていたらどうかと勧める。
長い間、ずっと臥せっていたせいだろうか。身体のあちらこちらが軋むように痛む。
だが、こんな陽気の良い日に寝坊をするのは勿体ない、とばかりに起き出すことにした。
あくまで、いつも通りの朝として、この目覚めを迎えたかったのである。
顔を洗い、着替えを済ませて居間へゆくと、もう既に朝餉の膳が並んでいた。
何日寝込んでいたのか見当もつかぬが、久し振りにナルの手料理を味わった気がする。
食事をしながら昨晩の出来事をジュウベエが話してくれた。
ぽつりぽつりとした話し方は相変わらずだ。
時折身振り手振りで、面白可笑しく合いの手を入れる、このミトという娘にも、だいぶ世話になったらしい。
彼女の話で、皆が笑う。ジュウベエは勿論だが、ナルの、そして自分が笑ったのも久しいように思う。
思い返せば、ここひと月ばかりの記憶は途切れ途切れにしかない。ここ何日かに至っては何の覚えもなかった。
聞けば、この度の騒動は、ナルばかりではなく、臣下の者や、使用人をも巻き込んだ大きなものだったらしい。
しかも乱心したあの者だけでなく、目には見えないその背後では、長い間凶悪な妖が暗躍していたという。
地元であるこの町は、都に比べれば、随分と人付き合いも穏やかで、至って平和なものである。
都であれほど妖を討伐してきたにも関わらず、国許に戻ってからは、すっかり妖のことなど念頭から外れていた。
妖というものは、激しい憎しみであるとか、怒りであるとか、そういった度を過ぎた
だが思えば、ナルにまつわる、あの話を聞いた時、平静を装いながら、その罪を犯した者に対して著しい憎悪の念を抱いたのは、他ならぬこの自分自身であった。
不覚にも妖に付け入る隙を与えてしまったのは、正しくその頃からであろう。油断するのも
朝食の後、シンジュウロウは、ぼんやりと庭を眺めながら物思いに耽っていた。
本来ならば今すぐにでも城に戻り、領主である父に事の顛末や、自らの無事を知らせる勤めを果たさねばならないところである。
しかしながら自分が目を覚ます前に、ジュウベエがナルと共にその場を取り仕切り、臣下の者たちが全ての事後処理をも済ませてしまった。
——ジュウベエには
幼い頃、初めて会ったジュウベエの顔を、そして都にて共に修行していた頃を思い起こす。
己が修行に旅立った後、不在にしたが故に許嫁を危険な目に遭わせ、そして妖に付け込まれる不覚を取った。
それでも都でのあの日々が無ければ、今の己もまた無い。心の底にもやもやとした正体不明なものがわだかまってゆく。
いつの間にか俯いていたシンジュウロウの顔に、ふいに影が差し陽の光を遮る。
思わず見上げると、そこに立つのはジュウベエ。別邸のどこからか、探してきたのであろう木刀を二本携えていた。
「もし足腰が痛まぬようであったら、稽古でもしないか」
昔からの変わらぬ
「今日は陽気もいい。一汗かくのも気持ち良かろう」
立ち上がり、草履を探すシンジュウロウに、ジュウベエがそのまま降りてくるよう促した。
「この庭は手入れが行き届いている。小石のひとつも落ちてはおらん。裸足に地面の感触が心地良いぞ」
シンジュウロウは濡れ縁から直に庭に降り立つ。文字通り地に足を付けた感覚が
ジュウベエの木刀を差し出す、その指先が、少しばかり泥で汚れているのを見て、シンジュウロウは口元を緩めた。
ジュウベエの横に並び、シンジュウロウは、日差しの差して来る方向へ一心に剣を振るう。
風の噂では、刀を携え、その身ひとつで霊山に籠もるという荒行を成し遂げ、己の受け継ぐ流派の免許皆伝を許されたと聞く、その刀捌き。
目を瞑り、心に描く理想の軌道に刀身が乗るよう降り続ける。一振り一振力強く丁寧に、しかし無駄に力まぬよう心掛ける。
僅かばかりずれていた、隣にいるジュウベエの呼吸と、剣が風を切る音が少しずつ重なり始め、やがてひとつとなった。
そのうち、聞こえていた呼吸の音も、剣の風を切る音も聞こえなくなり、閉じた目の内側に浮かぶのは己の剣のみとなる。
瞼の裏の剣は、足下から漂い立ち、目の前を覆う黒い
だがシンジュウロウの心には、最早焦りも乱れもない。振るう剣筋は思い通りの軌道を描き、立ちこめていた霞を一蹴する。
閉じていた目を開き、剣を振る腕を止める。頭の上から振り注ぐ夏の始まりの日差しは暖かく、頬を撫でる風が気持ち良い。
隣のジュウベエも手を止め、懐から手ぬぐいを出し、顔を拭い始める。その口元には、珍しく笑みらしきものが浮かんでいた。
——やはりジュウベエには
駆け寄ってきたナルが手ぬぐいを差し出し、にっこりと以前と変わらぬ笑顔を見せる。
シンジュウロウは、たった今、囚われていた夢の世から、真に、この世へと戻ってきた気がするのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます