第19話 『そなた、いったい何者なのだ?』
ハンゾウは、別邸の門戸を潜り抜けようとして、微かな違和感を肌に感じる。
身体を門内へと差し入れようとすると、僅かに押し戻すような感触に囚われるのだ。
それはまるで、強く冷たい風が、内側より吹き出しているようにも思われた。
俺を威圧して追っ払おうってのか。
ハンゾウは、両の脚に力を込め、ぐいっと門内へと踏み出す。
ひんやりとした冷たい妖気が、見えない壁のように立ちはだかった。
彼の身体は、纏わり付く妖気を切り裂くように、突き進んでいく。
ここがヤツらの本丸で間違いねぇ。真っ黒じゃねぇか——。
見上げれば、夜空には明々とした月が輝いているものの、ハンゾウの視界は薄暗い。
彼の目の前は、まるで墨汁を
ふん。この別邸ごと、既に丸々ヤツらの腹の中って訳か——。
ハンゾウは鼻を鳴らすと、行く手を阻む闇を物ともせずに、ずかずかと無遠慮な足取りで裏口に向かう。
俺が、ここへやって来たってことは、ヤツらも先刻ご承知だろうが——。
玄関という表口から侵入しないのは、邸内に囚われていると思われる者たちの身を、
昔の俺だったら、玄関を蹴破って、敵まで一直線だっただろうな——。
冒険者になったばかりの頃、
しかし、それだけでは、救えるものにも限りがある。立ち塞がる敵を倒せば、それで解決とはならないのが世の常だ。
彼ら、特に子息やジュウベエに限って、ヤツらの手に落ちてるってことはあるまいが——。
ハンゾウが裏口の戸に手を掛けると、以外なことに、力を込めるまでもなく、それはすっと開く。
裏口から通ずる土間には、どこかしらに明かり取りもある筈なのだが、邸内には更に深い闇が広がっているばかりだ。
霊的に目隠しをしてるみてえだが、俺の目には通用しねえな——。
通常ならば、おそらくは、この暗闇の中をぐるぐると、同じ場所で惑うことになるのであろう。
しかしハンゾウは暗闇に中、迷うことなく妖しい気配の強い、奥の座敷に向かって歩みを進める。
この屋敷の持ち主には悪いが、ここは土足で上がらせてもらうぜ——。
勝手から見える板の間へと上がり込み、辺りを見渡せば、座敷へ通じると
まずは、人の気配が微かに残る、手前の襖戸を少しだけ引いて、目だけで中の様子を伺い見る。
狭い座敷の中には、寝具が一組だけ。誰もいないのを確認すると、ハンゾウは座敷の中へとするりと入り込んだ。
空っぽの寝具には、誰も臥せってはいなかったが、たった今起き出したかのような、少しの乱れが見受けられる。
残された枕にそっと
ここに臥せっていたのは、領主の子息だろうか。いや、それとも——。
ハンゾウは記憶を手繰り、この別邸へと辿り着くまでの道程にて遭遇した、妖に操られていた人々を思い起こす。
その中には、子息その人と思わしき若者も、また彼の許嫁と思わしき若い娘も見当たらなかったように思えた。
子息も、その許嫁も、同じ座敷に閉じ込められ、囚われの身だと踏んでたんだが——。
領主から聞いた限り、ジュウベエ同様、彼の子息もまた、簡単には妖に魂を持っていかれそうな人物だとは考えにくい。
ここに巣食う妖は、子息の身体の自由は奪えたとしても、未だ、その魂を取り籠むまでには至っていないのだろうと思える。
すると、許嫁の娘は、もう既に身体だけは乗っ取られてしまった後……なのか——。
臥せっていたであろう、
当初は、黒幕であろう妖と対峙する前に、許嫁の娘だけでも、別邸の外へと逃がしたいと考えていたのだ。
先に横恋慕男と出くわすのは厄介だが、ここは一番妖気の強い場所へ入ってみるか——。
ハンゾウは襖戸を開けると、燭台の一つも備えていない、真っ暗な廊下へと、無造作ながらも隙のない動きで出ていく。
彼の全身は、廊下を挟んだ向かいの座敷方面から吹き出している、妖しげな気配が一段と強くなるのを感じるのだった。
○ ● ○ ● ○
ミトは、娘と共に、いつしか眼前から遠ざかるように先を行く仔猫に、導かれるように竹林の小径を足早に歩む。
頭の上からは、月の明かりがほんのりと降り注ぎ、仔猫の後ろ姿が、影となって浮かび上がっていた。
