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「びすけつと、びすけとおー、びすけと〜」
医務室を後にして、ご機嫌な小桜を連れて遊戯室まで戻ると、東堂さんと男性が観察室に入っていくのが見えた。私と同い年ぐらいの男性だった。彼は背広の上から白衣をまとい、片手をポケットにねじこんでいた。昔気質の物理学者のような
はっとして、立ち止まる。
本物の
学会で遠くからその姿を目にしたことは何度かあったが、ドリームボックスで見たのは初めてだった。
犬の殺戮が完了して間もなく、遺伝工学者である
しかしその後、ドリームボックスでの研究は犬人それ自体を現代社会に適応させる試みへ舵を切っていく。当初の佐中たちの研究を改める形で計画を主導することになったのが城崎さんだった。彼の存在が決定打になり、世界は犬人で溢れた。
城崎さんは、犬人の行動学分野の第一人者であり、犬人を世の中に普及させたことで有名だった。けれど彼の犬人への姿勢は、犬人をあまりにもイヌとして扱おうとするものとしてバッシングされるケースもあった。そんな彼に反旗を
多分、というよりほぼ確実に自分は東堂さんについていくことになるが、一度ぐらい城崎さんに挨拶をしておいた方がいいかもしれない。先に小桜を遊戯室に戻すことにする。
「みんなと遊んでいてね。私はちょっと用事ができたから」
「やだ」
小桜は繋いでいる手の力を一向に緩めようとしなかった。
「小桜ちゃん、戻っててくれる?」
「だーめ」
「ビスケットを取りに行ってくるから待っててほしいなぁ」
「いっちょ」
「一緒?」
「うん」
「どうしてもだめなの?」
「うん。だーめ」
優しく諭すように語りかけても、状況は変わらなかった。むしろ手を握る力が強まってしまった。この子には少々甘えん坊な面があるのだと改めて思った。
仕方なく連れて行く。
観察室のドアを開けると、言い争いをしている真っ只中の雰囲気に、突然、空気を読まずに入ってしまったことに気づいた。
私はたじろいだが、今さら退室するわけにもいかなかった。
「何か用? 伏見さん」
「いえ、城崎さんがここに入っていくのを見て、その、挨拶だけでもと」
「ああそう。勝手にやってちょうだい」
東堂さんは苛立ちを隠さなかった。
私が名乗ろうとすると、城崎は小さく左手を上げた。
「あなたのことはすでに聞いています。その個体が第六号?」
城崎さんがじろっと視線を向けてきた。本当に生気の欠けた目で、不気味だった。小桜は私の背後に隠れて、力強く白衣を握った。
「第六号ではなく、小桜です。この子には名前があります」
「そうですか。失礼しました」
「あの、さっきまで一体何のお話をされていたんですか?」
「幼犬型犬人についてです」
「えっと……つまり?」
東堂さんを見るが、彼女は遊戯室の方に体を向けていた。城崎さんは身動ぎもせず、私と小桜に向かい合っている。
「幼犬型犬人の製造は禁止されている、ということです」
「禁止にしようとしている、の間違いよ!」
東堂さんが声を
禁止?
私はとっさに小桜の肩に手を置いて、抱き寄せた。
「本件は
「そらなら尚のこと、城崎さんに邪魔する権限はありませんよね?」
「常識的なレベルの話をしているだけのことです。研究は即刻中止するべきです。それなのに、あなたは他所の施設から何人も一般研究員を引き抜いて計画を勝手に進めようとしている。伏見さんもその一人だ。違いますか?」
「違わないわよ。要するに、私の揚げ足取りがしたいんでしょう? 私があなたの下につけば納得かしら」
「早とちりはやめてください。東堂さんの仕事を邪魔するつもりはありません」
「現にしているじゃない」
「誤った計画を、です。あなたが理性的に行う仕事に対しては妨害していません」
埒が明かない。
このまま引き下がるのも悔しくて、私は手を挙げて発言した。
「すみません。差し出がましいかもしれませんが、私も幼犬型研究プロジェクトの一員なので、現時点で問題があるのでしたら共有していただけると助かるのですが」
「計画自体に問題があると言ってるのよ、城崎さんによればね」
東堂さんが唾棄するように言った。
「その通りです。問題があります」
城崎さんは白衣の襟を直して、発言をはっきりと繰り返した。
私は頭の中で素早く現状を整理した。
「幼犬型犬人の製造そのものが問題、という話でしたが……。不都合があるとしたら、ここにいる三十三匹を、城崎さんはどうするおつもりなんですか?」
「処分します。それだけのことです」
「ふざけないで!」
東堂さんが割って入った。
「あの子たちは私が作ったのよっ、そんな勝手な真似が許されるとでもっ?」
「ですからそれを決めるのはIIAです。──失礼、もう行かなくては」
城崎さんが部屋を出ると、その後を追って東堂さんも足早に出ていった。
禁止。それに処分?
やはり計画は私の知らないところで着実に何か変化しているのだろうか。その変化に、私と小桜が巻き込まれてしまうことになるのではないか。
「せんせ、びすけつと!」
今にもよじ登ってきそうな小桜の頭を撫でる。目が合って互いに笑った。
願わくば、この子の身に嫌なことが起きませんように。
午後五時を過ぎ、小桜たち犬人を帰らせると、私たちは休憩室で一服した。部屋にひとつあるテレビは、どこのチャンネルも、専門家たちが険しい表情をキャスターやカメラに向けている。
『IIAの発表によりますと、正規軍、民間軍事会社から流失した犬人が反政府ゲリラや過激派組織で運用されているのが確認され──』
乾いた空気を感じさせる、砂漠地域。そこには砂埃にもまれながら、犬の耳と尻尾を生やした少女が何人もいた。皆、虚ろな目をして小銃を持っていた。別の画面に切り替わる。西洋社会の華やかな街中の式典で、見栄えのいい制服を着た軍人たちと肩を並べているのは、犬の耳と尻尾が生えた少女たちだった。
「世界は一体どこに向かっているのだか、分かったもんじゃない」
東堂さんがため息混じりに言った。
「良い方向に向かっていますよ」
全員の視線が声の主に集まる。台所に城崎さんが立っていた。
「犬に関係するあらゆる知識や人材の争奪戦は避けられませんがね。それも裏を返せば、犬を正しく理解し、受け入れられる勢力なら誰でも豊かになれることの証拠と言えます。現代社会において犬は人々の関心の渦中にあります。国家、思想、学問、政治、経済、文化に至る全てが犬を中心に動いていくのです。犬の世界──人類はこの理想郷を未来永劫守っていくことでしょう。あぁ、なんて素晴らしい……」
彼は紅茶を注いだマグカップを手に、うんうんと独り頷きながら部屋を出て行く。
足音が遠くなると、私たちはそれぞれ顔を見合わせた。
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