犬人を産む
園山制作所
1ヶ月 犬は子供
1
あれが子を生んでわたしはわたしの膝にその子を受け取ります。そうしたらわたしもまたあれによって子供を得ることになります
──『旧約聖書 創世記』(第三十章三節)
*
墓で眠る子供が増えた。
二人から四人。数字では規則正しい細胞分裂のように見えるにもかかわらず、それらは全て
私は軽く背を反らし、脱力した。軽い目眩。体調は完全には回復していない。
隣にいる母は、今も沈痛な面持ちで墓に向き合っている。
髪についた花びらを払い落とし、自家の墓の真後ろを見る。そこには苔だらけだが綺麗な頭の形をした地蔵が立っている。幼い頃、この地蔵の頭をぺたぺたと叩いて、母に怒られたことを思い出す。もう何年前になるのだろう。
「ねえ、お母さん」
地蔵の話を振ろうとしたが、母の口からは何も返ってこなかった。
「帰ろうよ」
子供時代の口調に戻っていると気づき、私は黙った。
以前に供えた花はしわくちゃに
この人も歳を取ったんだ。
ぼんやりとした膜が張るような意識の中で、そう思った。
帰ることになり車に乗った。私は運転席の後ろに座った。母の車ではいつもそこだった。
白髪混じりの母の頭から目を逸らし、サイドガラスにこめかみを預ける。
やや傾斜した電柱。雑草が生い茂った庭が広がる空き家。所々が剥げたアスファルトの道。何と何を隔てているのか不明な、錆だらけのフェンス。生まれ育った田舎町の景色は、何年も姿を変えていなかった。しかし、過去には存在していたのに、今ではひとつ残らず消えたものもある。
「犬がいない」
私は言った。
「犬小屋、この辺にもないんだね」
「今さら言うこと?」
母も辺りを見回した。
「そうだけどさ。お母さん覚えてる? 昔、お墓に上がる道の途中にある一軒家の庭に、なっちゃんっていう名前のでかい秋田犬がいたじゃん」
「そうだっけ」
「まさかもう認知症……」
「もうって何よ、もうって。いつかボケる前提なのね?」
車内はくすくすと笑い声に包まれる。女同士の笑いには共犯者の響きがあり、居心地がいい。
「なっちゃん、大きかったなあ」
「そんなに?」
「本当に覚えてないんだね」
「うん」
「お母さんとはあんまり出くわさなかったのかも。あの子、庭に出てる時とそうじゃない時があったから」
言い終えてから失言だったと後悔した。
あの墓場に行く際、必ず上がらなければならない坂道にいる犬なのに、自分だけが知っているという状況は不自然だった。
これまで、墓参りは母と一緒でなければいけないとする暗黙の了解があった。だが実際は、昔から私は母に隠れて頻繁に墓の方まで散歩に行き、その道中でなっちゃんに触れていた。
「……残念だったね」
孫らしき子供と横断歩道を渡る老夫婦を目で追いながら、母が言った。
なっちゃんの凛々しい顔、美しい毛並みをした体、獣臭さが
バックミラー越しに母と目が合う。
「仕方ないよ。可哀想だったけど」
「
信号の色が変わる寸前、母はこちらに振り向いた。
「あんまりそうやって、自分に起こった悪い出来事を他人事みたいにしてちゃ駄目よ。本で読んだけどね、悲しいことがあったとしても、心から受け止めないといつまでも解決しないんだって。心理的には。宙ぶらりんで、引きずってるのが一番駄目なんだって」
「でもさ、仕方なかったじゃん」
「だからそうやって──」
「人類滅びそうだったし」
「ああ……」
母は気の抜けた声を上げて、車を発進させる。
「なんかごめん、本当に認知症かも。勘違いしてた。茉菜ちゃんが話してたのはそっちの話?」
「見事に噛み合ってなかったね」
私は肩を震わせて笑う。
「お母さんが話してたのは、なっちゃんじゃなくて私の子のことか」
母が息を
「私の責任ね。……バチが当たったのかも」
「非科学的」
「茉菜ちゃんは信じてないから分からないかもしれないけどね、そういうものは実際にあるのよ」
私はため息をついた。そういうものとは何かを論理的に説明してほしかったが、母がそれを語ったことはない。
悔やむぐらいなら、最初から犬に手を出さなければ良かったのに。
不愉快な気分になった。運転席の背もたれを蹴飛ばしたくなり、そっとつま先を忍ばせたが、途中で止めて足を組み直す。再び体を横へ傾ける。生ぬるいガラスからどれだけ外を眺めても犬小屋は姿を見せない。
日光は、閉ざされた暗闇を
車に揺られて、
心の中でその犬を呼んだ。
お母さん。
*
遊戯室の奥には一匹の少女がいた。
空色のスモック姿のその少女は五歳児ほどの
少女は、同室にいる他の個体を気にしながらも常に独りで遊んでいる。主に使う玩具は積み木だった。積み木を手にする少女はとても満足気だったが、正しい遊び方を知らないようで、それを床に並べるだけの作業に没頭していた。
