5

 不安げな声でいっぱいの部屋の中で、篠塚さんは意地の悪い笑みを浮かべていた。


「誰から注射しようかなー?」


 ぎゃああーっと甲高い悲鳴。優ちゃんがとうとう大泣きしたのだ。普段はぴんっと立っている犬の耳がしおれたようになり、丸い尻尾も重力に負けそうになっている。


「しのちゃん、余計に脅かすのはやめて」


 優ちゃんをなだめながら、谷村さんが億劫な調子で言った。


「あはは。でも、だましてみんなを連れ行っても同じことになっていたじゃないですか。この子たち、医務室までのルートに連れてくと引き返そうとしますし」


 ネットで観た、動物病院に近づくなり飼い主から逃げようとする飼い犬の動画を思い出して、私は薄く笑った。


「というわけで、今回は先生たちをこっちまで連れてきましたー!」


 篠塚さんが手をひらひらさせて扉に向けると、何人かの男性職員と数匹の成犬型の犬人が入室してきた。見慣れない顔なのか、犬人たちはそこまで悪態をつかなかった。成犬の犬人が幼犬たちを暴れないように固定して、流れ作業のように注射を施していった。

 小桜は注射の正体を理解したらしく、予想通り大暴れした。成犬たちがいなかったら確実に逃げられていただろう。イヌとヒトの遺伝子を組み合わせた合成生物である犬人は並外れた筋力を持っている。人間の子供とは話が違う。

 注射自体はものの数秒で終わったが、小桜は優ちゃん以上に泣き叫んだ。


「せんせぇええーっ!」


 突進してきた小桜に強い力で抱きしめられた。思わず倒れそうになるが、なんとか受け止めて、私は小桜の頭をゆっくりと撫でた。


「痛かったよね、ごめんね。もう大丈夫」

「いたい、いたい、やだあ」

「痛いの痛いの飛んでけってしようか」

「とんでけ?」

「うん。痛いの、どこかに飛ばせばいいんだよ。ほら、痛いの痛いの飛んでけー」

「とんでけぇ」


 ずっと私の腕の中にいる小桜は、ぐずりながらも「とんでけ」と歌うように口にした。


「せんせ、いたいの、とんでけぇ」

「その調子。ほら、そんなに痛くないでしょ?」

「うん……」


 小桜は鼻を私の胸に押しつけてきた。私はそっと抱きしめて、背中をぽんぽんと軽く叩いた。

 注射をするために来た職員や犬人たちが出ていっても、小桜はしばらく離れようとしなかった。


「伏見さーん、すっかりなつかれちゃいましたねえ」


 いつの間にかそばに立っていた篠塚さんが笑いながら言った。


「ほんと困った子だけどね」

「まるで母親ですね」


 容赦のない後ろめたさが私を刺し貫いた。

 違う、私は母親なんかじゃない。

 小桜の犬の耳が手に触れると、その思いは増していった。

 母親という存在への強烈な違和感が、私を圧殺してきた。


「あっ、そうだった、伏見さん、午後一時に小桜ちゃんと一緒に医務室に行ってください。先月すっぽかした別の予防接種がありますから。ダナが打ってくれるそうですよ」

「え、別の?」


 我に帰って訊き返す。


「前回、小桜ちゃんが大暴れしたので注射できなかったんですよ」

「ああ……なるほど。でも、私一人だけだと──」

「じゃ、私の仕事はこれまでなので!」


 退室する篠塚さんには引き止める声は届かず、私は所在なげに、小桜を見下ろした。


 私と小桜は指定された時間に医務室に向かった。

 医務室が近づいたことで小桜は明らかに警戒を強めているが、逃げ出そうとはしなかった。注射という危機は過去のものだと思い込んでいるのが見え見えだ。


「ダナさんはいらっしゃいますか」


 奥に白衣姿の大柄な女性がいた。彼女は「私」と呟いて、レントゲン写真から目を離す。薄紫のメッシュが入った白髪とまっすぐな背筋は若々しいが、母よりも年上の女性だった。


