犬人を産む

園山制作所

1ヶ月 犬は子供

1

 あれが子を生んでわたしはわたしの膝にその子を受け取ります。そうしたらわたしもまたあれによって子供を得ることになります


 ──『旧約聖書 創世記』(第三十章三節)



 墓で眠る子供が増えた。

 二人から四人。数字では規則正しい細胞分裂のように見えるにもかかわらず、それらは全てついえた命だった。

 私は軽く背を反らし、脱力した。軽い目眩。体調は完全には回復していない。

 隣にいる母は、今も沈痛な面持ちで墓に向き合っている。

 髪についた花びらを払い落とし、自家の墓の真後ろを見る。そこには苔だらけだが綺麗な頭の形をした地蔵が立っている。幼い頃、この地蔵の頭をぺたぺたと叩いて、母に怒られたことを思い出す。もう何年前になるのだろう。


「ねえ、お母さん」


 地蔵の話を振ろうとしたが、母の口からは何も返ってこなかった。


「帰ろうよ」


 子供時代の口調に戻っていると気づき、私は黙った。

 以前に供えた花はしわくちゃにれていた。母は無言で、花をビニール袋に詰めて片付けた。花屋で買った時は色鮮やかだったが、今ではその面影もない。時の流れは残酷で、どんな物も古くなる。作業する母の手には隠しきれないしわが深く刻まれていた。

 この人も歳を取ったんだ。

 ぼんやりとした膜が張るような意識の中で、そう思った。


 帰ることになり車に乗った。私は運転席の後ろに座った。母の車ではいつもそこだった。

 白髪混じりの母の頭から目を逸らし、サイドガラスにこめかみを預ける。

 やや傾斜した電柱。雑草が生い茂った庭が広がる空き家。所々が剥げたアスファルトの道。何と何を隔てているのか不明な、錆だらけのフェンス。生まれ育った田舎町の景色は、何年も姿を変えていなかった。しかし、過去には存在していたのに、今ではひとつ残らず消えたものもある。


「犬がいない」


 私は言った。


「犬小屋、この辺にもないんだね」

「今さら言うこと?」


 母も辺りを見回した。


「そうだけどさ。お母さん覚えてる? 昔、お墓に上がる道の途中にある一軒家の庭に、なっちゃんっていう名前のでかい秋田犬がいたじゃん」

「そうだっけ」

「まさかもう認知症……」

「もうって何よ、もうって。いつかボケる前提なのね?」


 車内はくすくすと笑い声に包まれる。女同士の笑いには共犯者の響きがあり、居心地がいい。


「なっちゃん、大きかったなあ」

「そんなに?」

「本当に覚えてないんだね」

「うん」

「お母さんとはあんまり出くわさなかったのかも。あの子、庭に出てる時とそうじゃない時があったから」


 言い終えてから失言だったと後悔した。

 あの墓場に行く際、必ず上がらなければならない坂道にいる犬なのに、自分だけが知っているという状況は不自然だった。

 これまで、墓参りは母と一緒でなければいけないとする暗黙の了解があった。だが実際は、昔から私は母に隠れて頻繁に墓の方まで散歩に行き、その道中でなっちゃんに触れていた。


「……残念だったね」


 孫らしき子供と横断歩道を渡る老夫婦を目で追いながら、母が言った。

 なっちゃんの凛々しい顔、美しい毛並みをした体、獣臭さがよみがえる。

 バックミラー越しに母と目が合う。


「仕方ないよ。可哀想だったけど」

茉菜まなちゃん」


 信号の色が変わる寸前、母はこちらに振り向いた。


「あんまりそうやって、自分に起こった悪い出来事を他人事みたいにしてちゃ駄目よ。本で読んだけどね、悲しいことがあったとしても、心から受け止めないといつまでも解決しないんだって。心理的には。宙ぶらりんで、引きずってるのが一番駄目なんだって」

