第25話 『醤油、最後の一差しというやつじゃな』

「心配させて悪かったな……」


 短い沈黙を破り、ハンゾウは囁くように、背中のウツホラキリに向かって声を掛ける。


「まったく、素直じゃないのう、其方そなたは」


「何だ、薮から棒に。その人生の師、みたいな物言いは」


「実際、儂の方が其方よりも、歳も経験もずっと上じゃよ、ずうっとな」


「そうなのか、俺とさして変わらないと踏んでたんだが」


「あたり前じゃろう。儂は刀として、そして包丁として二度生きておるようなものじゃ」


「おっ、遂に昔の記憶が蘇ったのか」


「…………」


「何だよ、その意味有りげな沈黙は」


「いや、思い出したというよりはじゃな……」


 それまで饒舌だったウツホラキリであったが、昔の話となると妙に歯切れが悪い。


「だが今は、儂の話をするよりも、急いでその者を救わねばならんのじゃないのか」


「ふん。思い出したくないことでもあったか。でもまあ、確かに今はこっちが先だ」


 強引に話の矛先を変えるウツホラキリに、やれやれとハンゾウも苦笑いで応えた。


「で、どうすんだ、今回は。また、お前に力を送り込むのか」


「そのことじゃが、日に三度もやるのは、儂と言えども流石にきついものがあるんじゃ……」


「では、やめておくか」


「いやいや、儂の最後まで話を聞かんか。せっかちじゃの」


「何だよ、勿体もったいぶんなよ」


「きついんじゃが、其方のためじゃ。優しくしてくれれば何とかいけるじゃろう。ということなんじゃよ」


 背中に背負ったウツホラキリを、すらりと引き抜き、ハンゾウはその刀身を見つめる。


「優しくねぇ……」


「そうじゃ。先刻のように力一杯などもってのほかじゃ。其方の少しだけは、当てにならんからのう」


「へいへい。それじゃあ、やるぜ」


 ハンゾウは、握り締めたウツホラキリの中へ、慎重に、そして注意深く、その力を流し込み始めた。


 微妙な力加減なんてもの、俺にとっちゃ、いらねぇもんだと思ってた。

 昔、不死身のあやかしども相手に無双してた頃の自分とは、もう違うんだ。

 強えってだけじゃ、救えないもんもある。そいつは、良く判ってる。


 ——だが。


 ハンゾウは少しずつ、溢れ出る分だけの力を、ウツホラキリに貯めていく。それ自体は、陣や式に力を込めるのと同じ要領で、日頃からやり慣れている。


 近頃は、敵を倒せば即解決。とはいかない案件があまりにも多すぎるのだ。しかも今回の旅は、上役から課せられた制約が、いつにも増して数多い。


 こういった、微妙な力加減を要する、自分の資質に合わない仕事をやっている時には、日頃は出ない愚痴も、ついつい口を突いて出ようというものだ。


「う、うーん……」


 少しずつ流し込んでいるつもりの力が、愚痴と共に一気に流れてしまったようだ。ハンゾウの耳に、ウツホラキリの妙な呻き声が届く。


「お、ちと力が入り過ぎたか」


「まあ、醤油、最後の一差しというやつじゃな」


「何の話だよ、それは」


「例えば大根を擂り下ろしたものに、醤油を垂らそうとするじゃろ」


「おお、しらす干しなんぞを、ひと摘み乗せると美味いよな」


「掛け過ぎても、足りなくとも、美味くはない。丁度良い塩梅というものが自ずからあるものじゃ」


「それで、少しずつ垂らしていって、あと一滴ってところで、何故かどっと出ちまうってか」


「わかっておるではないか。力の使い方も、またしかり。といったところじゃ」


 ウツホラキリの場を和ます冗談とも、本気の教えともつかない言葉に、ジュウベエはうっすらと微笑んだ。


「いや、其方の力は、その量だけでなく、儂にとっても少々変わっておっての。妙に癖になるというか……」


 ひとしきり、手にしたウツホラキリに、力を流し始めたハンゾウの目の端を、黒い影のようなものが掠めたのが映る。


「今のヤツ。見たか、ウツホラキリ」


「見えはしないが、ひしひしと感じるのう。妖モノの気配を」