「シノから話は聞いているわ。私がダナ・カシワバラ。獣医師として犬人の健康状態の管理を受け持っている。よろしく」


 私は小桜を連れて来たことを暗に伝えた。


「分かった、ありがとう」


 柏原かしわばらさんは吸っていた煙草をプラスチックのコップへ落とした。


「ここって全面禁煙じゃなかったのですか?」

「自由を、しからずんば死を」

「はい?」

「普段の仕事は別室でやるからおとがめなし。早速、やりましょうか」


 彼女はにこりともせず、注射器具の準備を始めた。小桜が逃げ出さないかと不安だったが、彼女は別の何かに注意を向けていた。

 足元に奇怪な物体があった。AIBOアイボだ──ソニー製のロボット犬。


「ガブリエル。私の愛犬にして電気動物」

「へえ……」

「がぶーぃえる」


 小桜が近寄って触った。冷たく硬質なボディが新鮮に感じたようで、色んな角度から触っている。


「私は人造人間レプリカントではなく人間。あなたがそうであるようにね。ところで、あなたは何か動物を所有している?」


 新しい煙草を取り出しながら、柏原さんが訊いた。

 生真面目そうな彼女の前では笑ってはいけない気がして、神妙な面持ちで首を横に振った。

 電気動物なんて何年ぶりに聞いただろう。この人、SFファン?


「アイボって修理のサービスが終わっていましたよね。ちゃんと動くんですか?」

「こう見えても、機械いじりが好きなの」


 柏原さんは煙草を指で回した。粛々とした火が示す先には写真立てがある。建物を背景に、多様な肌の色に囲まれた彼女が写っていた。


「ニューハンプシャー出身の日系アメリカ人。昔はマサチューセッツ工科大学MITで生物工学を教えていた。それと並行して動物病院にも勤めていた」

「すごい経歴ですね」

「そうでもないわ。周りは獣医師を副業だと思っていたようだけど、私に言わせれば大学の方こそおまけ。あの感染症が目立ち始めてからは、国立衛生研究所NIHで感染症研究にも携わった。充実した日々だった……。愛犬家であること以外は何も取り柄のない政治家たちが、犬を亡くした逆恨みで私を更迭こうてつしたことに目をつぶればね。動物病院も需要が下がって閉鎖、大学に戻る気も失せていた時にドリームボックスに招聘しょうへいされて以来ここで働いている」


 自分のそれとは比較にならない経歴に、私は黙ってしまった。人間、能力があまりに離れた他人には嫉妬すら起こらない。


「六十二年間独身、子なしのオヒトリサマ。ついでに言うと卵子バンクにも登録していない。質問はある?」


 柏原さんは一息で話すように淡々としていた。

 ぎこちなく動き始めたガブリエルは、犬を模したロボットだが、どこまでも生命を宿していなかった。小桜はその犬の顔をじっと覗き込んでいる。


「……本物の犬は、飼わないのですか?」

「犬という概念を感じるにはこの子で十分だから」

「概念の犬?」

「個人的に犬に対して関心があるのは、そうね、犬の外見に似せた機械類で構成されたイヌは犬になれるのか──そういったものになるわね」

「考えたこともありませんでした」

「あらそう。けど、犬を科学的アプローチで再構築してみせたのは後にも先にもあなたたち日本人だけよ。もう少し真摯しんしに、犬を考えた方がいいんじゃない?」

「そうかもしれません。分かりました」

「分かっては駄目よ。考えないと。そうでしょう?」


 柏原さんは注射を取り出した。


「あ、はい……。小桜ちゃん、おいで。すぐ終わるから」

「なーに」

「ちょっとだけ我慢しようね?」


 小桜は首を傾げて微笑んだが、私から柏原さんに視線を移すなり、険しい顔つきになった。


「ちゅーしあ、やーだっ! ばいばい!」


 小桜は柏原さんに手を振った。それはバスの見送りを再現しているらしかった。ばいばい、と手を振ればこの場から離れられると考えたらしい。


「ばいばーい。ね、ばいばいなのっ!」


 出入口まで引き返したものの、小桜は外には出ようとしなかった。じっと私の方を見て、頬を膨らませて何かを訴えている。


「せんせっ」

「どうしたの?」

「ば、い、ば、いっ」


 小桜は地団駄を踏んだ。危機的状況が変わらないことが気に食わない様子だった。


「おいで」

「やだあっ! ばいばいする!」

「我慢できたら、ビスケットあげるから」

「……びすけつと……」

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