「でもさ、仕方なかったじゃん」

「だからそうやって──」

「人類滅びそうだったし」

「ああ……」


 母は気の抜けた声を上げて、車を発進させる。


「なんかごめん、本当に認知症かも。勘違いしてた。茉菜ちゃんが話してたのはそっちの話?」

「見事に噛み合ってなかったね」


 私は肩を震わせて笑う。


「お母さんが話してたのは、なっちゃんじゃなくて私の子のことか」


 母が息をむのが聞こえた。


「私の責任ね。……バチが当たったのかも」

「非科学的」

「茉菜ちゃんは信じてないから分からないかもしれないけどね、そういうものは実際にあるのよ」


 私はため息をついた。とは何かを論理的に説明してほしかったが、母がそれを語ったことはない。

 悔やむぐらいなら、最初から犬に手を出さなければ良かったのに。

 不愉快な気分になった。運転席の背もたれを蹴飛ばしたくなり、そっとつま先を忍ばせたが、途中で止めて足を組み直す。再び体を横へ傾ける。生ぬるいガラスからどれだけ外を眺めても犬小屋は姿を見せない。

 日光は、閉ざされた暗闇をほのかに赤く染めた。それはまぶたの本来の色だった。

 車に揺られて、ねばっこい眠気と共に、ある一匹の犬が頭に浮かんでくる。なっちゃんではなく、小汚く哀れにやつれた一匹の犬。

 心の中でその犬を呼んだ。

 お母さん。



 遊戯室の奥には一匹の少女がいた。

 空色のスモック姿のその少女は五歳児ほどの体躯たいくだった。丸っこい顔に、前髪が切りそろえられたショートヘア。頭部に生えた犬の耳、臀部でんぶから生えた犬の尾が目を引くが、透き通った白髪と青色の瞳も一段と特徴的だった。

 少女は、同室にいる他の個体を気にしながらも常に独りで遊んでいる。主に使う玩具は積み木だった。積み木を手にする少女はとても満足気だったが、正しい遊び方を知らないようで、それを床に並べるだけの作業に没頭していた。

 定期的に職員が室内に入ってくると、他の個体はそちらに関心を向けるが、少女は警戒心と不安感で顔を暗くする。職員が何かしらのアクションをとったわけでもないのに、声を上げて泣くことさえあった。

