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 名前が決まった翌日から、小桜の教育が本格的に始まった。やることは山積みだ。言葉、食べ方、他の個体とのコミュニケーション、トイレトレーニング……。

 何もかもが人間の子育てみたいだった。言葉を教えようにも絵本を見るだけで発声しないし、椅子に座らせようとするだけで暴れる。フォークやスプーンを握らせることにも難儀した。遊んでいる犬人たちのグループに入れてもらえるよう背中を押したりしても、人目のつかない所に引っ込んでしまう。排泄もよく分かっていないようで、ずっとオムツが外せなかった。

 最初は試みたことが全部裏目に出て、大泣きしたり危うく噛まれそうにもなった。早くも私は育児ノイローゼにおちいった。子育てなんてやったこともないのに、その苦労を自分も背負った気がした。

 一週間も経過すると、小桜が生来の人見知りで、あまのじゃくな性格であることを理解した。一緒に何かしようとしてもかたくなに断り、走って逃げてしまう。みんなと遊ぶ時間でも単独で積み木に没頭し、他の個体との協調を拒む。そのくせ、完全に放置されたと悟ると、寂しそうにこちらに目配せしてきた。

 ひとつ大きな変化があったとすれば、小桜は私の存在に多少なりとも慣れたことだ。見送りの時も、私が手を振ると応えてくれるようになった。


 教育が始まって半月ほど経った日のレクリエーションの時間、小桜はきちんと椅子に座り、テーブルに広げた絵本と格闘していた。物のイラストと名称を載せた本で、ひとつずつ指を差して発音していく。


「だーめん」

「ん?」

「だあめん」


 絵本を覗くと、それは食べ物の項目だった。小さな指の先には麺料理がある。


「ラーメン、だよ」

「だーめん」

「ら」

「だ」

「……ら」

「だっ」


 にやついてしまった。

 小桜は不服そうだったけれど、全身でその気持ちを表現している姿が幼くて可愛い。


「でもん」


 気を取り直したように、小桜が隣のイラストを示した。黄色い果物。


「でもん、でもん!」

「レモンだね」

「でもん」

「ふふふ」


 こらえきれずに笑ってしまった。

 小桜はぶすっと頬を膨らませて、精一杯低い声で「でもん」と言い捨てた。それがあまりに可愛らしくて、抱きしめようと腕を伸ばしたが、小桜はさえぎって、絵本のページをめくった。

 小桜は簡単な物なら言えるようになった。少しずつ語彙が増えてきたのだ。二歳児程度といったところだろうか。未だに「魚」は「ちゃかな」だし、「ラッパ」は「だっぱ」で、「飛行機」は「こーき」だったが、私がひとつずつ教えて見守っていると、小桜は以前よりも訓練に集中してくれた。

 犬人の発育は生まれた時にほとんど済んでいるが、小桜のように製造過程で不具合があると知能や行動に異常が出る。興味深いのは、そんな「不良品」であっても、適切に教育を施せば人間以上の速度で学習することだった。まるでこれまで伸ばせなかった成長を補うかのように。

 犬人は現在でも謎めいた部分が多く、製造側も把握していない未知の領域があるという。ドリームボックスをはじめ犬人研究都市の役目は、それを全て調べ上げて、犬人を現代社会により良く適応させることだった。

 ひょっとすると、小桜の発育過程で論文を書けるかもしれない。そう思い、独自に記録を取り始めたが、そのことを東堂さんに伝えると嫌な顔をされた。当然だ。彼女は、自分の研究を進めたいのであって、小桜──第六号は目の上のこぶなのだろう。研究者としては、彼女の態度の方が私よりもずっと正しい。

 犬人とは何か。

 犬とは何か。

 ここにいる研究者の全員が、それらのテーマに一生涯を捧げるつもりでいる。


 犬人が誕生するまでに障害がなかったわけではない。

 世界は、急激な変化の時代にあった。

 二十五年前、突如としてイヌ由来の人獣共通感染症のパンデミックが発生した。

 既存の感染症とは桁が違う致死率と感染率、極端に長い潜伏期間、宿主の外でも数百時間以上生き延びるウイルスの強靭な生命力。恐るべき能力を備えたこの感染症は、犬と人類の歴史にピリオドを打つために誕生したと形容するほかなかった。

