第9話 旧約聖書

「お食事をお持ちしました。


 すぐに鼻を衝いたのはさわやかなお吸い物の香りだった。なかなかの演出に苦笑してしまったがそれも重厚な漆塗りの弁当箱を開けるまでだった。


「なんだこれは」


 蓋を開けた羽黒が絶句する。あわてて覗くと目に入ったのは端から端までありそうな海老の天ぷらだった。他にもウナギの蒲焼きや中トロと思われる刺身にイクラ、それを入れてある器もアルミではなく陶磁器の小鉢ときている。


「お気に召して頂けましたか」


 エントランスに入ってきたのは姫山課長だ。羽黒が蓋を戻して向き直る。


「VIP用では」


 姫山が柔らかく微笑んだ。


「突然の要請を快く引き受けて頂いた社長からのお礼です」


 大水の言葉を思い出す。たしかにこの方法なら羽黒の意識を変えられるかもしれない。


 姫山はゆっくりとテーブルの横に来て口を真っすぐに結んだ。


「鬼谷次長が要らぬ忖度で何かを指示したかもしれませんが、これが社長のお気持ちであることを理解して下さい。それと」

小村を横に並ばせる「明後日の九時までこちらの専任として置きます。職務に専念して頂くことが目的ですので必要なことはなんなりとお申し付け下さい」


 軽く会釈をして引き下がる。


「食事が終わりましたらお茶をお持ちします。他の要件につきましても内線で連絡下されば結構です。よろしくお願いします」


 丁寧にお辞儀をして小村は配膳する。


 これだけのご馳走を味わうことなく食べ終えたのは初めてだった。三人ともが無言でワゴンに片付けて椅子に腰を落とす。


「まいったな」

羽黒が天井を仰ぎ手を額に当てる「社長は本気だということか」


「真剣にやればいい、ただそれだけのことでーす。私は最初からそのつもーりでいました」


「続きをやるぞ。まずは麦原さんからだ」


 羽黒の眼付が変わった。


「社長に報告する答を先に言ってしまーうことになりますがそれでいいでーすね」


「どうせそのままでは報告できないからさっさと言ってくれ」


「そう言っていられるのも今だけでーす。キリスト教の教えにおいて人の命は神である天の父によって吹き込まれーるとされています。男系の思想はこの天の父と肉親である父の混同によって生まれーたものであるのです。勘違いがそのまま伝統にすり替わってしまったのでーす」


 言い終わってから自分の意見を正当化するように大きくうなずいた。


「この世に科学というものがなかったら拍手喝采を浴びたところだろうな。次長の言っていた根拠がないと結論づける一つの案ではあるが男系の思想は世界中にあるんだぞ。そのどれもが同じ勘違いをしたというのか。ちょっと待ってくれ」


 話の最中に入った電話に出る。


またかと思ったが対応が違っていた。


「こっちはこっちで忙しいんだ。これからは君たちの裁量でやってくれ」

今度はスイッチを切る「悪かった。続けてくれ」


「今のは違いまーす。勘違いは一度きりでそれが基本原理となって世界中に広まったのでーす」


「でまかせもそれくらいにしておくんだな。その思想が日本にあるのならどうして天の父が日本の神に登場しないんだ」


「キリスト教では神の名をみだりに唱えることは禁じられていまーす」


「日本の最高神はアマテラスだ。その名を唱えることは禁じられてもいないし、そもそもアマテラスは女性神のはずだ」


「それも勘違いの結果でーす。アマテラスの上には天上の三神がおらーれ古事記の冒頭にも書かれていまーす。その三神こそが三位一体のお姿なのでーす」


「みだりに名を唱えることは禁じられているんじゃなかったのか」


「ですから日本の言葉に置き換えたのでーす」


 羽黒は憮然とした表情で大きく息を吐いた。


「どちらにしても社長の言った聖書に書いてあったとか誰かが言ったというレベルを超えるものじゃない。ちょっと科学的な議論に戻させてもらうぞ」


 僕の意見を聞くのが先だと思う。


「ちょっと待って下さい。ミームだって誰かが言ったというレベルじゃないんですか」


 沈黙があった。少しは効いたのだろう。


「それならもっと基本的な命に関することに戻ろう。分かりやすく言うと赤ん坊の誕生についてだ」


 その内容なら必要かもしれない。羽黒はネットを検索し始める。CH1に切り替えるとディスプレイに表示されていたのは精子と卵子が結合する連続イラストだった。


「社長の問題提起に戻って考えたい。男系の思想が真実だと仮定すればどこかで何かが引き継がれているはず。女性の場合は十か月程度腹の中にいるわけだから何かを引き継ぎたければその間にすればいい。しかし男性の場合は性交渉を行う時に限られる。状況的に圧倒的有利な女性にはできなくて不利な男性にのみ可能な何かを探せばいいんだ」

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