過去の遺産を老害らしく

 最近世間とあまり関わることなく生きている私でございます。


 まぁ、外に出ることといえば1日5時間のバイトのみ。通信制の学校じゃ友人なんてできるわけもなく、結果割と人と関わることなんて無い。



 そんな最中にふと感じたのが、自分がまるで定年を迎え余生を謳歌する老人みたいな話題しか持っていないということです。





 まぁこれを機に、私が学生で、かつ同級生に囲まれて生活していた頃の話題ってどんなものだったかなと思い出してみます。


 まぁパッと浮かぶのは、学校、勉強、部活の事務的出来事と、それに付随する感想に関する会話。


 それから、自らの趣味嗜好、好きな本や音楽やゲームや料理やエトセトラ。


 あとは、人間関係に関する会話、誰が好き、誰が嫌い、あいつが付き合い、こいつが別れた、とか。



 それらを振り返ってみて、学校に行く機会もなく、趣味を共有する人もおらず、他の人間とまともに関わることもない私にはできない話題ばかりだと今一度思うわけです。



 そんな私が、家族などと会話する時に縋り付くことができる話題の最たるものが、『昔の私はこうだった』。


 昔の私はこの勉強が得意だった。

 昔の私はこのスポーツができていた。

 昔の私は部活でこんなことを頑張っていた。


 まるで昔の自分のことを、伝記に載る偉人かのようにつらつらと話す。



 これに関して、まるで昔の自分と今の自分があたかも別人のようだ、と過去の記憶が私とは違う他人の記憶でないか疑う。

 また、もう昔の自分のようにはなれないのだ、と霧のように淡くかつ暗雲のように重たく感じるノスタルジーを覚える。



 ここまできて、


 あぁ、余生を過ごす老人が会話を切り出す時、こんな感じなのだろうか。


 なんて思ってしまうわけでございます。





 単に会話の引き出しがないだけなのでしょうかね?





 さて、話題が少しだけ視点を変えるのですが、皆様「老人の会話はうざったい」と思ったことはあるでしょうか?


 まぁ、ない方はあまりいらっしゃらないかもしれませんね。かく言う私もそんな感覚を覚えたことがあります。


 理由は簡単、『興味がない』。



 ……もう少し詳しく説明しましょうか。


 話し手の過去の自伝をありありと見せつけられるのは、聞き手にとってあまりに苦しいです。


 それを聞かされた聞き手は「それはすごいですね」と話し手を褒めてやれば良いのか。

 はたまた、聞かされてるその出来事とそのことに関する話し手の勇姿を、聞き手側に見習って欲しいのか。


 いずれにしろ、まるで聞き手の時間をすりつぶし、聞き手の考えなどお構いなしなその話し手の話題は、とてもじゃないがあまりにも押し付けがましく、会話のキャッチボールもまともに成り立つ気配もない。


 おそらくこの辺りが、私の推察する「老人の会話はうざったい」の大まかな形ではと思います。違ったらごめんなさい。



 ただ、こうやって私がそんな老人のような立ち位置になった時。段々と意味合いがわかってきた気がします。


 老人の話し手は、定年で仕事を辞める前などと比べて、あまりに人と会話する機会が減ってしまう。そんな環境下において、老人は話を聞いてくれる相手に飢えている。


 そして、あまり他人と関わることのない生活を過ごす中で、とてもじゃないが目新しい話題を探すのは難しい。他人と共有していない趣味嗜好の話もやはり押し付けに聞こえてしまい、話題としては不十分。


 その結果、「昔の自分はこうだった」みたいな一方通行な会話に落ち着いてしまうのではないか。




 まぁ実際に老人に聞くわけにもいかず、ただただ自分の自己満足な推察に落ち着いてしまうのが苦しいところですね。


 逆に老人からしたら、「お前みたいな社会生活もまともにできてない若輩者と一緒にするな」と一蹴されてしまいそうでもあります。






 あまり深めると孤立してしまいそうなので、今回はここまでで。

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