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「六号に名前はあるのですか?」


 遊戯室に繋がる扉を閉めながら、東堂さんにいた。彼女は手に持つタブレットへの入力作業を中断せずに「ない」と素っ気なく言う。


「他と名前がかぶらなければ、好きにつけていいけど。リストは渡してたよね」


 はい、と答えて遊戯室に向き直る。少女は自分の尾を触っていた。

 教育するにあたって、まずは少女の名前を決めなければならない。

 実験動物には名前がいる。昔、欧米では実験動物に名前をつけることが避けられていた。しかしある時から日本の霊長類研究者が実験用のサルの顔を見分けて、それぞれに名前を与えた。欧米の学者たちは初めこそ誰も信じなかったが、現在では世界中の科学機関で誰もが実践する。犬人も例外ではない。

 少女の名前を考えようとした時、廊下側の出入口から遊戯室に数人の職員が入ってきた。


「みんなー。そろそろ移動しましょうか」


 はあい、と犬人たちの元気な返事が部屋に響いた。部屋の奥に座る少女は、他の犬人たちが廊下に出ても、黙ってうつむき、大切そうに積み木を抱えている。


「遊びの時間は終わりだよ?」


 若い女性の職員が少女に気づき、近寄って手を伸ばした。少女は手を握らなかったが、意図は察したのか、おぼつかない足取りで立ち上がった。


「おもちゃは置いていこうねー」

「だーだっ」

「まいったなあ」


 警戒する少女をなんとも思わない様子で、女性は気さくに笑う。


「じゃあ、それ、持ってていいから」

「だあだ」

「よーしいい子だ。けど今回だけだぞー」


 女性についていき、少女は部屋を出た。

 実験対象が消えたというのに、東堂さんからの指示はない。

 私は不安を覚えて視線を移す。


「犬人たち、いなくなっちゃいましたが」

「もうそんな時間? ……伏見さんはまだ幼犬たちの日程も知らないんだっけ。悪いけど、そこは教育班に教わってもらえるかな」

「分かりました」


 思案げにタブレットを操作する東堂さんに会釈し、私は廊下に出た。

 朝から胸に秘めていた高揚感が急速に萎えていく。幼犬型犬人の初期実験個体第六号の発育は、計画全体からすれば瑣末さまつな項目のひとつでしかないのかもしれない。それなら新人に任せた方が合理的ではある。当事者の立場としては面白くないけれど。

 私だってポスドクから脱したのに。

 とはいえ、自分がドリームボックス南棟の研究チーム内では非力な新参者である現実は認めている。やっと「登山」できたのだ、今は上の意向に従うしかない。

 顔を上げると、幼い犬人たちの笑い声がする方から一人の若い女性職員がきびすを返した。少女を退室させることに成功した女性だ。彼女は小走りで私の前へと来るなり、大袈裟おおげさにお辞儀した。


「今日入った新人さんですよね? はじめましてっ。私、篠塚若菜しのづかわかなと申します!」


 有無を言わさない態度で握手が交わされる。

 彼女は旧友にでも会ったみたいに愛想良く微笑んでいたが、やがて眉をひそめた。


「無反応ですけど人違い?」

「いえ、私です。すみません、ちょっとびっくりしてしまって」

「なーんだ、そうでしたか。伏見さん、これからどうぞよろしくです!」


 彼女は上目遣いで私を見た。犬人のように美しく大きな瞳。中学生みたいに背が低く、白衣を着ているのがアンバランスだった。胸元の名札には『W.Shinozuka』とある。


「篠塚さんで、いいですよね?」


 ずっと続く握手に根負けした私は確認した。篠塚さんはこくこくとうなずき、手を離す。


「そうですそうです! うわあ、嬉しい。早くも覚えてくれんですね。感謝感激雨あられです。でも感謝感激だけにしときます。こう見えても節約家でして。それはそうと、迅速に自己紹介しましょう──ストックホルム出身、大阪その他色んな場所で育った超絶天才美少女がこの私です。ドリームボックスでは社内ニートライフを満喫してます!」