 日常生活で犬との距離が近かった先進国は大打撃を受けた。パンデミック発生後三ヶ月時点で、全世界で二十四億人以上、日本では約五千万人が死亡した。ほとんどの大都市は機能を停止した。生き残った者も、餓死と、相次ぐ物資の略奪や暴動、大国同士の戦争によって無慈悲に減り続けた。瞬く間に、世界人口は全盛期の半数を下回った。

 事態の終息を図るべく、世界保健機関と国連は地球上の犬の大部分を殺処分することにした。苦渋の決断だったが、このままでは現代文明が維持できなくなる恐れがあったのだ。

 「犬の殺戮」と呼ばれる掃討作戦が終わり、感染者の隔離政策が安定しても、世界は元通りにはならなかった。親しかった人と犬が消えた。家族や、それと同等と思ってきた動物を失った人々は精神的に疲弊した。秩序が砕け、民衆は統率を失った。治安を維持するべく国連軍が発足すると、小規模な争いが日常のものになった。

 国連がその意義を見失うほど、各国はパンデミック時の対応をめぐって互いに罵り合った。現代においても、憎悪は他者への不寛容を生む。そこには大国も小国も関係ない。八年前、ロシアがウクライナに侵攻したのもそうした背景があった。対応を求められた国連軍は、日本が提案した新兵器を認可し、戦線に投入した。新兵器──軍用の犬人だ。

 犬人は、一匹あたり中古の自動車並という安価なコストでありながら、短期間で多くの頭数を揃えることができる強力なゲームチェンジャーだった。一万匹の犬人は数ヶ月の戦いを経てロシア軍の駆逐に成功し、ウクライナを勝利に導いた。戦後復興にも一役買った。身体障害を負った者を介助し、建物の瓦礫から生存者を捜索し、心身共にストレスで汚染された人々を癒し、対人地雷の撤去にも貢献した。それらは、かつて犬たちに任せられていた仕事と同じものだった。

 それ以降、犬人は商品として多くの地域や国で採用されることになった。ドリームボックスは犬人を製造する工場と化した。

 生物を人工的に生み出す行為が倫理に反するという批判が殺到し、ドリームボックスの科学者たちを学会から除名する運動や犬人を廃絶する活動も一時は盛んに行われたが、犬人が世界中に普及すると、嘘のように縮小していった。

 崩壊を避けるためには、世界は見捨てたはずの犬に依存する道を選ぶしかなかったのだ。


 絵本をすっかり読み終えた気になったのか、上機嫌な小桜が私の白衣の袖を掴みながら、「たらーしの!」と言って椅子から飛び跳ねた。


「たらしーの、なの!」


 小桜が本棚の方を指差した。


「せんせ、たらしーの」


 初めて「先生」と呼ばれたことに私は驚愕した。


「たらし? ……新しい絵本が読みたいの?」

「うんっ」


 先生呼びに続き、まともな会話ができたことで、私は感極まって声を上げてしまった。他の職員たちが不思議そうな表情で見てきたが、それすら気にならなかった。


「小桜ちゃん、すごいね! 今、『せんせい』と『うん』って言えたじゃん!」

「う……?」


 急に大きな声が返ってきたためか、小桜の反応が鈍くなった。

 いけない、と思いつつも私は小桜の頭をわしゃわしゃと撫でて、彼女の両脇に腕を通してその小さな体をわずかに浮かせた。乱暴な動きに、小桜は、きゃーっと楽しそうな悲鳴を上げた。


「せんせ、うん!」

「そうだね、うん!」

「えへへへ、うん! うんっ」


 いつの間にか他の犬人たちが私たちを囲んで、踊るように体を動かしていた。新しい遊びか何かだと勘違いしているらしいが、みんな元気な笑顔をはずませていた。一瞬にして、子供たちのぎゃあぎゃあとした喧騒に包まれる。

 他の部屋の迷惑にならないかと思い始めたのと同時に、扉が勢いよく開いた。篠塚さんがそこにいた。彼女は両手を拡声器のように構えて、叫ぶ。


「みんなー! 今から注射だぜ、ヘイ!」


 はしゃいでいた犬人たちの顔つきがみるみるうちに曇っていく。小桜の次に神経質な個体であるゆうちゃんがふええ、と泣いてしまった。


「ちゅーしあ?」


 小桜は他の犬人たちの様子を眺めて、私の袖をぎゅっと握ってきた。


「せんせ、ちゅーしあって、なあに?」


 疑問文まで使いこなせている!

 私はまた一人で勝手に感動していたが、教えてしまうと絶対に面倒なことになると悟った。

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