 折しも、ウツホラキリの言う丁度良い塩梅に力を流し終えたハンゾウは、子息の枕元に置かれた、黒の宝玉を見据えた。


 ふと、庭の方に目をやると、動けなかった筈の男が、不自然な動きで立ち上がるのが見える。

 まるで見えない手によって、操られている人形のような動きに、ハンゾウは溜息をついた。


「急ぐぞ、ウツホラキリ。いけるか」


 ハンゾウは返事を待たずに、ウツホラキリを宝玉へと翳す。


「判っておろうが、優しくじゃぞ」


 その言葉と同時に、ハンゾウは翳したウツホラキリを、軽く宝玉へと振り下ろした。


 固い筈の宝玉に、まるで桃の実にでも刃を入れているかのような手応えで、ウツホラキリの刀身は沈んでいく。

 ウツホラキリの刀身が、沈み切ったところで、ハンゾウはその手を止め、その手へと伝わる感触に傾注した。


 刹那とも永劫ともつかない時の中、広がる夜の静寂のどこかで、風が竹の枝を揺らす音に紛れ、獣の唸り声が聞こえてくる。


 宝玉の薄い紅が、少しずつ色を増し、ウツホラキリを握る手にも、その温もりが伝わってきた。

 ウツホラキリが沈む宝玉の切れ間から、ゆらりゆらりと真っ白な炎が天井近くまで立ち上る。


 立ち上った炎は、球体へと纏まり、二度三度と座敷の中を巡ると、子息の口元へと消えていった。

 臥せっている子息は、やつれたままであるものの、青白かった顔色には赤みが差し、表情も穏やかなものに戻っている。


 いつの間にか、その色も熱も失った宝玉は、今は月明かりを受けて、ぼんやりと、しかし透明に輝くばかり。

 掌に乗せられる程に小さくなったそれを、ウツホラキリの切っ先で突ついてみたが、最早何の反応もなかった。


「うまくいったみてぇだな。お前のお陰だよ」


 ハンゾウは、握ったウツホラキリを鞘に収めつつ労いの言葉を掛けるも、こちらからも、その応えはないのだった。



  ○ ● ○ ● ○



 ミトを残し、座敷を離れたジュウベエは、屋敷の奥へと伸びる暗闇へと目を凝らす。


 さしたる広さを持たぬ屋敷だと思われたが、その廊下の終わりは見えなかった。

 ふと振り返ってみると、今しがた出たばかりの座敷から漏れているともしびは、遥かに遠い。


 歩みを進める先を見やり、再び背後を見返せば、遠くに見えていた灯さえも見えなくなっていた。

 いつしかジュウベエを取り囲んでいるのは暗闇と、そして静寂ばかりである。


 ——ふむ。


 ジュウベエは手にしていた、太刀の下げ緒を手探りで解き、自身の腰に佩く。

 すらりと引き抜いた太刀を握ると、正眼に構えた後、何度か打ち下ろし、横に薙いだ。


 ——うむ。


 初めて握る太刀の感触が、手に馴染むのを認めると、ジュウベエは目を閉じる。

 瞼の裏に思い起こすのは、友人の笑顔と、その勇猛果敢な刀捌きであった。


 ジュウベエの修めた流派とは、遠い過去に枝分かれしたという、彼の刀捌きは直線的だ。

 繰り出す技の数々は、今や全くの別物となってはいるが、足の運びなど幾つか共通する点はある。

 友人は、それに加えて、愛用する太刀の長さ、重さを生かした剣技を編み出そうとしていたのだ。


 ゆっくりと構えたジュウベエが行うのは、しかし、友人の太刀捌きの模倣ではない。

 幼い頃よりやり続け、身に着いている、ジュウベエ自身が修めた流派の演武であった。


 重く長くままならない太刀の切っ先を、思い浮かべた軌道に乗せるべく一振り一振り調整する。

 板張りの廊下を踏み締める足の音と、太刀が空を切り裂く音だけが、暗闇の中に微かに響いた。


 やがて太刀が描きたい軌道に逆らわず、且つ思い浮かべた軌道とが、ぴたりと重なり始める。

 そして会心の一振り。ジュウベエは太刀を鞘に納め、閉じていた目を静かに開いた。


 その目に映るのは、ほんの何歩か歩みを進めたところにある、開け放たれたままの襖。

 その奥にあるであろう座敷から、廊下へと差し込んでいるのは、仄かな月の明かりであった。

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