2ヶ月 愛情への生来の応答と条件づけられた応答

7

 ドリームボックスで働き始めてから一ヶ月が経った。梅雨が明けて、からっとした空気が肌に気持ちいい。

 相変わらず、私たち新人の仕事は問題児の指導だった。私は小桜、谷村さんは優ちゃん。

 今日は数字の習得や、量保存の概念の実験を行うことになっていた。

 遊戯室の一角から、私は小桜に手を振った。


「せんせっ」


 小桜は私の姿を発見すると、走ってやって来た。


「だっこしてー!」

「はいはい」

「だっこ、だっこ!」


 抱きかかえられても、楽しそうに「だっこ」とつぶやき、足をばたつかせている。

 五歳児相当の身体はなかなかに重い。すぐに床に下ろした。小桜は仏頂面で抗議してくる。あまりにも可愛いらしいので、もう一度抱き上げる。何度かそうしたが、腕が完全に疲弊して、額に汗がにじんだので止めた。


「小桜ちゃん、今日はお勉強しましょう?」

「やー」

「やーじゃなくて。算数やろう」


 私が持っている算数のテキストを見るなり、小桜は声に甘い媚びを帯びさせて「えー」と首を傾げた。


「や〜だ〜」


 目いっぱいの笑顔で拒否された。

 仕事ではなかったとしたら、服従していたに違いない。


「頑張ったら、先生からご褒美あげるから。ね? 少しだけ頑張ってみよ?」

「さんすう〜やだー」


 小桜はまだ媚びが通じると思っているのか、全身をくねくねしている。

 私は空咳をする。

 今回は可愛さアピールが無効だと気づいた小桜は、むう、と頬を膨らませてテーブルに向かった。素直でよろしい。

 テキストを開く。鉛筆を手にすると、小桜はつまんなさそうに私を上目遣いで見た。ここから救い出して、と目で訴えかけてくる。私はそれを無視した。紙の上で答えが埋まっていない問いに指を当てる。


「小桜ちゃん。3+2はいくつかな?」

「じゃーきー!」

「ふふ、ジャーキー大好きだもんね。じゃあさ、ジャーキーが三本と、二本で、合わせたら何本になるかな?」

「いっぱい! しあわせ!」

「う、うん……ね、それなら幸せを数えてみよ?」

「かぞえるー?」

「そうだよ。手を出してみて。一緒にジャーキーの数を数えよっか」

「やるー!」


 小桜は小さい両手を出して、それから疑問を含む視線を投げてくる。


「ぐー、してみて? 指をたたんで、じゃんけんのぐーをつくってみよう」

「うん」

「これがゼロだよ。いい? 今はね、幸せがないの。ジャーキーがないんだよ」

「そうなんだ……」


 しょんぼりと自分の手を見下ろす小桜の頭を撫でた。本当は抱きしめたかったが、実験中は録画されているので、これ以上のスキンシップはひかえなければいけない。


「ここに、ジャーキーが三本あるとしたら?」


 小桜は、親指と人差し指と中指をそっと開いた。


「みっつ!」

「そう!それでね、もう二本あるとしたらどうなるかな?」

「いーち、にー、さん、し……ご!」

「それじゃあ、3+2は?」

「じゃーきー!」


 小桜は屈託のない笑顔で両手を広げた。

 私は苦笑いして肩を落とした。


 イヌが数の概念を理解できるか否かは、今も学者たちで意見は分かれているが、犬人は個体差が大きいようだ──特に幼犬型は。小桜はまだ生育の途上にある一方、たとえば他の個体は時刻を確認したりできる。

 気を取り直して、私はふたつのビーカーを用意する。


「小桜ちゃん。算数はおしまいで、これを見て」

「なぁーに?」


 お次は量保存の概念の実験だ。

 ビーカーのひとつは底が広く、見た目には大きい。もう片方は底が狭くて見た目には小さい。だが、どちらも容量は同じ物だ。私は大小両方のビーカーにペットボトルの水を入れた。


