第8話 モチベーション
読めてきた。羽黒はおそらく小中学校の頃に聖書を読んだのだろう。そこで神は人の姿をしていると知り、ずっと信じてきた。科学の知識が身につけばそれが嘘であることが見えてくる。それでもなお涼しい顔で聖書は正しいなどという人たちに腹を立てているのだ。
正直言えば自分も聖書は苦手だ。逃げ出すことができないなら鼻柱をへし折ってやりたいと思う。でもそれ以上に科学至上主義には賛同したくない。
「今の今までは信じていませんでした。でも羽黒さんが科学的に証明してくれたので少しは信じる気になりました」
「お前もひねくれた奴だな」
自分はどうなんだと言い返したかったが怒らせると協力が得られない。
「たしかに社長の依頼に応えようとすれば聖書に書いてあるという説明だけでは受け入れてもらえないでしょう。でも科学だけで答を出すことはできますか」
少し間があった。まさかできるとは言わないだろうが。
「それは無理だ」
とりあえずホッとした「科学というものは実験結果などから得た数値と仮説とを突き合わせて検証し、初めて理論として認められる。今の状態だとそれらしく脚色した嘘を創るくらいが限度だが、それ以前にこんな人と一緒にチームを組んで仕事をするはお断りだ」
そう言うだろうと思った。
「まさか降りるんじゃないですよね」
「降りたら人事考課を下げられる。それもごめんだ」
「じゃあ」
「こっちはこっちの理論でやる」
すかさず麦原に向き合う。
「キリスト教を信じるのは勝手ですがもう少し歩み寄れないのですか」
「銀山くんはサタンに魂を売れと言うのでーすか」
「大袈裟なんですよ。羽黒さんは科学だけでは説明できないと言ったんです。ということは答は宗教か哲学の中にしか期待できない。麦原さんが少し態度を軟化してくれるだけで丸く収まるんじゃないですか」
「歩み寄らないのは羽黒くんも同じではあーりませんか」
「どこが」
羽黒が体を起こす。
「私は羽黒くんの理論を聞きまーしたが羽黒くんは我々の話を聞いてくれませーん」
羽黒が今の言葉に反応する。
「じゃあ話を聞けば態度を変えるというのか」
「真剣に聞く気があればのことでーす」
「それなら話を聞こうじゃないか。どちらが先だ」
「答は分かっているのですから当然私ということになりまーす」
大きく出たものだ。お手並み拝見と思っていたらバイブの音がした。
「羽黒だ」
何やらフンフンと相槌を打っている「すまんがもう一度行ってくる」
これでは進むものも進まない。
「羽黒さんちょっと待って下さい」
「すぐ戻るから後にしてくれ」
「どうして羽黒さんが行かなければならないのですか」
「特許の共同出願の調整で手を焼いているんだ。上の奴らじゃ仕事にならん」
そう言い残して行ってしまった。麦原はともかく、なんとか羽黒だけでもやる気を出させる方法はないだろうか。
気は進まなかったが大水に相談してみることにする。部屋の隅にある内線電話を手にした。
「はい調達の大水でーす」
ものすごい音量だった。思わず耳から受話器を離す。
状況を話すと珍しく間があった。
「羽黒くんをやる気にさせると変な方に行っちゃわない」
「鬼谷次長の話をうなずきながら聞いていたからそれはないと思う。でもこんな調子だとタラバ蟹は遠くへ行ってしまうだろうな」
「ダメ。羽黒くんはなんとかするから蟹は頼んだわよ。じゃあまた後で電話する」
立ち上がる音がして通話が切れた。
麦原と二人で無言の時を過ごす。羽黒が戻ってくるまでは進めることができないからだ。
程なくして羽黒が戻る。
「それじゃ話を聞こうか。麦原さんからだったな」
三人が座ったところで今度は内線が鳴った。大水に違いない。
「あっ銀山くん。今執務室で小村っちと一緒にいるんだけどね、さっきの話は昼まで待ってって言ってたよ。なんとかしてくれるみたい。じゃあ蟹のこと頼んだからね」
一方的にガチャっと切れる。しかしどうするつもりだろう二人に謝りを入れて席に着く。
「あまり期待はできないが言ってみろ」
「その前に一ついいでしょーか」
「なんだ」
「その怒り、空腹のせいではないでしょーか。時刻はそろそろ十二時になりまーす。早く食堂に行かなーいと人気メニューはなくなってしまいまーす」
羽黒がサッと視線を落とした。普段と違うので時間の感覚がなかったのだろう。自分もまだ昼までには時間があると思っていた。
「さっきの資料はドキュメントにセーブしてパソコンをシャットダウンするんだ」
言われた通りにしてエントランスに出ると小村が来ていた。
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