 美少女と窓際族を自称する女は普通じゃない、と私の理性が苦言をていした。


「どうしちゃったんですか? まるで眼鏡をかけてないメガネザルを見た人みたいに衝撃を受けたお顔ですよ?」

「どんな顔ですか、それ」


 意味が分からなくて少し笑った。だが、篠塚さんは聡明な笑みでふふんと鼻を鳴らす。


「えぇー? 知らないんですかぁー? メガネザルは眼鏡あってこそじゃないですか」

「眼鏡をかけていないのが普通では」

「そりゃ普通のサルにはありませんけどね。普通のサルには、ね。もしかして伏見さん、図鑑とか見たことないんですか。動物行動学者なのに?」


 篠塚さんのふざけた態度は改まっていた。少し前とは打って変わって、真面目な表情だ。私の中に築かれていた常識に亀裂が走る。


「……本当にそんなメガネザルいるんですか?」

「インドネシア動物園のクーちゃんっていう子とか、結構有名ですけど」


 具体的な名前まで挙げられてしまい、私は困った。

 無論、そんなメガネザルがいないことは理屈で分かっている。ただ、篠塚さんの言い方が悪いだけかもしれない。彼女は野生の種ではなく動物園にいる特定の個体を挙げたのだから。

 要するに、こういう話だろうか。インドネシア動物園で飼育されるメガネザルのクーは、自身を観察している研究者の眼鏡を奪って装着するという奇妙な癖を持っている。それが防衛本能なのか、人工物への興味なのか、研究者へのなんらかのアピールなのか、推測が飛び交って学会で話題になっている──これならありえないことはない。

 そんな論文や報告を見聞きしたことはないが、可能性を捨てきれない以上、科学は答えを性急に求めてはいけない。

 私はとりあえず「すごい」とめた。


「篠塚さん、お詳しいんですね」

「マジで信じちゃいました? くふふ。やーい、引っかかったー! 伏見さんサイコー!」


 ぎゃはははは、と子供みたいに笑いながら、篠塚さんは犬人たちの方へ走っていった。

 まんまとだまされた私は、篠塚さんの奇行に呆気にとられたが、我に返り、その小さな白衣の背中を追った。


 一行の目的地は南棟二階の会議室だった。元の用途としては使われておらず、幼い犬人たちの昼寝に活用されているらしい。

 室内に積まれていた簡易的な布団を床に広げる職員たちをよそに、篠塚さんと寝巻きに着替えた犬人たちは嬉々ききとして枕を投げ合う。床が布団で埋まると、今度は寝転がって騒ぐ。職員がカーテンを閉めて「早く寝なさい!」と声を張るなり、室内は嘘のように静まって、数分後には寝息が聞こえてきた。

 なんだこれ。ここが世界最高の犬人研究所?

 私は立ち尽くした。なぜおごそかな科学の場に、日常の忙しさが存在しているのだろう。


「すみません。今の時間はどういったものなのでしょう?」


 私は職員の女性に話しかけた。


「お昼寝の時間ですよ。そういえば、あなたは?」


 女性は全体的におっとりとした口調だった。私は自己紹介を済ませて頭を下げる。女性はくすりと笑う。


「替え忘れていますよ、名札」

「あっ本当だ」


 私は自分の胸元を見た。名札は東堂さんからもらったドリームボックス正規職員用のIDカードを収めた物ではなく、見学者用の物だった。観察室で替えるはずだったが、少女の観察に夢中で忘れていた。


谷村たにむらありさです。よろしく。先月、ポスドクから一般研究員になって、この子たちのお世話をしています。登山してきたってやつです」

「私もです。それで、本日からこちらへ転属になりました。勝手が分からずご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」

