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午後五時を過ぎた頃、幼い犬人たちが帰宅することになった。少女たちは別の施設で暮らしていて、幼犬型を使う実験がある日はドリームボックスに送られてくるそうだ。
「みんなまた明日ね! ばいばーい!」
篠塚さんが元気よく手を振る。バスの方からは何匹もの犬人が笑顔で応えた。幼稚園の送迎の光景みたいだと思った。親が待つ家に帰っていく子供たち。それを見送るのは、もちろん先生たち。
私も手を振るが、例の少女はじっとこちらを見つめてくるだけだった。
バスの姿が見えなくなったところで、谷村さんが息を切らしながら駆け寄ってきた。
「間に合わなかったかあ」
「何かあったんですか?」
「六号ちゃんが忘れ物してて」
「気づかなかった……。それなら私が届けるよ。あの子の担当なんだし」
「え、いいの? 良かった、助かる」
谷村さんから渡されたのは犬人用の名札だった。桜の花びらの形をしたそれは、中央に真っ白な長方形のプレートを収めていた。
自家用車で山道を下りる。
木々の隙間から覗く街並み。この街には科学者がたくさんいる、と想像すると胸が踊った。
愛知県に位置する犬人研究都市は、国内最大の科学都市だ。茨城県にある
私は二年前からポスドクとして、この都市内の施設にある成犬型犬人の研究部門に籍を置いていた。そこで書いた論文が認められて、晴れて一般研究員になり、幼犬型犬人のプロジェクトのメンバーとしてドリームボックスに採用された。
ドリームボックスは世界最高水準の犬人研究機関であり、特定国立研究開発法人に指定されている研究所だ。対象とする「犬人(inubito)」の基礎から実用的な側面まで幅広い研究を一手に担っている。様々なプロジェクトを共同で行えるようにしており、動物行動学や合成生物学などの研究チームだけでなく、犬人が社会や文化に与える影響を調べる専門部門も存在する、世界的にも珍しい文理融合型の研究所だ。
建物自体は都市の外れにある山中に築かれている。昔はこの施設とそれに属する研究チームだけが犬人を研究していたが、研究規模が拡大してからドリームボックス周辺を囲うようにして都市が築かれた。そのため、分野は都市内の各施設によって細分化されているにもかかわらず、科学者としての出世を目指す人々は、ドリームボックス勤務──登山を狙うのが常だった。逆にそちらで目立った成果を挙げられないと、下山という名の左遷を余儀なくされるケースもあるそうだ。
日本では博士号を取得しても職にあぶれることが珍しくない。その中で、私は何年もポストが空くのを待つことなく比較的順調に立場と仕事を得てきた。けれど、まだ終わりではない。研究者としてはスタート時点に立ったばかりなのだ。ここでの仕事次第で人生が決まると言っても過言ではない。だからこそ、頑張りたかった。自分のためにも、母を見返してやるためにも。
あの少女の担当をすんなりと受け入れることができたのは、ドリームボックスでの仕事なら何でも良かった事情もあった。
しかしそれ以上に、少女を見た時、私は目を奪われたのだ。桜吹雪の中で墓参りをした帰り道、お母さんのことを思い出したように。
だから、少女につける名前はすでに決まっていた。
存在しない私の娘の名をあの子にあげよう。
谷村さんに教えてもらった施設に到着すると、駐車場には犬人たちの送迎用バスが停まっていた。
受付で職員に事情を説明し、施設の奥へと進んだ。そこでは区域ごとに年齢別の犬人たちが暮らしていた。さきほど犬人たちを家に帰したつもりになっていたが、こちらの方が何倍も本物の幼稚園のようだった。
数匹の犬人が私に興味津々といった面持ちで近づいてきた。おやつもおもちゃもないよ、と両手を上げて降参したが、少女たちはきゃあきゃあと歓声を上げて
「ぱだぁーあーあぁー」
喃語が聞こえた方に振り向くと、厚いマットの床に座った少女が崩れたジェンガの山を乱暴に叩いていた。
少女は私の存在に驚いたが、やがて面倒くさそうな表情で立ち上がった。物陰に隠れようとしたので、私は先回りして名札を差し出す。
「忘れ物」
「ああーうぁ?」
「これ、六号ちゃんのだよ。忘れてたから持ってきたの」
「だぁー、うー」
少女は首を
それっきり興味は完璧に移行してしまったようで、少女は私のことなどお構いなしに腰を下ろすと、名札をためつすがめつ
「私のこと、忘れちゃってない?」
少女はきょとんとした顔で見上げてくる。
「今日ドリームボックスで会ったよ。覚えてないの?」
「あうだ」
「伏見茉菜だよ。ふ、し、み」
「ふしぃー」
「そうそう!」
嬉しくなった私は少女の頭を撫でようとした。だが、少女は大きく首を振って抗議した。
「トライしてみよう」
「だー」
「だー、じゃなくて。伏見って言って?」
「うだぁ」
なんだ、学習したんじゃないのか。
肩を落としたが、すぐには諦めなかった。意思疎通をする上で互いの呼び名は大切だ。根気よく少女に私の存在を刷り込ませておくことにする。
「名前の方が短いから分かりやすいかな。私は茉菜」
「まーだ」
「茉菜。はい、言ってみて」
「まぁあ」
「ま、な。茉菜。はい」
「まま」
ママ?
胸を
何も言葉が返ってこないことに関心を持ったのか、少女は、何度も繰り返し「まま」と発した。ぷっくりとした可愛らしい唇だった。
ママ。
Mの音を発音する際の唇の形は赤ん坊が乳を吸う時のものと酷似しているという。諸説あるが、母親を指す言葉にはMの音が含まれている傾向にある。哺乳類(Mammalia)は最たる例だ。
「ママじゃなくて先生」
「ぱあだ」
「とにかく……先生だからね」
私が声を低くして念を押すと、少女はけらけらと笑い転げた。どこがツボなのか皆目見当もつかないが、初日でこれだけ打ち解けることができたのだから良しとしよう。
「ねえ、六号ちゃん。私、あなたに名前をつけてあげようと思ってここに来たんだよ」
「うばあだぁだ」
「名札、ちょっと借りるね」
「あっ! だああだあっ」
少女の手から名札を取ろうとしたが、強引な抵抗にあった。
見かねた職員の人が、犬人用のビスケットを少女に与えて落ち着かせてくれた。その間に、私はバッグにしまっていた適当なペンで『こざくら』と記した名札を少女の胸につけた。
「今日からあなたは
「だだうあー!」
少女改め、小桜は自分の胸についた名札に興奮したのか辺りをめちゃくちゃに走り回った。意味が分かっているのかは知る由もない。もしかしたら、単純に新しいおもちゃをもらったのと同じ感覚である可能性もある。
それでも、仕事仲間の呼び名が決まったことに私は安心した。
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