仔猫の足取りは軽く、飛び跳ねるように小径を進んでいく。その一歩は、さしたる大きさではない。
しかし妙なことに、ふたりと仔猫との間隔は一定の距離があり、それ以上は縮まることはなかった。
やや後ろにいる娘が離れてしまわぬよう気を配りながらも、ミトは、歩く早さを上げようと幾度か試みてはいる。
だが何回試してみても、仔猫との距離は詰められない。
後方の娘を振り返ると、彼女はにっこりと笑顔で応えるのみであった。
思えば、この娘も不思議な程の早さで、ミトに追いついてくるのだ。仔猫と同じく
意を決して、歩む速さを落とし、娘の横へ並んでみる。
仔猫もまた離れてはいても、後ろ姿を見失うということはなかった。
ミトが進める足を遅くしたのには、もう一つの理由があった。
先を行く仔猫は、気に留めもしていないようだが、先ほどから僅かにだが漂ってくる臭気。
昨日、山の中でも嗅いでしまった、ミトにとっては、出来れば二度とは嗅ぎたくはなかった臭いだ。
それは小径を進む者を、まるでそれ以上は歩かせまいとするように、どこかからか湧き出している。
横を歩く娘を伺うと、彼女の顔色は心持ち青ざめており、表情も強ばっているように見えた。
ミトも徐々に強まる臭いに負けぬよう、一歩一歩、踏み締めるように歩きながら、隣の娘に声を掛ける。
あの子は、何だってこんな竹林の中にいたのかしら——。
娘は健気にも笑顔をミトに向けた。その表情からはミトと、そして仔猫に対する信頼が伺える。
あの子はきっと、わたしたちを助けようとしているのでしょう——。
影となって見えている、仔猫の後ろ姿の尻尾はぴんと立ち、軽快な足取りは失われてはいない。
こんなに臭いがきついのに、あの子ったら大丈夫なのかしら——。
元々は人の
それらをものともせず、仔猫は先陣を切るように進み、ふたりもまた、それに続いた。
でも、あなたの妖気に耐える力だって、かなりのものですよ——。
ふいに娘に誉められたミトは、目を伏せ頬を朱に染めて、柄にもなく照れまくる。
ミト自身は、そういったものに耐性があることに無自覚で、その扱いには、まるで無頓着であった。
自分では単純に、森育ちのお陰で鼻が効き過ぎて、こういった悪臭にも敏感なだけなのだと思っていたのだ。
この臭いって妖のものなのかしら、やっぱり——。
今更ながら、ミトは、この何とも形容しがたい強い悪臭を放っているのが、妖であると思い至る。
臭い……というのは判りませんが、この辺りから、既に妖気が溢れていますね——。
娘も、その美しい眉を寄せ、大人びた表情を曇らせた。
それを見たミトは、ことさら明るく冗談めかして言う。
妖どもときたら、いったい何日お風呂に入ってないのかしら——。
その、見当違いとも言える言葉を聞いた娘は、思わず笑い声をあげた。
ふふふ、そうですわね。この剣で清めて差し上げましょう——。
整った顔立ちの娘が見せる笑顔は、先ほどまでの憂いを含む大人びた印象を一変させる。
その
その時、懐に忍ばせた宝珠が、熱と光を発しているのを感じて、それを着物の上からぎゅっと握り締める。
折しも先行していた仔猫のその影は、ぽつりぽつりと並ぶ屋敷の内、一件の前で立ち止まった。
ふたりに向けられた、その目だけが光り、まるで「ここだよ」と言っているようにも見える。
こちらに向かって来る、ふたりの姿を見届けると、仔猫は身を翻して、その屋敷の中へと入っていくのであった。
○ ● ○ ● ○
ジュウベエは、友人の許嫁を名乗るその娘へと向き直ると、上げたその顔に視線を向ける。
年の頃は、自分や友人よりも二つ三つは下であろうか。娘はその整った顔立ちに、大人びた憂いの表情を湛えていた。
まるで立ち合っている相手に向けるような、鋭いジュウベエの視線。娘はたじろぎもせず、その視線を受け止めている。
寧ろ次第に、彼の突き刺すような視線を絡めとるかのように、娘の眼差しは年に似合わぬ妖艶さを増していた。
目と目を合わせたまま、ぐいぐいと身体を寄せてくる娘。ジュウベエは、それを片手で制し、低い声で一言ぼそりと尋ねる。
「
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