「堅苦しいのはやめませんか。私たち同い年ぐらいでしょう?」

「なら、そうします」


 言ってるそばから敬語を使ってしまい、私と谷村さんは小さく笑った。


「谷村さんも幼犬型犬人の研究を?」

「そんなところかな。お世話、だけどね」


 谷村さんはわずかに笑顔を硬くした。

 似た立場の人物と出会い、私は安心した。


「他に訊きたいこととかあったらなんでも言ってね」

「ありがとう。篠塚さん寝ちゃってるけど、あれはいいの?」

「大丈夫。しのちゃんはいつもああだから」


 彼女はマスコットキャラ扱いなのだろうか。私は苦笑いする。


「かなり若そうだけど、あの人も研究員? ポスドクならドリームボックスにいるのはおかしいし」

「まあ、みんな最初はそう思うよね」

「分かった。ここの重役の娘さんね?」

「それなら見学者の名札をつけてないとおかしいでしょ」

「となると?」

「超絶天才美少女ってこと」


 その単語を聞いたのか、寝ていた篠塚さんが転がってくる。


「お呼びですか」

「失礼だけど、篠塚さんって何歳?」と私。

「にじゅっちゃい」


 篠塚さんは舌足らずな言い方で答えた。


「二十歳で研究員?」


 優秀にもほどがある。私より一回りも年下ではないか。圧倒されていると、篠塚さんが「ノンノン」と鼻歌を歌うように言う。


「専門は文化人類学と社会心理学。これでも上級研究員です」

「本当に頭いいんだ」

「遊んでばかりいますけどね、あはは」


 私は篠塚さんを見直した。アカデミックな世界にいると、平均レベルとはかけ離れた逸材を見かけることはあるが、これほど桁違いなのも珍しい。


「だあ!」


 篠塚さんの笑い声の中で、ぴょこんと犬の尾が唐突に現れた。匍匐ほふく前進の姿勢で布団を上半身にかぶった少女が、私たちを指差した。


「起こしちゃったみたい」


 谷村さんが微笑んだ。


「だああ〜」


 布団から出た少女は積み木を手にして立つと、にらんだ。私は試しに一歩分ずつ左右に移動してみた。すると少女は明らかに私が立つ方向に眼光の照準を合わせた。

 不満そうに口をとがらせている姿は可愛かったが、犬人の力は幼犬でも強いと聞く。私を威嚇しているのは正真正銘「犬」という動物だった。

 反射的に数歩下がる。


「取らないってば」

「どういうこと、伏見さん?」

「あの子、私におもちゃを奪われると勘違いしてるみたいで」

「だだー!」


 少女はよちよちと歩いて近づいてくる。

 どう対応するのが正解なのか。私は迷ったが、逃げても仕方がないので素直に待つことにした。そのはずだったが、少女は他の犬人の足につまずいて、綺麗に転倒してしまった。

 それを見ていた私たち三人は顔を見合わせた。予想した最悪の事態を瞬時に共有したのだ。下敷きになった子が泣き出し、もらい泣きが部屋中に広がっていく──そして実際にそうなった。

 谷村さんや他の職員がすかさず動き出し、泣いている犬人たちを手当り次第になだめていく。

 私と篠塚さんは少女に近寄った。少女はしゃっくりを挟みつつ、うええん、うええんと泣き声を上げて全身を震わせていた。痛みよりも周りの反応が不安な様子だ。落ち着かせようにも、少女が私のことを警戒対象として認識しているとすれば、対処するすべがない。


「良かったらこれどーぞ」


 逡巡しゅんじゅんしている私に、篠塚さんがこっそりと見せたのはあの積み木だった。少女の目を盗んで拾ったようだ。


「なんで直接渡さないの?」

「六号ちゃんから信用を得た方が今後のためですよ」


 篠塚さんのはからいに感謝し、私は少女に積み木を示してみる。


「だ、だーだぁ!」


 少女は泣き止むと、私の方をまじまじと見上げた。

 相変わらず奪うように取ってきたが、遊戯室の時よりは乱暴さが薄らいでいた。鼻水をすすって、積み木を撫でる少女の尾は上機嫌に揺れていた。

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