 少女の歩行は不安定で危うさがあった。そのため、両手と両膝を床につき、赤ん坊のように進むことが少なくない……。

 ドリームボックス南棟の観察室で、私はとある少女の行動を二時間ほど眺めていた。

 観察室は遊戯室の隣にあり、接する壁の大部分が特殊な強化ガラス板で仕切られている。観察室の方から遊戯室の中を見ることはできるが、逆はできない造りだ。

 廊下側のドアが開く音がする。ここで見ていて、と私に命じた東堂とうどうさんが戻ってきた。「遅くなってごめん」と謝る彼女に、声をかける。


「この子たちが新しい犬人いぬびとですか?」

「ええ。幼犬型犬人。今年の春に産まれたの」


 東堂さんはにこやかに答えた。

 ドリームボックスでも研究は始まったばかりか。私は驚いたが、同時に、そこに仕事があり、自分が求める答えがあるかもしれないという期待感が強まる。


「あそこにいる個体で全部でしょうか」

「今のところはね」


 遊戯室にいる犬人たちは三十三匹。数字に引っかかるものがあって、軽く眉を寄せる。今年で三十三。愉快な数字ではなかった。邪魔でも入って止まるなら苦労しない。


「犬種は柴?」

「雑種犬。ベースが柴。あと、シェパードとラブラドールも混じっている」

売れ筋ベストセラーの構成ですね」

「最も普及したモデルを使わなければ実験の意味がないもの、当然よ」

「それでは……私の仕事はどのようなものになるのでしょうか」


 東堂さんの顔から笑みが消えた。


「幼犬型犬人の行動理論の構築と言いたいけど、そうもいかないか。伏見さんは数日前まで博士研究員ポスドクだったわけだし」

「今は一般研究員です」

「それはそうなんだけど。でも、観察していてあそこに問題児がいるって気づいたでしょう?」

「第六号ですか」


 遊戯室の方を尻目に見る。

 例の少女がこちらを凝視していた。目が合って、私は焦った。


「そう。製造時にミスがあったのかは不明だけど、協調性や行動全般、言語能力の発達が他の個体より遅れている」

「幼犬の経過観察を行うのなら、目立った問題ではないのではありませんか」

「いいえ。他の個体もスタッフも六号の扱いに困っているの。だから、ある程度の発育レベルまで育てないといけない」


 嘘でしょう?

 言葉が喉に詰まった。脇が冷や汗で湿る。会話の流れから推測するまでもなく、これは──。


伏見ふしみさん」


 改まって呼ばれて、私は学生のように「はい」と返事をする。


「今後は本格的にここの研究に参加してもらうけど、それよりも先に六号を教育してほしい」


 東堂さんの顔つきは、困惑と安堵あんどが混ざったような、感情が読めないものだった。あなたが断るとこちらは面倒です、という含みを与えてくる大人のそれだ。


「いつまでに、ですか?」

「可及的速やかな解決を希望している」

「あの、マニュアルとかは」

「前例を作るのがここでのあなたの初仕事」


 冗談がきつい。

 逃げ出したくなったが、やるしかない。歩き出した私の足は、自然と遊戯室に進んでいた。


 部屋の中に入り、少女に向けて手を振る。


「こんにちは。六号ちゃん」


 少女は肩をこわばらせた。すかさず積み木を捨てると、小さい本棚の物陰に逃げていった。頭隠して尻隠さずの状態で、ロール状の尾が丸見えだった。

 私は足音を抑えて近づき、相手より視線の位置が高くならないように腰を下ろす。


「驚かせてごめんね。私は伏見茉菜ふしみまな。これからあなたのお世話をすることになったので、よろしくね」

「だぁ」

「だ?」

「だ!」


 せっかく隠れたのに、とでも言いたげに、少女は顔を半分出した。


「六号ちゃんどうしたの?」

「あだだーぁ」


 可愛らしい喃語なんごだが、何やら真剣そうだ。


「もしかして、私の名前?」

「だーだ」

「うーん。先生って呼んでくれると嬉しいかな」

「だあ」

「難しくないよ」

「だ、だあだ」

「一緒に言ってみよっか。せんせい、せんせい。ほら、せんせい」

「だあだ……」


 少女は、ぷいっと顔を背けた。最後に聞こえた「だ」に涙の気配を感じて、私は慌てる。


「急に来ちゃったもんね、びっくりしちゃったか」

「だだー」

「心配せずとも帰るから。でも、次は私と一緒に遊ぼ?」


 顔を引っ込めた少女はもはや何も反応も示さない。

 私は一度立ち去ろうとしたが、足元に転がる物を見つけてかがむ。少女が本棚に隠れる前に持っていた積み木だった。

 次の瞬間、少女は「だっ!」と威嚇のように吠えた。再度、小さな顔が出てくる。瞳はうるんでいた。


「だあーだっ」


 怒った顔の少女がずいっと手を伸ばした。

 そこでようやく少女が言いたかったことを理解した。


「これを……私に取られちゃうと思ったの?」

「だああ〜だっ!」

「あ、ごめん! そんなつもりはないから」


 おそるおそる積み木を渡した。少女は差し出された積み木を両手で掴み、自分の方に寄せると、それをじっと覗くように見る。少女の顔に純粋な笑みが浮かんだ。


「そのおもちゃが好きなんだね」

「だあ」


 ほっとした私は近づこうとしたが、少女は首を横に振ると、本棚の陰に戻った。

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