「どっちの水の方が多いでしょうか?」

「こっち!」


 小桜は迷うことなく大ビーカーを指差した。


「本当にこっち?」

「うん」


 私は小ビーカーの水をペットボトルに戻し、今度は大ビーカーの水を小ビーカーに移した。水はあふれることなくぴったりと収まった。


「残念。どっちも同じ量しか入ってない、が正解でした」

「えぇえーっ」


 何度かビーカー同士の中身を移し替えても、信じられない、とでも言いたげに小桜は眺めていた。

 量保存の概念は、六、七歳頃には獲得するが、それ以前の子どもはどれだけ説明しても納得してくれないという。小桜は見事に分からなかった。


 一旦、観察室に結果を報告しに行く。室内に篠塚さんと柏原さん、城崎さんと東堂さん、その他数名の人たちがいた。思いのほか大人数だったので驚いた。


「小桜を見にいらしたんですか? 皆さん」


 私がそう問いかけると、篠塚さんが頷いた。


「幼犬の経過観察に興味があるっていう人たちが集まっているんですよー。まあ、若干一名を除いて……ですけど」


 篠塚さんは、東堂さんをちらりと見た。


「失礼ね」

「とても面白い個体です」


 城崎さんが淡々と言った。


「それも含めてIIAに告発したらいかが?」


 東堂さんの皮肉は無視して、城崎さんは私の方に近づいた。


「伏見さんの経過観察の報告書、毎回読んでいます。今後も期待しています」

「あっ、えと。はい」


 話しかけられるとは思っていなかったので、私は戸惑った。城崎さんはそれっきりで退室した。東堂さんも出ていくと、他の研究者たちも続いた。

 柏原さんは、煙草を吸おうとして直前で止めて、手持ち無沙汰に煙草をくるくる回していた。


「注目の的じゃないですかー」


 篠塚さんがにやにやしながら背中を叩いてきた。


「なんでこんな大事になってるの?」

「そりゃ、伏見さんが根気よくやっているからじゃないですか」

「根気よくって、小桜のお世話をってこと? いや、仕事だし。個人的に幼犬に関心があっただけで……」

「いえいえ、よくやってますよ。なんでも、前の担当者はお世話係で使い潰されるぐらいならって、辞めちゃったぐらいですから」

「……私もそれぐらい抗議した方がいいのかな」

「さあ? 私は、先生が興味深そうにしてたのがすごいって言っているんですよ」

「先生って、ああ──城崎さん? 単なる社交辞令でしょ」

「彼が他人に話しかけるなんて稀なことよ」


 柏原さんが言った。よく見ると床にガブリエルがいた。


「あなたの仕事には期待しているわ。でも周りには気をつけることね。……私もそろそろ戻るから」


 抱きかかえられたガブリエルの姿は滑稽こっけいで、何かを啓示するかのように私を見つめていた。



「浮かない顔してるね」


 遊戯室に戻ると、まとわりついてくる小桜と共に、谷村さんに声をかけられた。


「私たちがいつ辞めるかって賭けてた」

「冗談よね?」

「まあね。でもさ、ちょっと疲れたよ。他人に実験風景を公開するのは」

「公開?」

「東堂さん以外にも大勢いたの」


 小桜が絵本を押しつけてくる。本を受け取って開いてやり、小桜を近くに座らせる。優ちゃんはその隣に座った。


「うーん、それは仕方ないよ。特に、小桜ちゃんの発育次第で計画が左右されているのが現状なんだし」

「分かってるけど。でも、三十三匹揃えてやるべきことって、何?」

「確かに」

「だー、やあっ!」


 大きい声がして、会話の内容が吹っ飛んだ。声の方を見ると、小桜と優ちゃんが絵本を奪い合っていた。


「こらっやめなさい小桜!」

「優ちゃんもやめて。仲良くしないと駄目でしょっ」


 私たちは母親のような台詞を犬人たちに浴びせたが、効果はあまりなかった。とうとう泣き出した小桜が、絵本を捨てて私を抱きしめてきた。


「せんせの、だったもん。せんせーだもん」


 小桜がそう言って泣きじゃくった。

 どうやら私に読んでもらうつもりだったのに、優ちゃんが入ってきたことで、彼女に絵本を独占されたと小桜は勘違いしたらしい。

 優ちゃんもべったり谷村さんにくっついて、泣いている。


「ほら、仲直りしなきゃ。小桜はいい子だからできるよね?」

「……やんない」

「わがまま言わないの。はい、ごめんねって言って」

「やだ!」


 困った私は谷村さんに目配せした。彼女の方も、同じような反応らしかった。


「小桜ちゃん、やきもち焼きさんね」

「本当ね」


 小桜はぶすっとした顔で、私にしがみつく力を強めた。

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