定期的に職員が室内に入ってくると、他の個体はそちらに関心を向けるが、少女は警戒心と不安感で顔を暗くする。職員が何かしらのアクションをとったわけでもないのに、声を上げて泣くことさえあった。
少女の歩行は不安定で危うさがあった。そのため、両手と両膝を床につき、赤ん坊のように進むことが少なくない……。
ドリームボックス南棟の観察室で、私はとある少女の行動を二時間ほど眺めていた。
観察室は遊戯室の隣にあり、接する壁の大部分が特殊な強化ガラス板で仕切られている。観察室の方から遊戯室の中を見ることはできるが、逆はできない造りだ。
廊下側のドアが開く音がする。ここで見ていて、と私に命じた
「この子たちが新しい
「ええ。幼犬型犬人。今年の春に産まれたの」
東堂さんはにこやかに答えた。
ドリームボックスでも研究は始まったばかりか。私は驚いたが、同時に、そこに仕事があり、自分が求める答えがあるかもしれないという期待感が強まる。
「あそこにいる個体で全部でしょうか」
「今のところはね」
遊戯室にいる犬人たちは三十三匹。数字に引っかかるものがあって、軽く眉を寄せる。今年で三十三。愉快な数字ではなかった。邪魔でも入って止まるなら苦労しない。
「犬種は柴?」
「雑種犬。ベースが柴。あと、シェパードとラブラドールも混じっている」
「
「最も普及したモデルを使わなければ実験の意味がないもの、当然よ」
「それでは……私の仕事はどのようなものになるのでしょうか」
東堂さんの顔から笑みが消えた。
「幼犬型犬人の行動理論の構築と言いたいけど、そうもいかないか。伏見さんは数日前まで
「今は一般研究員です」
「それはそうなんだけど。でも、観察していてあそこに問題児がいるって気づいたでしょう?」
「第六号ですか」
遊戯室の方を尻目に見る。
例の少女がこちらを凝視していた。目が合って、私は焦った。
「そう。製造時にミスがあったのかは不明だけど、協調性や行動全般、言語能力の発達が他の個体より遅れている」
「幼犬の経過観察を行うのなら、目立った問題ではないのではありませんか」
「いいえ。他の個体もスタッフも六号の扱いに困っているの。だから、ある程度の発育レベルまで育てないといけない」
嘘でしょう?
言葉が喉に詰まった。脇が冷や汗で湿る。会話の流れから推測するまでもなく、これは──。
「
改まって呼ばれて、私は学生のように「はい」と返事をする。
「今後は本格的にここの研究に参加してもらうけど、それよりも先に六号を教育してほしい」
東堂さんの顔つきは、困惑と
「いつまでに、ですか?」
「可及的速やかな解決を希望している」
「あの、マニュアルとかは」
「前例を作るのがここでのあなたの初仕事」
冗談がきつい。
逃げ出したくなったが、やるしかない。歩き出した私の足は、自然と遊戯室に進んでいた。
部屋の中に入り、少女に向けて手を振る。
「こんにちは。六号ちゃん」
少女は肩をこわばらせた。すかさず積み木を捨てると、小さい本棚の物陰に逃げていった。頭隠して尻隠さずの状態で、ロール状の尾が丸見えだった。
私は足音を抑えて近づき、相手より視線の位置が高くならないように腰を下ろす。
「驚かせてごめんね。私は
「だぁ」
「だ?」
「だ!」
せっかく隠れたのに、とでも言いたげに、少女は顔を半分出した。
「六号ちゃんどうしたの?」
「あだだーぁ」
可愛らしい
「もしかして、私の名前?」
「だーだ」
「うーん。先生って呼んでくれると嬉しいかな」
「だあ」
「難しくないよ」
「だ、だあだ」
「一緒に言ってみよっか。せんせい、せんせい。ほら、せんせい」
「だあだ……」
少女は、ぷいっと顔を背けた。最後に聞こえた「だ」に涙の気配を感じて、私は慌てる。
「急に来ちゃったもんね、びっくりしちゃったか」
「だだー」
「心配せずとも帰るから。でも、次は私と一緒に遊ぼ?」
顔を引っ込めた少女はもはや何も反応も示さない。
私は一度立ち去ろうとしたが、足元に転がる物を見つけて
次の瞬間、少女は「だっ!」と威嚇のように吠えた。再度、小さな顔が出てくる。瞳は
「だあーだっ」
怒った顔の少女がずいっと手を伸ばした。
そこでようやく少女が言いたかったことを理解した。
「これを……私に取られちゃうと思ったの?」
「だああ〜だっ!」
「あ、ごめん! そんなつもりはないから」
おそるおそる積み木を渡した。少女は差し出された積み木を両手で掴み、自分の方に寄せると、それをじっと覗くように見る。少女の顔に純粋な笑みが浮かんだ。
「そのおもちゃが好きなんだね」
「だあ」
ほっとした私は近づこうとしたが、少女は首を横に振ると、本棚の陰に戻った。
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